harujion

Mel

11
(医者視点)

町の教会の雑木林の中に、子供が倒れていると通報してきたのはその教会の神父だった。
用水路と少し離れた所でびしょぬれになって打ち捨てられていた、典型的な白人といった感じの少年。年頃は十代前半。日本人目線でみると縦に長い体躯に大人びた顔立ちをしているように思うが、貧相な体つきからしてそのくらいの年頃だろう。
子供は酷く衰弱し、死にかけていた。大量に水を飲んでおり、吐き出させることに成功しても、脈拍は弱く、呼吸も少ない。体力が無くなってしまっているのだろう。
彼は昏睡状態のままベッドで眠り続けた。
点滴で栄養を入れ続ける、痩せた子供を見ているのは辛かった。綺麗なプラチナブロンドと白い肌が病室には酷く似合いで、西洋人を見慣れていない僕たちからすると、彼はまるで天使だった。

一ヶ月が経ったころ、彼は昏睡から目を醒ました。眠っている間に十分な休息をとれたからだろう。
看護婦が呼びに来て、僕はすぐにその子の病室へ駆け込む。彼は、身体を起こして、ベッドの上に座っていた。眠っている間に瞼を押し上げて見た灰色よりも、起きてきょろりと動くそれは光を反射し生気を宿していた。
看護婦曰く日本語は理解できるらしく、日本語で話しかけた。
名前すら分からないという少年は酷く落ち着いた様子で、自分の記憶が無くなっていることを理解した。何故わからないのだろう、とぼんやりと首を傾げるところは、あまり子供らしくはない。細く衰弱した身体だったが、幼い子供という年齢ではないのかもしれない。人種が違うので年齢を推量るのがなかなか難しい。
心療内科の山崎先生を呼び少年のことを診てもらうと、やはり記憶喪失である事は確かなようだ。ただ、記憶喪失の人はもう少し暗いのだと言う。何もかも分からない自分に不安になるのだ。けれど彼はきょとんとしている。常識もあれば、人を気遣い、歩み寄ろうと微かな笑みを浮かべる。ただただ普通の少年に見えた。それが、少しだけ違和感だった。

目を覚まし容態も落ち着いたため精密検査をすることになったのだが、彼は悉く機械に嫌われるらしく、検査が中止に終わった。故障という事態にはならなかったが、彼が十秒以上触れると計測不可能やエラーの文字をたたきだすのだ。稀に機械と相性が悪いものもいるが、ここまで敏感な人間は初めてだった。意識が無い時に問題なく機械を使えたのが救いだ。
数日後、知能検査をすると、少年の知能は成人以上。現代社会の常識などはとんとわからないようだったが、普通の教科や簡単な知識などは優に平均を超えていた。見た目は、童顔大国の日本人からどう贔屓目に見ても、十三歳が限界。身体の弱さや体重なども考慮して中学生程度という認識になった。

「黒木先生、ちょっといいですか」
少年の診察を終えた僕を、山崎先生が呼び止めた。少年の話だろうと分かっていたので、休憩室へ向かう事にした。
「……もしかしたら虐待されていたのではないかと思うのですが」
「虐待?いや、外傷は無かったが」
言いかけて止めた。
少年が運ばれて来た際、傷や打撲などはなく、まっさらな肌をしていた。しかし、虐待は殴る蹴るの外傷を与えるだけのものではない。監禁し、わずかな食事だけを与える精神的に重たい虐待もあり得る。
身元不明と言う事で警察にも届け出たが、日本に入国した者の中に彼らしき人物はおらず、国内の捜索願を一掃しても見つからなかったと言う。そうなれば、意図的なものに考えが行く。
保護者は少年を捨てたのではないか。
勉強ができても世間知らずなことに納得がいってしまった。
「信じがたいけど……」
「ええ」
山崎先生と苦い顔をして結論付ける。
記憶の無い子供にその話をするのも憚れたので、彼を見つけて世話を申し出た、教会の神父である東條さんに事情を説明した。彼は面倒を見れなくなった子供などを預かったりもしているので、少年の話しを聞き悲しそうにため息をついて、引き取ると言った。
「いいんですか?」
少年は、表情を変えずに、僕や東條さんに向かって尋ねた。
いつまでも入院している訳にも行かず、記憶も戻らない今東條さんに預かってもらうことだけを説明したが、とても聡い子だからきっと色々と分かってしまったのだろう。
「俺、多分帰る所はないです。思い出しても、帰れ、ない」
ぽつりと零したのは彼が考えて言った事ではなくて、つい口を出た言葉だったのだと思う。きっと心の奥底で帰りたくないと思っているに違いない。
東條さんも僕もその言葉に胸が締め付けられる。
少年は戸籍を作る際に自分の年齢を、労働の出来る十六歳にしてくれと希望した。しかし目覚めたばかりで本調子ではないし、記憶もないのだからと反対した。説得の末、十五歳ということにして、中学に一年だけ通うことになった。
退院するころには、随分体力も回復していて、目覚めた頃よりもよく笑うようになった。しかしいつも笑みを携えているような子ではなく基本的には無表情で、面白い事があったり人と話すときはほんの少し目元を和らげる程度だ。ぎこちないわけではないが、子供の大人びた表情という感じで、僕にはどうも物足りなく思えた。

