35
(ジーン視点)
肉付きの悪い頬を叩いた。白い頬は次第に赤く染まり始めたけれど、メルの表情は変わらなかった。
ぺたりと自分の頬を抑えて、無表情で僕を見据える。
灰色の眸の奥の感情は僕には見えない。
自分の手には、メルの頬を叩いた衝撃が残った。滑らかな肌と、細い髪の毛に、あれほど勢い良く触れた事は無い。
全く悪びれていないけれど、素直に謝ったメルは立ち上がり頬を冷やしに行ってしまう。それを追いかけたのはリンではなくてぼーさんだった。リンのお説教よりも、ぼーさんの方がちゃんと諭してくれそうな気はしたけど、きっとメルにはどんな言葉も通用しないのだろう。実はナルよりも頑固なところがあるから。
憑依霊を自力で剥がしたメルは疲れて眠ってしまい、ぼーさんに負ぶられてベースに戻ってきた。
「急に寝ちまったんだが……いつもこうなのか?」
「心配ない。……リン」
ナルはメルの顔を覗き込み、叩いていない方の頬を引っ張って頷いた。
リンはナルに呼ばれて立ち上がり、ぼーさんの傍に寄る。そして、背中でだらりと身を投げ出しているメルを抱き上げた。
「ありがとよ、お父さん」
ぼーさんの少しからかうような声色に、クリスマスのケンジくんの一件を思い出す。あのときは手を自分から握る事も無く、のしかかられて落っことさない為だけに手で支えていたが、メルは慣れた手つきで抱かれていた。
メルが十歳くらいの頃は凄いギャップと、微笑ましい光景だったけど、今でも十分面白い状況になってる。少し弾みをつけて抱き直し、隣の部屋へ二人は消えて行った。
「クリスマスの時とはえらく違うじゃない」
「あれは限定だ」
松崎さんのコメントに、ぼーさんはしきりに頷く。麻衣はリンの態度を覚えていないので首を傾げた。
リンがの世話をするのはナルが命じるから、というのと、癖のようなものだ。それに、メルは放っとくと本当にそのままなので、手を出さなければ駄目だという認識が心に根付いている。
ナルはぴしゃりと解答した後、調査内容の事に話を変えた。
一時間後、続きは明日からということでぼーさんは先に入浴をしに行った。松崎さんと麻衣も、女部屋へ行ったので今ベースには身内しか居ない。
「やっぱり、メルを連れて来るべきではなかったかな」
おもむろに呟いた言葉に、ナルは見ていた資料から顔を上げて呆れる。
「メルのあれは、今に始まった事じゃないだろう」
「そうだけど。だからこそ、来ない方が良かったのかなって」
「どうあっても着いてきそうですが」
リンは溜め息まじりに言い、僕は言葉に詰まる。
たしかにメルはある意味我儘だから、自分の意志を貫く為なら手段を選ばないだろう。
「いっそ、連れ戻さなければよかったんだ」
ナルは冷たく言い放った。自分にそっくりな顔が、歪んでいる。
「メルの生き方に付き合えないなら、拾って来るな」
まるで犬猫のような口ぶりだけど、暗にしょうがないと許しているみたいだ。いや、諦めているという方が正しいかもしれない。
メルが家出したときも、生きていることが分かってからはメルのことを放っておいた。サイコメトリで読めなかったら、メルが帰って来るつもりはないと判断して早々に諦めたのだ。日本に来る理由も、メルの手がかり半分、瞬間移動能力半分という理由。
メルのことは嫌いではないし認めているのだろうけれど、それ以上にナルは学者バカだから心配とかそういった情は乏しい。
「ああいうタイプは、早死にする。せいぜい目を離さないで手でも握っているんだな」
ぼーさんが風呂から戻って来たので、そこから先は話が途切れた。
