harujion

墨と彩

01

日本に縁があるようで、俺はまた日本で生まれた。それも、とてもとても古い時代だった。
歴史を習ったとは言え、たいして興味もなく、詳しいわけではない。多分今は江戸時代というやつだろう。
さすがに英語圏の名前を付けられることはなく、虎次郎といういかにもな名を与えられた。
幼い頃から囲碁を教え込まれ、素直に打ち続けていた俺は、ある日幽霊に出逢った。雅な装いの綺麗な幽霊だった。過去の生涯で俺は何度か幽霊に遭遇したことがあったけど、ここまで穏やかな霊はみたことがない。幽霊のくせに、とても生気があった。
藤原佐為と名乗った彼は、平安時代の碁打ちらしい。佐為はもっと碁が打ちたいと願って現れた。それならばと、俺は佐為と向き合い一局碁を打った。
結果は俺の負けだった。彼は強いなんてものじゃない。まあ、俺は今のところ碁をただの勉強としか思っていないため、どうにも評価のしようがないのだけど、とにかく凄いということだ。
一局打っても佐為は満足感や幸福感を得られたわけではないようで、次の日もその次の日も、にこにこと俺の後をついてまわった。身体を乗っ取られるわけではないけれど、これも霊に憑かれるということのだろうか。
ちなみに、家の者は誰一人として佐為の姿も声も感じることができないようだった。
それからひとつき経っても、佐為は消えなかった。
夜な夜な、一人で勉強するふりをして佐為と打った。かわりに打ってやることもできるけど、そうすると俺と佐為の打ち方にきっと差が出来る。一人の人間としてしか、打つことはできない。佐為は俺にしか見えないから、俺としか打てない。これでは何の解決にもならないのだ。

「佐為」
「はい?」
夜、寝る準備をし終えた俺は、蝋燭の向こう側に居る佐為に呼びかけた。炎と一緒に瞳がゆらりと揺れるのが見えて、その優麗さに顔が綻ぶ。
「おまえ、俺になる?」
そして俺はお前になろうか、と提案した。佐為は小首を傾げて、少し眉を顰めた。どういう意味だかわかっていないようだ。
「外では俺のかわりにお前が打つんだ」
「そんな……良いのですか?それでは虎次郎は……」
「俺は、佐為とだけ打つよ」
「虎次郎……」

悲しそうな顔をする佐為に、ふっとこみ上げて来た笑みをこぼす。
蝋燭の火が、その吐息で大きく揺れたが火はまた戻った。
俺のことを慮るこの幽霊は、とても人くさい。そして時々面倒くさい。
俺が笑ったらすこしだけふくれて、また、良いのですかと尋ねた。遠慮していたが、それ以上に、やっぱり佐為は碁が打ちたいのだ。
「いいんだ。俺は佐為の碁は凄いと思うし、もっと見たいよ」
はらはらと泣いた佐為は本当に綺麗だった。
女じゃないのが驚きであり、ちょっと残念でもあった。


とらじろう、とらじろう、と佐為は俺を呼び慕う。
秀策という名を与えられても、佐為は俺を虎次郎と認識する。見くびられているわけではないのだけど、いつまでたっても、佐為は俺を子供だと思っているらしい。
妻を娶っても、三十路を超えても、死のふちでも、佐為は俺を虎次郎と呼ぶのだ。

伝染病にかかってしまい、家の者にうつしたくなくて、一人寝込んだ俺を、佐為だけはずっと側でみていてくれた。
大粒の涙を流して俺の顔を覗き込んでいても、佐為の涙は俺に触れることは無い。
かさかさに乾いてしまった俺に、その恵みを分けてくれたらいいのに。
痩せ細ったまるで老人みたいな腕を佐為に伸ばすと、触れもしないのに佐為は必死で俺の手を支えようと手を伸ばした。白魚のような手で、爪は貝殻みたい。肌色は月、髪は絹、唇は瑞々しく、瞳は繊細な虹彩。

きれいだ、と口にしたが乾いた喉では上手く音にはならなかった。

自分の容姿に対して頓着も無かった。けれどさすがに、病気によって乾いた肌はみるに絶えなくて、佐為ばかりみていた。羨ましいとか妬ましいとかは思わなかった。三十年近く一緒に居ても変わらない美しさは、むしろ救いだ。
佐為の願いを叶えることはできなかったけど、佐為を見て逝けるのは幸せだった。

佐為に伸ばした腕が、ぽとりと布団に落ちた。

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一話で終った人生。さりげなく成り代わりでした。
Feb.2015