harujion

Mel

34

獣がナルに飛び込もうとする前に俺の身体を差し出せば、体内に重たく禍々しいものがずくんと入り込んだ。
少し気が遠くなり、頭が真っ白になる。誰かが俺を抱き起こし、揺さぶるのがわかった。メル、と呼びかけられて、意識をたぐり寄せる。
中に、何かが居て俺の身体を乗っ取ろうとしている意志を感じる。
前髪を払いのけながら、けほっと咳き込む。顔を覗き込まれ、大丈夫だと告げようとしていると、ナルの手をジーンが掴んで距離をとった。おそらく霊が居るのだろう。酷く気だるく、意識を引っ張られて行く感覚がする。
心をこじ開けられる開心術と少し似ていた。
俺の身体をくれてやるつもりは無いので、歯を食いしばって抵抗した。乗っ取られるのは本意ではない。
出て行けという一つの意志をたぎらせる。それ以外は考えない。
ぱちぱちと火花が散る音がした。力を入れすぎている自覚はあるけれど、限界まで拒絶した。
我慢比べは、俺の勝ちだった。とうとう根負けしたらしく何かが抜けた途端、身体が自由になりぷはっと息を吐き出した。
「出た」
「出たぁ!?」
肩で息をしながら報告すると、滝川は思い切り顔を顰めて驚愕の声を上げる。
呼吸も、鼓動さえも忘れていたようで、身体は急速に酸素を欲した。
疲労感が重くのしかかる中、ぱしんという音と、頬を打たれる衝撃に意識が劈かれた。
平手打ちをしたのはジーンだ。愚かな事をして怒るのはナルだけど、危ない事をした時に怒るのはジーンだ。だが、皆はジーンが怒ったのを見た事がないのか、驚き声を失う。俺だってここまで怒ったジーンは見たことがない。
ぴとり、と頬に手を当てると熱を持っている気がする。そりゃあ、叩かれたし痛いし、当たり前だけれど。
悪びれずに謝罪すると、ナルもジーンも深く溜め息を吐く。
「冷やして来る」
闇色の眸から逃げるように、立ち上がる。じんわりと熱をもち、ひりひりと痛む頬。
殴られるのは、そういえば、初めてだな。
この世界は未来が見えないから、彼らがどれほど危険な目にあい、どうなるのか、俺には全く分からない。
だからこそ、恐ろしいのだ。
滝川が慌てて着いてきてくれたので、お説教しそうなリンは着いて来なかった。しかし滝川はリン以上に面倒見の良いお父さん気質だということを思い出した。
頬を冷やしていると畳に座り込んで話しかけられるので、付き合う事になる。
わしわし、と乱暴に頭を撫でる手つきは手慣れている。リンは俺の腕を引いたりするのは慣れているが、頭を撫でるような愛玩はしない。汗をかいている頭を撫でられるのが嫌で、顔をしかめるとすぐに手は離れて行った。
その大きな手を見送り、視線を落とせば自分の小さな身体が目に入る。せめて歳上だったのならば、もう少し生きやすかったかもしれない。
「あのなあ……助けられる方の身にもなれ」
「助けられなかった時に後悔したくない」
白い腕の先の、ゴム手袋に包まれた掌をゆるく握って、開いた。
俺は、ナルとジーンみたいに危険を回避できる頭脳は持っていない。姿くらましの力を持ったまま生まれたのが唯一の救いだ。
今持っている力が無ければ、ジーンも、坂内も、麻衣も、多分助けられなかった。
この力があるのは、俺が人を助けるため。

「ごめんね」

滝川が深い溜め息をついたので謝る。
心配させた事は分かってるし、悪いとは思っているのだ。
相手の事を考えろと言いたいのは分かる。でもそれは一般論だ。実際に目の当たりにした際、何も出来ない自分は酷く歯がゆい。そして、後悔が待ってることを知っている。ならば何かすべきだ、というのは経験からはじき出した答えであり、俺の信念だ。
「さてはお前さん、反省はしても直さないタイプだな?」
「そうだね」
「まぁた怒られてビンタされても知らんぞ」
「このくらい安い。……だって、————生きているんだから」
身を呈した後、怒られて殴られるくらい安いものだ。
俺も、相手も、生きていると言う事。
だから俺は、約束は破るし、裏切る。
絶望させてでも、後悔したくないから。