引き取るにあたって、新たに名前がつけられた。物心がついている少年に名前をつけるのは億劫だったが、彼に希望を聞いてしまえば楽だと思っていた。しかし、本人には何でも良いと言われて、我々も困る。
だが、しばらく考えたすえ、彼は読んでいた雑誌に載る俳優を指差して、同じ名前をつけると言った。
こうして、東條という個人が出来たのである。

退院してからも、最初の一ヶ月は週に一度検診にくることになっていた。
二週間もすればは当たり前の様に生活しており、今まで情勢のことは全く知らなかったようだがニュースの話なんかもする。
「明日から学校通うんだ」
突然黒髪で検診にやって来たにどうしたのだと尋ねると、眉を顰めて答えた。灰色の眸や白い肌は健在だが、プラチナブロンドは真っ黒に染められていた。
目立つから、という理由は至極当然であり、頷ける。この病院の中でも充分彼は目立つ存在だったのだから。中学に通えばもっと堂々と見られるのだろう。
「まあ、完全な日本人には見えないけどね」
は少し笑った。
「でも勿体ないね」
「ん?」
「綺麗な髪なのに」
「ありがとう。でも、のびて来る色は黒じゃないから。……染め直しが面倒だなあ」
少しのびてくれば明るいプラチナブロンドが顔をだすのだから、小まめに染め直さなければならない。その労力を考えて、自分の髪の毛をつまんで目を瞑るにふっと笑った。そればっかりは仕方の無い事だ。

退院して一ヶ月が経ち、も中学に通うようになってからは検診の頻度は減った。月に一度くらいという事になり、夏になる頃には身体はすっかり良くなっていた。しかし記憶の事もあるので、時々顔を見せにくるようには言ってある。また、僕らを医師としてではなく知人として接してくれているので、雑談をしに来てくれたりもする。愛想があまりなく遠慮のない物言いだけれど、人を真正面から見て素直な感情を向けてくれる彼は、人に好かれる。僕も山崎先生も、よく会う看護婦も、が好きだった。

冬が来ても、の記憶は戻らなかった。いや、彼が口にしないだけで、本当は戻っているのかもしれない。
いつだったか、彼に尋ねた。教会は寂しくはないか、と。東條さんが愛情を向けていないという疑いはこれっぽっちもないが、多感な少年にはどうしてもたりないものがあると思った。それを僕たちが埋めてあげられる筈はないけれど、どうにかの気持ちの端っこを見つけられないかと尋ねたのだ。
「寂しくないよ。家族は……もう充分だ」
そっと目を瞑った。遠くを見ていた灰色の眼球は見えない。潤んでいたか、淀んでいたか、確認できなかった。薄い唇はぴくりともせず、鼻から息を吐く様子だけが僕に読み取れる彼の機微。
虐待された記憶を思い出して、口を閉ざしているのだろう。本当は思い出してほしくはなかった。山崎先生も、彼が記憶を取り戻しているであろうことは気づいていたけれど、僕たち二人は はこのままの方が良いと思ったから何も言わなかった。新しい生活を、気に入っているようだったから。
「教会の子供たちも、神父さまも、好きだな。でも……そろそろ一人で生きて行けるよ」
ぎっ、とバネの音をさせて、彼は椅子から立ち上がる。
「本当はね、俺……そんな子供じゃないんだ」
は困ったように目を和らげた。
嘘の笑みを浮かべる時、人の目の奥は笑っていない、でも目以外の所はゆったりと緩ませる。本当の笑みは、目の奥も笑っているもの。
の笑みは、目以外の所にあまり変化がなくて、あまり笑っていることに気がつかない。長い前髪の奥に隠された眸がゆらいで、とろけるときが、彼の笑顔の合図。勿論口元を緩めることもあるけれど、それは普通に笑うときだけ。小さな笑みは、眸だけで表現するのだ。

