02
平日の午後四時をすぎた頃、は駅前の囲碁サロンへやってきた。
普段は祖父と打ち、それで満足だったのだが、に一度も勝てない祖父は彼にお小遣いを握らせて碁会所へ行くように勧めた。親切心か、祖父の威厳を保つためか、どちらにせよは碁が打ちたかったので素直に頷き、てきとうに碁会所を探して入ってきたのだ。
「こどもがいる」
受付で名前を書いて席料を払ったは、サロンの中を見渡してアキラの姿に気がついた。自身も子供でありながら、珍しいと呟く。
「あ、うん、ここの経営者の息子さんよ」
受付嬢の市河もの見ている方に気がついて、にっこり笑う。
時折このくらいの子供がアキラを訪ねて、挑戦しては負けて帰っていくのだが、はアキラを知らない口ぶりだった。そのことから、市河には純粋に囲碁を打ちに来た子供だと判断される。
「じゃあ強いのかな」
「もちろんよ!」
ただぽつりと呟いただけのに、市河は間髪入れずに肯定した。その様子に少し驚いたは目を見張ってからふっと笑った。市河は少し勢い付きすぎたと頬を赤らめる。
当のアキラは、 今のやりとりに目を向けた。二人してアキラを見て話していたから、自分の話をされているのだとわかった。
視線が合ったはのんびりとアキラに手を振った。その表情は無に近いのだが、動作だけは社交的だ。
アキラはまさか手を振られるとは思っていなくて、慌ててに会釈した。
「アキラくんは今すぐプロになれちゃうくらいなんだから!」
「い、市河さん」
市河が自慢話を披露したのが聞こえて、照れくさくてアキラは腰をあげる。
近づくと、は凄いと褒めながら、笑みを濃くしてアキラを見た。子供特有の丸み帯びた輪郭が、笑ったことによってふくらみ、黒目の大きな眸が猫の様に細められる。
羨望でもない、敵意でもない、純粋な眼差しがくすぐったくて、アキラは自分の手をきゅっと握ってこらえた。
視線から逃れたい反面、興味が沸いてと打ちたいという気持ちがあって、胸が踊る。
「その、よかったらボクと打つ?」
アキラの前の大人用の椅子にかけたは、とても小さく見えた。実際小さいのだが、普段子供がここへやって来て相対することは稀で、アキラは子供が座っている様子を客観視して、自分もこんな風に見えるのだろうかと、一瞬だけ頭をよぎった。
「そうだ、棋力はどのくらい?」
「ちゃんとはかったことないんだよなあ……」
口をすぼませて、は呟いた。
「いつも、どうしてるの?」
「じいちゃんとばっかり」
「へえ」
は遊ぶように、碁石の入った碁笥に指をさして、くるりと掻き回す。
「じいちゃんには負けないから、碁会所行ってこいってお小遣い貰ったんだ。一回で消し飛んだけど」
アキラは最後の一言に、くすっと笑う。
大人びた邪気の無い雰囲気に交じって、やっぱり少し子供らしさがうかがえた。
「じゃあ置き石は四つくらいにしようか」
「うん」
自分の棋力と、普通の棋力を考えた後の置き石の数に、は頷いた。けれどすぐに、あのねと口ごもったので、アキラは首を傾げての言葉を待つ。
「ハンデは貰っておくけど、手加減とか指導碁じゃなくてずばっとやって。瞬殺でも良いから」
「え?」
の要望に、アキラは首をかしげる。こんなことを言われたのは、初めてだった。
「折角強いんだから、それみせて」
正直な話、アキラには真意がわからなかった。もちろん、本気で来てほしいという意味はわかっていたが、の言葉の端々から感じるのは、戦意ではなくて、興味だ。
アキラはの望み通り、真剣に打った。試すような手も、殺すための手も、は表情をあまり変える事無く、時には応じ、時には躱してみせた。
瞬殺でも良いという言葉とは裏腹に、は容易く殺せない手筋をしている。
アキラはの次の手が楽しみで、己の一手に胸が躍った。父や門下生たちと打つよりは緊張感がないけれど、余裕があるわけでもない。遊びとも真剣ともわからぬ、不思議な囲碁だと思った。
「やっぱり、碁は打つより見てる方が好きだな」
打ち終えて礼をしたあと、ため息とともに吐き出されたの言葉にアキラは、気を悪くさせただろうかとの顔色をうかがう。ところがは全然悔しそうな顔をしていない。
「ボクと打つの、つまらなかった?」
は結局アキラに負けてしまったけれど、時折予想外の手を打たれたり、驚かされることもあった。が遊ぶような手を打つから、アキラも何故だか楽しく打てたと思っていた。自分だけだったのだろうか、と残念に思っているとはすぐにううんと否定した。
「アキラの碁、楽しかったよ。これからもっともっと強くなるんだろうなって思った」
膝の上においた手を見ていたアキラは、の言葉に顔を上げる。
「俺じゃあアキラの本気を引き出せないし、アキラを強くさせられない」
は自分の石を片付けながら語った。
数多の石と碁盤がぶつかり合う音に小さく笑ったり、掌一杯に石をつかまえる様子は、やっぱり遊んでいるみたいにみえる。
「プロになるんでしょ?それで、強くなって、いろんな人といっぱい戦って?俺はそんなアキラを見ていたい」
碁笥を置いたは、応援してるよ、ありがとう、なんて月並みな挨拶をして席を立った。
「あ、待……、」
「おじさん俺と打たない?」
「おう、いいぞー」
そしてはあっさりと、違う人に対局を申し込んでしまった。
さすがに対局中に話しかけることはできず、アキラはの手を見ていることしかなかった。
結局、はその対局が終わってすぐ、夕ご飯の時間だからと慌ただしく帰って行った。アキラはまたしてもを引き止められずに、背中を見送る形となった。
そんなアキラの様子を見ていた市河は少し驚いた。今まで、アキラがそんなに執着を見せた人物がいなかったからだ。
しかしその一ヶ月後にやって来た進藤ヒカルによって、アキラの注意も市河たちの注目も、から移ろいで行った。
日本名です。
主人公視点の話以外は三人称でいこうかなって思って書いてるので、わかりにくかったらごめんなさい。アキラとか佐為ならまだしも、ヒカル視点は難しそう。
Mar.2015