次の日、朝になってもメルは起きなかった。呼吸に異常も無く寝返りを打ったり、唇を食む様子から、普通に眠っているだけだと判断して寝かせておく事にした。
「かーわいい寝顔してんなあ」
まだ幼さの残るあどけない顔を覗き込み、ぼーさんは茶化すように笑う。
唇も頬も色づきが薄いので全体的に白い顔。昨日平手打ちした頬も赤みは引いていた。そっと指先で頬をなぞると、もぞりと顔を動かし布団の中に埋まった。
「もう風紀委員長の面影はねぇな」
僕とぼーさんで暫く見ていたけどナルに咎められてすぐに仕事に戻る。その数十分後には安原さんが来てくれて、荷物を置きに寝室に入ったあとメルを見て、驚きの白さですねと笑顔で戻って来た。
お昼にはジョンと原さんも到着し、現状を報告、調査に加わってもらう。
ジョンが調査に戻った後、身支度を整えて相変わらずの無表情で、メルはベースに顔を出した。原さんには以前、メルの幼少の頃の写真を見せたことがあったので驚かずに挨拶を交わしていた。
具合を尋ねれば、あっけからんと頬が痛いと言うので僕は言葉に詰まる。叩いた事は、ちょっと罪悪感があるのだ。
「自業自得だ」
僕を責めたのではなく、ただ素直に答えただけなのだろう。ナルが返したあとは何も言わない。それから、今日はリンと離れずにベースで事務作業をしているように言いつけられて、淡白な返事をしていた。
夕方まで、メルは大人しくリンの言う事を聞いてベースでモニタの監視や書類のまとめをしていた。
麻衣が子供たちに九字をきって火傷を負わせたときのぼーさんのお説教を聞き流し、陽子さんが文句をつけにベースへやって来た時もほとんど我関せずだった。
安原さんが帰って来て調べてもらった話を聞いていると、次女の奈央さんが行方不明だという話がベースへ舞い込んで来た。ぼーさんとジョンが吉見家の人たちと探しまわっているが、見つかったという報告は無い。部屋には財布や鍵なんかもおいたままで、外出した様子は無いと言う。
「リン……洞窟だ」
そのとき、メルが口を開いた。小さいが良く通る声が、雑音の入り交じるベース内をしなやかに這い、全員の耳に入る。リンはメルがじっと見ているモニタを確認し、立ち上がりながら僕たちを見る。僕たちは目で頷き、リンを送り出した。
松崎さんと麻衣がモニタを覗き込もうと首を傾げたけど、メルは手を前に出して制した。僕とナルは立ち上がってモニタの傍に行き、他の者から見えないようメルの隣、モニタの前に座って映像を確認した。
それから数分後、懐中電灯の光や、人影が洞窟に現れた。そして、岩に波打つ物体が、引き上げられた。
あれは、奈央さんだった。
彰文さんの言っていた通り、海で死んだものはあの洞窟に流れ着く。大きいものは特に。
引き上げられて数分後には警察がやってきて、奈央さんは運ばれて行った。
先に戻って来たジョンが語り、麻衣はその話を聞いて膝を抱えて落ち込む。
着替えてから戻って来たぼーさんとリンは口を開かず、畳に腰掛けたのと同時に麻衣が気を使ってコーヒーをいれに立ち上がった。
全員にそれを配り終えたころ、ナルは静寂を打ち破った。
「麻衣、護符を配った時、奈央さんはいなかったな?」
「う、うん」
麻衣はぎこちなく頷いた。
「あの時点で憑依されていたと思われる人間は三人……陽子さんと子供二人か」
「ま、まってよ、誰かがやったっていうの?」
「その可能性はある。原さん、奈央さんを降ろせますか」
「ええ」
今度は原さんの方を見てナルは言った。原さんはこくんと頷き、麻衣は手の力をだらりと抜いた。
人が人を殺す、という事実を目の当たりにしてショックを受けているのだろう。僕も聞いていてあまり良い気はしない。
そうでない事を、祈るばかりだ。
Aug.2014