うすうす気づいていた。彼は子供ではないと。でも、はやっぱり子供だ。純真で、優しくて、人を慈しむ心は子供のようにまっすぐだった。身体だけじゃない、気持ちも、ちゃんと子供だ。考え方ばかりが大人になってしまったんだ。
「でも、東條は、十五歳の少年だよ、まだ君は子供だ」
「そっか」
僕の発言を、すんなりとは受け止める。
「でも、普通孤児院とかって十五歳まででしょ。中学卒業したら働く気だったし、出て行くつもり」
「うーん、でも、中卒はおすすめしないな」
中学でも非常に成績は優秀らしい彼は、担任の教師や学年主任にも高校進学を勧められていることを知っている。公立高校であれば学費はそうかからないし、学費免除も狙える。国からの補助だって今も出ているのだから高校に行く余裕はある筈だ。
「まー……求人なんて力仕事ばっかりだったしね」
肉体労働は得意ではないらしいは苦い顔をした。

の意志はそう堅くもなく、僕や東條さん、学校の教師陣にこぞって中卒就職を反対されたため、あっさり諦めたらしい。そう急ぐ事は無いと言われて、そうか、と頷く素直さはすごいけど、時々危うくも感じる。
そして、年が明けてしばらくしてからは高校に受かった事を報告に来た。
「騙された」
「え?」
開口一番に、むすっとした顔をしながら……いやいつもこんな顔をしているけれど……吐き捨てるように言ったに尋ねる。
「高校行かないでバイトして、高認とれば良かった」
「ああ……そんなのもあったね」
結構難しいかもしれないけど、 にはそんなの問題ではないだろう。しかし周りの大人は、折角だから高校生活を送って欲しかったのだろう。僕だってそう思う。
「自分でちゃんと考えないと駄目だな」
「そういえばどこ高だっけ?」
「緑陵」
「え?千葉じゃないか」
てっきり都内の高校へ進むと思っていた僕は、ため息まじりに呟いた高校名にぎょっとする。ここから電車で一時間半くらいかかる、千葉の進学校だったはずだ。
「進路担当にそそのかされました」
ごん、と机に頭を落っことす音。は勧められるがまま高校進学を決め、受験をしたらしい。緑陵高校は関東圏でもトップレベルの高校なので、おそらく期待されてしまったのだろう。
「教会から通うんだろ?大変だね」
「んーん、あっちで下宿」
「え!」
「いや、教会にいつまでも俺が居たら駄目でしょう」
それは当然の事で、孤児院などは十六歳以上の子供の面倒はあまり見られない。東條神父はきっと助けるだろうが、の考えの方が当たり前のことなのだ。
「じゃああまり病院にも来られなくなるね」
「長期休みには来るよ」
「山崎先生には言った?」
「山崎先生にはさっき。で、ほら、書いてもらってきた」
「あー……診断書ね」
不潔恐怖症、と書かれた診断書をぺらりと見せてくれた。つまり潔癖性だという証明なのだが、実を言うと潔癖性ではない。何故その診断症がいるかというと、ゴム手袋を常用するためである。
彼はどうも機械との相性が最悪であり、電子機器類は十秒素手で触れ続ければたちまちエラーやクラッシュを起こすのである。中学でもパソコンの授業は行われて居り、手袋をして行ったら教師に注意をされたらしい。潔癖性なのだと言っても、普段から着用しているわけでもなかったので許してもらえず、止む終えず手袋を外してパソコンを操作したが、きっかり十秒後にのコンピュータはエラーを起こした。席を移動し新しい機械に移っても十秒でエラー、もうパソコンは無いということで、隣の席の友人の見学ということになったらしい。それ以降は心療内科の山崎先生に協力してもらい、不潔恐怖症と言う病名を偽ってもらっている。こんなことをしたらいけないのだけれど、の体質をなるべく隠してあげたいということで、僕たちだけの秘密だ。
中学では診断書のお陰で手袋の着用は認められたが、環境が変わればまた面倒なことになるのだろう。だから山崎先生に一筆お願いしたと言う事である。
「いろいろ、がんばって」
「……どうも」
そんなこんなで、春先に目を覚ました天使みたいな子供は、無愛想な黒髪の男の子になって冬の終わりに病院を去ったのである。

next




June.2014