20
(坂内視点)
学校の屋上に来て、携帯電話を取り出す。最後に東條さんの声が聞きたかった。
電源を入れれば着信が一件、東條さんだった。心が温まるのと同時に、僕の大切な人を侮辱した松山に対する憎しみがどろりと零れる。
最近東條さんとちゃんと話も出来ていなかったから、きっと東條さんも心配してくれたんだろう。その気持ちが嬉しい。別れの挨拶をしよう。それで、言っても言い切れないけど、お礼を言いたい。東條さんのお陰で、僕はこの高校に入って良かったと思うことができた。
数コールの後に、もしもし、と声が聞こえる。
「———東條さん」
僕の声は震えていた。
『今、何処に居る?坂内』
マスクをしたままなのか、少し聞き取りづらい。
「学校です、僕———もう、我慢ができなくて」
死のうと思います、とは言わなかった。一瞬だけざざっと音が切れたと思ったら、東條さんが落ち着いた声で何かあったのかと尋ねる。聞き取りやすい声になっていて、きっとマスクを外したんだと思う。
東條さんは、最近会えなかったからと、案の定心配してくれていた。
「東條さんの所為じゃないです」
『どっちでもいい、だから、ちゃんと話して』
東條さんが少し早口で言った。
『全部、不安なこと吐いて』
僕はその言葉に、涙が出る。
「松山が……許せない」
松山への憎悪が足元から溢れてくるみたい。
悔しくて、悔しくてたまらない。
「東條さん、ありがとうございました」
ぷつ、と電話を切る。せめて、東條さんの声を届けてくれたこの携帯をもって行こうと握りしめて、フェンスから、手を離した。
ふわりと、空中に身を投げ出しせば、浮遊感に内臓が震える。
「坂内!!!」
僕は夜空を見ていた。そこに、一瞬で映り込んだのは、東條さんだった。
ここは、フェンスの向こうで、地面の無い場所。東條さんはまるで空を飛んでいるみたいに、僕に向かって来た。
うそだろ、この人、僕を助ける為に飛び降りたんだ。
この人は死なせたくない。伸びて来た手を掴んで、抱きしめた。思いのほか早く、弱い衝撃とともに地面に落ちた。ちょっと痛いくらいでは済まないはずの場所から飛び降りたのに。
ばしん、と肌が打たれる音。頬が痛み、首をひねった。歯に口の中を切られて、鉄の味がする。
痛い、でも、死ぬときはもっと痛いんだろう。
僕は東條さんに頬を打たれたのだ。
そして、どういうわけか、屋上に座り込んでいた。
「え、」
僕は確かにフェンスを越えていたのに。
「おまえの人生は誰のものだ?」
ハアハアと肩で息をしている東條さんが声を震わせた。怒りの滲む声だった。彼は、僕を睨んでいる。
じんじんと痛む頬と、流れ続ける涙で、視界がぼやけて東條さんの顔はもう見えない。
「ぁ、ぁいつ、東條さんの事、馬鹿にしたんだ……」
「そんなの、坂内が怒る必要ない……でも、ありがとう」
泣きながら、東條さんに縋る。細い肩、薄い胸板、日に焼けない白い肌。一見脆弱な身体の中には、きっと強い光で満たされているのだろう。だからこんなに温かいんだ。
東條さんの掌が、僕の後頭部をくしゃりと撫でる。
「恨みに呑まれちゃ駄目だよ。坂内の周りには松山しかいないわけじゃない」
久々に、東條さんの生の声を聞く。
この人は元来口数の多いタイプではないのに、僕の為に沢山の話をしてくれる。いつも、喋るのが苦手だから支離滅裂でごめんねと苦笑していたけれど、東條さんのくれる言葉は全部大切な宝物だった。
「俺がいるじゃない」
東條さんはゆっくりと身体を離して、手袋を取っていた。マスクをとるのを見た事はあったけど、手袋を取るのは初めて見た。ぴっちりと密着するタイプだから形は分かっていたけど、爪が細長くて、綺麗な手をしていると思った。
「東條さん……」
少し長い指が目前に迫って来て思わず目を瞑る。ぐい、と頬や目の周りについた涙を拭われたのだと気づいてまた目を開いた。潔癖性だと聞いていたけれど、今日こうして僕を抱きしめて素手で触っていることは、その体質は嘘なのだろうか。
「おまえがいないと、俺はかなしい」
色素の薄い瞳が僕を見た。
ひんやりとした掌が伸びて来て、腫れた頬を労るように包むから、僕はまた少し泣いた。
東條さんは家に来て、両親に事情を説明までしてくれた。
僕が屋上から飛び降りようとしていたこと、それが教師とのそりが合わなかった所為だということ、学校側は対応をしてくれないこと。呪いの事は言わなかったけれど、僕が松山に大変な事をしたことも、ちゃんと話した。
責めるなら自分だけで勘弁してくれ、と東條さんは土下座した。
両親は、僕を助けた東條さんに、彼と同じくらい頭を深く下げた。
"坂内の周りには松山しかいないわけじゃない"と東條さんは言った。
僕の周りには、僕をいっぱい助けてくれて、一番感謝されるはずなのに土下座をしてくれる先輩がいる。その先輩に感謝して、泣いて頭を下げてくれる両親がいる。
僕は、松山を許せないけれど、松山にした事は許されることではない。
取り返しのつかない、そして、償わなければならない罪を負っても、僕はまた死のうとは思わなかった。
僕はまだ、生きていたい。
July.2014