オリーブの遺言 02
目を覚ました子供は一時混乱状態に陥った。
彼は高層ビルから飛び降りたつもりだった。清潔なシーツに包まれた状態で目を覚ました瞬間、浮遊感や重力、アスファルトにたたきつけられる衝撃を予想していた。悲鳴を聞き駆け付けた工藤夫妻は混乱していたヒロキを押さえつけ、意識を現実へ戻させた。
荒い呼吸を繰り返しながらも、平静を取り戻そうとする彼の様子に、優作はゆっくりと力を抜き、肩をつかむ手を緩める。有希子はヒロキ抱いて背中をやさしく撫で、呼吸を促した。
「こ、こは」
荒い呼吸の合間に漏れ出た疑問に、優作はやさしく自分の家であることを告げた。
「君は澤田ヒロキくんで間違いないかな?」
「はい」
ゆっくりとベッドに戻されたヒロキは、大きめの枕を背中に入れて少しだけ上半身を起こしていた。しかし精神的な疲労から、頭はぐったりともたげている。
「昨晩・ウィーズリーという男性が君を抱えてやってきた。そして私に依頼した」
「が?……依頼って?」
「ああ、君をしばらくの間預かってほしいと」
「!で、でも……いえ、それを受け入れた……んですか?」
優作は小さくうなずいた。有希子もに頼まれたことに承知していたため、ヒロキに向かって柔らかく微笑み頭をそっとなでた。
「なにかおなかに入れましょ、食べられないものはある?」
「あ、……特にはないです」
「そう?これからしばらく一緒に暮らすことになるんだから、遠慮はなしよ。ね」
「う、うん」
ヒロキはぎこちなくうなずき、有希子は部屋を出て行った。
そして優作は部屋に会ったテレビをつけて、ヒロキが転落死したと報じられるニュースを見せた。
ヒロキの顔写真や、トマス・シンドラーが記者に追われてコメントを求められるも、無言で艶やかな黒い高級車に乗り込む映像が流れる。
「これ───がやったんだ」
ヒロキは優作の心配もよそに、平然とした顔でニュースを眺めてぽつりとつぶやいた。
「僕は最後にノアを逃がしたから、ノアはのところへ行ったんだ……」
「君たちは親しかったんだね」
「とは大学で出会って……色々教えてくれた、兄みたいな存在だったから。僕にとっても、ノアにとっても」
ニュースから視線を外したヒロキはようやく頭を自力で起こし、優作を見た。
・ウィーズリーがヒロキに用意した身分は、なにも怪しむことがないほどに完璧に作られていた。
発行が面倒だろうから、といろいろな証明書やパスポートまで手渡されたていた優作は、その用意周到かつ迅速な対応に驚いた。
これが君の身分証だ、と手渡されたヒロキさえ、目を見開いた。そしてカード類の束を扇のようにして眺める。
「おそろしいな」
ヒロキのつぶやきに、優作は同意するようにうなずいた。
最初に見たとき有希子は驚くだけだったが、そう結論付けたヒロキは頭が回る子供だ。
身分証を偽造することも、人の死を偽造することも、普通はできない───それも僅か一夜にして。能力、コネクション、立場のいずれもが秀でていなければ。
彼はそのどれも持っているような印象を受けなったために、驚き以上の、得体の知れない者への畏怖を抱いたのだ。
「・ウィーズリーという人物について、君はどれくらい知っているかな?」
「きっともう、・ウィーズリーという人物は存在しないよ」
「は───シンドラー氏がきみの生存に気付いたとして、探すのはまず自分だと言っていた」
「うん、でもあの人には見つけられないだろうし、仮に見つけたとして手を出せるのかわからない」
ヒロキが違うニュースに切り替わったテレビに、もういいと言いたげなジェスチャーをしたので優作はリモコンのボタンを押した。
「ずいぶんと彼を買ってるようだが、理由を聞いても?」
「理由は二つあるんだ」
朝食をとったあと有希子は日用品を買うといって出かけていき、再び二人きりになったところで、優作とヒロキは話の続きを始めた。念のため、ヒロキにはベッドに戻ってもらいいつでも休めるようにして。
「まず、にはノアがついてる」
作られて間もないが、情報収集能力に関してはヒロキとが太鼓判を押すほどの技術を有しているし、今この瞬間にもおそらく成長を続けている。それらを使って情報操作することなどにとっては簡単なことだった。
「それからは、トマス・シンドラーの弱みを握っている」
優作はその秘密を知りたくもあったが、ヒロキは口にしない。
「それはきみが監禁されていたことと、関係はないのかい」
「一端はあるけれど、が握っているもののほうが大きいし、彼は情報の使い方を熟知してる。僕は情報を得るだけ得て、それの扱い方を理解できていなかった。知りたくないことを知ってしまう覚悟もなかった。でもは全て自分の強みにできるんだ」
優作はなるほどと相槌を打つ。
「それほど言う人物ならばと納得はいくが、彼を捕まえられないと判断したシンドラー氏が今度狙うのはやはり君になる」
「そんな暇、与えないよ」
「どういうことかな?」
「たとえば、シンドラーカンパニーで得た情報を競合他社に流してしまうとか」
「……そんなことが、」
「もともと他社とつながりのある人だったよ、は」
───産業スパイか。優作は声もなくそうつぶやく。
「君の知りたくなかったことは、これだね」
「……」
ヒロキがシーツをくしゃりと握った手は、ぎこちなかった。
「とにかく、トマス・シンドラーよりもの方がおそろしいうちは大丈夫」
やがてその手はゆっくりとほどけていき、起こしていた上半身は大きな枕に沈んでいった。
ヒロキくんはカタカナ表記で通したいと思います。サワダは澤田で。
Dec.2023