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新初段から暫くして、ヒカルは春になると本格的にプロの仲間入りを果たした。塔矢名人が倒れたニュースを見たのはそれから間もなくしてだった。
名人はとても強い人だったから、もう見られなくなるのは惜しいという気持ちがある。会ったことはないけど、息子のアキラには時々碁を打ってもらっていたし、ヒカルとも顔見知りであるようだから、まるっきり他人というわけでもない。俺を知らないあちらからしてみれば、余計なお世話だろうけれど。
若干心配しつつ、春になって買ってもらったばかりのパソコンで、ネットニュースを眺めていたがスクロールする手を止めた。
パソコンを買ってもらったのは、ネット碁をやろうと思ったからだ。一時期saiという名前のプレーヤーが有名になっていたから、もしかしたらヒカルもやっていたのかもしれない。それに、また現れたら俺もsaiと打ちたい。当たり前だけど、ヒカルは佐為とは打たせてくれないのだ。
コミュニティとか掲示板で、塔矢名人が入院中の暇つぶしでネット碁に現れるという噂を目にしたので、ブックマークからネット碁のサイトへ飛ぶ。
「あ、」
マウスを握ったまま、思わず声を漏らした。塔矢名人と、佐為らしき一局を見つけてしまった。持ち時間は三時間、今は開始から一時間程経ってしまっているけれど、偽物とは思えない本格的な碁だ。佐為の碁はすぐにわかるし、名人の癖まではわからないけど強さは紛れも無く名人のそれだと思う。
パソコンを買っておいたこと、今この時にこのネット碁に居ること、全ての偶然に感謝した。
塔矢名人の投了に終わった碁の余韻に浸りながら、胸がくすぐったくなるのが分かる。いまなら佐為に会える気がする。これは必然だったのかもしれない。
目を瞑れば脳裏に佐為の姿が思い描ける。
そういえば、たいそう綺麗な微笑みをしていたなあ。でも、碁を打つ時ばかりは真剣なまなざしで、終わった途端にまたふわっと笑うのが、凄く好きだった。風に靡く綺麗な髪の毛も、死に際に泣いていた顔も、全部全部、昨日の事のように、瞳の奥から流れて来る。泣いてることに気づいたけど涙を拭う事はできなかった。
うごきたくない。このまま、ずっと目を瞑って、鮮明に思い出される佐為との思い出の中にいたい。机の横のベッドに、椅子からなだれ込むように倒れ、弾力のある布団に埋もれた。こうしていれば、誰かが部屋に入って来ても、俺が泣いていることなんかわからない。
その日は食事も喉を通らず、ずっとベッドの中に居た。夕方頃に母が、夜遅くに父が心配してやってきたけど、俺はぼんやりとした返事をしただけでずっと動く気になれなかった。
次の日の朝、光をあびてようやく頭がすっきりした。すごくお腹が減ったので、朝ご飯は珍しく沢山食べた。そうしたら少し気持ち悪くなったのは、怒られるから内緒の話だ。
ご飯を食べたあとヒカルの家に行ったんだけど、朝一番で家を出て行ったらしく不在だった。せっかくだからと祖父の家に寄って、蔵の碁盤を眺めた。血のあとが、なんだか濃くなってる気がする。
結局日曜日はヒカルに会えなかったし、平日は学校だし、時間が合わない。
祖父の家の蔵に泥棒が入ったのはゴールデンウィークに入る少し前のことで、碁盤は無事だった。ヒカルも心配して見に来ていたらしいけど、特に変わった様子はなかったと祖父から聞いた。
その後ヒカルの家に顔を出したのに、明日から泊まりの仕事があるから準備で買い物に出ちゃったと言う。
「なんであえないんだろ……」
折角、色々な巡り合わせで塔矢名人と佐為との一局が見られたのに、中々会えないのは何故だ。いつもだったらタイミング良く帰ってくるのに。俺があっさり家に帰り過ぎなのだろうか。
今度は絶対に逃さないようにしようと思って、ヒカルが泊まりの仕事から帰って来る日に家に行った。さすがに出かけはしないだろう。
「こんにちはあ」
「あら、いらっしゃい。ヒカルさっき帰って来たのよ」
「ほんと?よかった」
叔母さんがにっこり笑って出迎えてくれたので、俺は家に上がった。
「疲れてたみたいだから……寝てたらごめんなさいね」
「あ、うん」
まあ最悪、ヒカルは寝ててもいいかな、と思いながら階段を上る。
「佐為、」
部屋を開けながら名前を呼ぶ。目に入ったのは、うとうとしてるヒカルと、日に透ける佐為の姿。
今までほとんど見えなかったけど、ようやく見えた。目を瞑っていた佐為が、ぱちりと目を開けて俺を見た。きょとんとした顔は相変わらず子供っぽい。
「やっと会えた」
「?」
佐為の声が俺を呼ぶ。
やっぱり、ずっとヒカルの傍で見てたんだ。
「あぇ??」
目を擦りながらヒカルが振り向いて、俺を見上げた。それから、きょろきょろと当たりを見回した。まるで何かをさがすように。
「ヒカル」
「ちょっとまって?あれ?」
碁盤の下や布団の中をのぞき、誰かを探し始めた。不機嫌そうな顔をして俺とすれ違って部屋を出て行ったと思えば、階下からドタバタしないでと叱られる声がする。
俺と佐為はぽかんとしながら、ヒカルに取り残されてしまった。
「なぜ、どうして?私は……消える筈だったのに」
佐為は自分の掌を眺めたり、頬を触ったりしながら首を傾げた。それから俺を見て、瞳を揺らす。
「は私のことが、わかるのですか?」
「うん」
会話ができるのが嬉しくてはにかむ。
「———あなたは、虎次郎なのですか?」
「そうだよ、佐為」
ぽろぽろ泣く佐為を、慰めたいけれど俺は場違いにも見惚れていた。
「おまえは相変わらず、綺麗だね」
エンダァ……
Aug.2015