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ヒカルがプロ試験を受けていたことは勿論知っていたし、受かるだろうとも思っていた。
まあ、周りの人がどれ程強いのかは分からないので、身内の贔屓目っていうのもあったけど。結果としては無事合格。けれど俺は学校の行事とかで忙しくて、電話でおめでとうと言うくらいしか出来ていなかった。
直接会ってお祝いをしようとヒカルの所に行くと、年が明けてからの新初段シリーズで塔矢名人と打つことになったとはしゃいでいた。
佐為の姿はやはり見えないけど、時折何かが居るような気配がしていた。呼吸だとか、所作の音だとかが、俺の耳をくすぐる。ヒカルでもない、俺でもない、誰かがそこにいる。
きっと佐為は、碁をうちたくて仕方が無いだろう。
新初段シリーズは棋院でやるらしく、俺はこっそり見に来てみた。別室で中継してくれるらしいと、ヒカルから聞いた事がある。ただし、そこに俺が入れるかは微妙だ。
院生のフリでもしようか、と思って棋院のエレベーターに乗り込んだあと、遅れて乗り込もうとやってきた人と目が合って、互いに瞠目した。
「進藤、くん」
「アキラ先輩……えーと、あけましておめでとうございます」
「あけましておめでとう」
ぺこぺこと頭を下げ合いながら、降りる階のボタンを押した俺に、アキラはきょとんと首を傾げた。
「院生になったの?」
「えっ、いや、違うけど……いけないかなあと」
「?」
知り合いに会ってしまってラッキーなのか、アンラッキーなのか。
素直に、新初段シリーズが見たかったと打ち明けると、すこし笑われてしまった。
「ボクもこれから見に行くんだ。一緒に行こう。そうしたら怒られない」
「ありがとうございます」
良い方向に話が転がったので、ほっと胸を撫で下ろす。
「……父の対局に興味が?」
「ん、それもあるけど、ヒカルが」
「ヒカル……進藤ヒカル?」
「いとこなんです」
「!」
ヒカルとアキラが知り合いだと知ったのは大分あとだったから、自分からヒカルとの関係性を持ち出したことはなくて、今初めてアキラの前でヒカルのことを口にした。
驚いた顔をしたアキラだったけど、納得がいったのか、神妙な顔つきで頷く。
「打ち方が似ていたのは、……そうか」
「似てます?」
「少し」
「まえ、いってたひと?」
「そう」
ちん、と音がして、エレベーターは目的の階についた。アキラを先に降ろしてから、その背を追って廊下を歩く。
部屋に入って来ると、なんというか、アウェイな雰囲気を感じた。といっても、敵視されているわけがないのだけど。
実際に顔を合わせた事がある人が二人、桑原本因坊については新聞で見た事があるし、実質知らない人は一人だけだった。ただ、みんなの方が俺の事をほとんど知らないので、訝しむような顔をしていた。
「あれ、進藤のイトコの!えーと、」
「こんにちは、お邪魔します」
アキラが緒方と桑原の存在に驚いている間に、俺は和谷にも挨拶をした。
「……こんにちは」
「越智くん、こんにちは」
和谷ともう一人居た越智という人物はアキラと顔見知りのようで挨拶をしている。
「キミはたしか名人の息子じゃな?」
「はい、はじめまして、塔矢アキラといいます」
桑原はアキラに声を掛けているけど、傍に居る以上無視をするのも失礼な気がして、俺はアキラの一拍遅れで緒方と桑原に会釈をした。
「———たしかアキラくんの後輩の」
「あ、はい。ボクの後輩で……それから、進藤のイトコの」
「進藤です」
緒方は俺に気づいて首を傾げたので、もう一度しっかりお辞儀をした。
桑原がしわくちゃな目を更に細めて俺をじいっと見ているので、なんだろうと思いつつアキラの後ろに半歩隠れることにする。
「すわろうか」
「あ、はい」
こっちの大御所と一緒に座るのか、と思いつつ、俺の手を引いてくれたアキラに逆らう事はできずについて行く。緒方、アキラ、俺の順番に座ったけど、その間も、桑原は俺を目で追った。何か用があるのか、それとも、俺の事が気に食わないのか。そんなことはないと、思いたいんだけど。
ヒカルは、一手目に二十分時間をかけた。誰もがそのことを疑問に思っている。普通は一手目を考えてくるからだ。
桑原だけは飄々と笑っている。
そこに記者と思しき壮年の男性が入って来て桑原の隣に座りながら話すので、空気は少し騒がしくなった。
「しかし桑原先生今日は進藤くんが目当てで?」
「そうよ、ワシはあの小僧をかっておるでの。すれちがった時にピンときたんじゃ」
「は?すれちがった時?まさかたったそれだけで彼の評価を?」
天野と呼ばれた男はきょとんとした。
「それだけですよ。勘だそうです」
「カン?」
「ワシの勘をバカにしてるようじゃあ、いつまでたってもワシには勝てんぞ緒方くん」
そのやりとりを、俺はぼんやりききながらテレビ画面から目を離せずに居た。
時々俺と打つヒカルではない手。だとしたら、きっと佐為だ。俺の記憶では塔矢名人と同等の強さだったはず。ヒカルの程度に合わせて、自分の力を抑えているのだろうか。
それでも佐為の碁は綺麗だった。アキラが並べてくれたsaiの碁の方が完成度は高かったけど、今ここに佐為がいて打っているのだと思うと、嬉しくてたまらなかった。
ヒカルが投了すると、皆部屋を出て行き始める。アキラも隣で立ち上がったけど、俺は頬杖をついてテレビを観たままでいた。
「進藤くん?」
「え?」
「———いや、なんか……すごくにこにこして」
俺はどうやらご機嫌な顔をさらしっぱなしだったらしい。拳を作って口元を隠すと、アキラは緩く笑って肩をすくめた。
部屋から出て行く緒方がアキラを呼んだけど、アキラはなにか他にも気になるようなことがあったのか、部屋に残り神妙な顔つきで桑原のほうに視線をやった。
彼は、勘でヒカルを気にかけていたように、ヒカルが今ハンデを背負って打っていたことを言い当てた。当てた、と言えるほど俺も確信があるわけではないけど。
「オモシロイ奴じゃのう、進藤という小僧は」
妖怪みたいに笑ってパイプ椅子から立ち、部屋を出て行こうとする桑原をアキラはそっと追う。アキラに連れて来てもらったようなものだから、俺も立ち上がってついていく。
「ではアヤツをプロの世界に来させたというのはキミということか」
アキラの話を聞いて、ようやくヒカルがなぜあんなに囲碁にのめり込んだのか、こっそりと納得していた。
負けたくない、追いかけたい、ライバルが出来てしまったのだろう。
「塔矢———なんと言ったかの?」
「……アキラです」
「塔矢アキラか。覚えておこう」
手を後ろで組んでエレベーターの方へ向かった桑原を、アキラはじっと眺めていた。
「先輩、俺も帰りますね」
「え、検討は?」
「さすがにそこまでは良いです。それに、ヒカルはなにも、言わないだろうから」
ぺこっと頭を下げて、俺もエレベーターの方へ行った。丁度ドアが開いた所だったので、一緒に乗り込んで、ドアを開けるボタンを押しながらエレベーターから顔を出してアキラに手を振った。
桑原本因坊は呼び捨てしづらい……。おじいちゃんは何かこう、主人公に対してもインスピレーションが働いていたのかなってことで。
AugÎ.2015