オリーブの遺言 01
午前2時、突然の来訪者がやって来た。
ドアスコープの向こうには、コートに包まれた子供と思しきものを抱えた青年がいる。
「Yusaku Kudo?」
彼は、ドアを開けた優作のフルネームを確認し、・ウィーズリーと名乗った。そして腕の中にいる10歳前後の男の子供はヒロキ・サワダという名前だと紹介し、ヒロキに関することで優作に依頼がしたいと言った。
ヒロキはマサチューセッツ工科大学に在籍しながら、IT産業界の一線で活躍するシンドラーカンパニーの社長トマス・シンドラーの養子である。
DNA探査プログラムや人工頭脳などを発明した天才少年として、彼自身の顔も名もその背景も有名だった。
「お茶を入れてきます。それからベッドも用意しなくちゃね」
「おかまいなく」
は優作の妻、有希子の心遣いに断りを入れた。お茶かベッドか、どちらに対してなのかは不明だが、有希子はすぐに部屋を出て行ったためどう取ったかは不明だ。
「せめて横に寝かせてあげてはいかがですか、あなたも話しづらいでしょう」
「───いまは、このままで」
ゆっくりと首を振ったは、横長のソファにかけながらヒロキを放そうとはしなかった。動かしたら起きてしまうからかもしれないし、そうでない理由かもしれない。
戻ってきた有希子は温かい紅茶と、ブランケットを持っていた。寒かったら起きてしまうでしょう、と言われたため彼は小さく頷き、柔らかな手触りのそれを受け取って自分のコートの上からヒロキにかぶせた。
依頼がしたいと言っていた通り、ははっきりと、端的に依頼内容を口にした。
それは、腕の中で眠っている子供ヒロキを保護してほしいというものだった。
「私の記憶が定かで……その子供がヒロキくん本人であれば、本来その子の親権はトマス・シンドラー氏の元にあるはずでは?」
「関係は切りました」
「なぜです?どのようにして?」
優作は一瞬目を見開きはしたものの、大きな動揺を見せずにに問う。彼は二十代半ばくらいの見た目で、ありていに言えば迫力のない容貌だが、その無表情はどこか余裕のあるそぶりだった。
「───死んだんです、ヒロキは」
そう切り出した彼は経緯を話す。───ヒロキは、シンドラー氏に四六時中監視される生活に辟易して、高層ビルから飛び降りた、と。
彼の口ぶりからするに、ヒロキはその身を宙に投げ出すところまでしたらしい。
どのタイミングでどのように助けたかは不明瞭ながら、優作はひとまずとヒロキの関係について問う。
「俺はヒロキと同じ大学に通っていて、兄みたいなものでした。あとは一応同僚になりますか」
「ではミスター・ウィーズリーもシンドラーカンパニーに在籍していたと」
「ええまあ。監視が強くなるにつれ、ヒロキと接触することはなくなりましたが」
「では、今はどうして?」
「ノアが知らせてくれた───ああ、ノアはヒロキの作った人工頭脳の名前です」
優作はノアという名前に聞き覚えがなかったが、それを察してかすぐにの説明が加わる。
「正式名称はノアズ・アーク。ノアの方舟に由来しています。あれはまだ作られたばかりとはいえ優秀です。まだこの子が自由だったころは、俺も開発に携わっていた。……ヒロキは死のうとする前にノアを外に放ったんだと思います。そしてそこから、俺のところにたどり着いたんでしょう」
「……間に合ってよかった」
「ほんとに」
安堵の言葉を漏らす優作をよそには表情を変えずにうなずいた。
彼はそのままヒロキを一瞥し、また優作に視線を戻す。
「ヒロキは屋上から飛び降りて死んだことにしました。社長もおそらくまだ気づいていないでしょう」
「それは時間の問題では?」
「世間的にはそういうことになってるので表立って動きはしません。それに探すとしたらヒロキよりも前に」
「あなたが狙われる?」
「探される、でしょうね」
はあえて物騒な言葉を使った優作に訂正し、背もたれにゆっくりと身体を預けた。
彼はすこしも恐れていない顔をしている。
「それで、優作」
色の薄い唇が、思いのほか柔らかくその名を紡いだことに、視線を奪われた。
突如、彼の纏う雰囲気が変わったように感じた。
「この子を暫く預かってほしい」
最初に口にした依頼内容を噛み砕いて繰り返した。
雰囲気や事情に呑まれて頷きかけたが、なんとか踏みとどまる。優作はまだ、聞いていないことがあった。
「ヒロキくんの、本当の父親は何をやっているんです。たしか離婚後教育熱心な母親と渡米し、その後母親が亡くなったはずですね」
ヒロキを抱えながらも、自身の顎を撫でるは何を言おうか考えているようだった。
母親が亡くなった時点で父親ではない男のもとに身を寄せたヒロキを思えば、優作もさほど期待はしていなかった。それに、前の父親では、トマス・シンドラーや世間から身を隠すのにうってつけとはいいがたい。
それでも、がどう考えているのかを聞きたかった。
「樫村忠彬」
「は、」
「ヒロキの父はあなたの大学時代の悪友だ。本人に確認をとってみてもいい」
「そう、か───」
わざわざが悪友と称したことで、優作はさすがに目を剥いた。
そこまで調べて、ヒロキを優作の元へ連れてきたということだ。いったいいつから、と考えても仕方がないがおそらく自殺を阻止してすぐのことのはずだ。
「樫村に確認をとっていいと言うことは、会わせても良いと?」
「どちらでも。ヒロキの死はすぐに公になるので父親の耳に入るし、そうしたら死の原因を調べるかもしれない。───あなたに依頼がいくかも」
自分のように、と言いたげな口ぶりだ。しかしその発想はわからなくもない。
「隠し通すのは、酷でしょう。でも俺はあくまで、あなたにヒロキのことを頼む」
「もしヒロキくんが父親を望んだら……?」
はここへきて初めて笑った。ほんのわずかな微笑みだったが、まるで滑稽な問いかけだとでもいいたげだった。
「───ヒロキが泣きながらパパと暮らしたいと頼むなら、無理強いはしない」
その後、ヒロキは有希子が用意したベッドルームへ運ばれ、柔らかいシーツに包まれて横たえられた。
温もりから離れたことで身じろぎしたが、深く眠った子供は目を覚ますことはない。
は指先でかすかに、ヒロキの前髪をとかして体を離した。その時の顔は誰にも見えず、唇がどう動いたのかさえもわからない。だが離れていく指先だけは、名残惜しさを体現しているように見えた。
ノアを逃がしてからヒロキくんが飛び降りるまでは僅かな時間しかないので、ミラクルファインプレーだね(誤魔化し)
Dec.2023