次の日、目が覚めたら寝泊まりしている部屋には誰もいなかった。布団はきっちりと片付けられており、広い部屋に俺のものが一つ。時間を確認すればもう昼すぎだ。随分眠っていたみたいだが、昨日相当疲れた事を思い出して納得する。もう一度寝たいくらい気怠くて、寝返りをうって枕を握る。
その時、襖が開く音がしたので顔を向けると、荷物を持ったジョンの姿。
「あ、起こしてしまいましたですやろか……すんまへん」
「ううん、起きてた。今来たの?」
「はいです。原さんと一緒に」
ジョンは俺が居る事を聞いていたのだろう、俺を誰だと思う事は無い。それに、自身も外国人だ。
「昨日はえらい大変だったそうどすね」
「ああ、うん」
「渋谷さんに念のためお祈りを頼まれたので、させてもろてもよろしいどすか?」
「ありがとう」
起き上がってジョンに向き合い座る。ジョンが聖書を朗読するのを目を瞑って聞いた。
柔らかく落ち着いたそれは、霊が居なくとも、心が洗われる気分だ。
「疲れが飛んだ気分」
時間が経って目が覚めただけだろうが、意識がしゃっきりとする。

身支度を整えてベースへ行けば、ナルとリンとジーンと真砂子の姿があった。
「おそよう」
ジョンの姿は無く、すでに調査に加わったようだ。
「こんにちは、お久しぶりですわね、さん」
「久しぶり。原さん」
着物姿の真砂子は和室がよく似合う。
姿勢よく正座して、ゆったりと首を傾げて微笑む姿は絵になっていた。
「調子はどうだ」
「痛い所とかはない?」
ナルとジーンに問われ、頬が痛いと言えばジーンが言葉に詰まる。
「自業自得だ」
ジーンがぎこちなく謝る声に被せてナルは叱った。
「お前は今日一日リンとここで事務仕事だ」
「はーい」
頭を掻いてナルの指示に従った。

ジーンとナルと真砂子が、霊視した話をしているのをぼんやりと聞くと、どうやら色々分かって来ているらしい。ただし霊媒の言う事を全て鵜呑みにして調査終了とはならないので、調べものや裏付けをする必要があるようだ。ナルが調べ物に行くならそっちに着いて行こうかと思ったが、どうやら昨晩安原の事も呼び出していて、朝一番にこちらについているのだという。沖縄でバイトの予定だったと言うのに不憫だなあ。

今日は怒濤の一日だったらしい。
次男の自殺未遂、子供二人の憑依霊を麻衣が落として背中に九字の火傷を負う等々。そして夕方には、長男の嫁が、子供に怪我をさせ護符を持たせたのは誰だと乗り込んで来た。
普段の様子等知らないが、護符を持たせて困るのは憑依霊だけで普通の人間に害はない。滝川が渡した護符を、掌の上で燃やしてみせ、綾子の七縛にかかりジョンが落とした。
夜には、安原が調べ物に帰って来て報告をしている際、次女の奈央が行方不明だと問題になった。滝川とジョンも手伝い身内と探しているが、見つからない。
その間に俺たちは安原からの情報をまとめ、ナルやジーンは思い当たる節があるのか黙りこくって考え事をしていた。推理は二人に任せて、俺はモニタを監視していたが、ふと洞窟の入り口に何か影が見える。
あそこには死体が流れ着くという話と、奈央が行方不明だという現状を照らし合わせて、すぐにひとつの可能性が浮かんだ。
あれは、死体か。
「リン……洞窟だ」
小さな声で呟いたつもりだったけれど、部屋の中に居た人は全員俺の言葉に反応してこちらを見た。リンはモニタを確認してからナル達とアイコンタクトをとって部屋を出て行った。
俺はモニタを覗き込もうとやって来た麻衣と綾子の前に手を出して止めた。
「お前たちは見るな」
ナルが冷ややかに一蹴し、双子が俺の隣に来てモニタを確認する。
リンは途中で誰かを連れて行ったようで、人影は二つ。懐中電灯の光がちらちらと見えた。そして、俺の見つけた物に気づき二人掛かりで引き上げた。

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July.2014