harujion

墨と彩

13

私と塔矢行洋の一局を、ヒカルに見せる為に私は居たのだろう。
虎次郎が私の為に居たのと同じように、私はヒカルの為に居た。そして、目的を果たした私の中の時間が、するすると抜け落ちてゆくのを感じた。
ヒカルと別れたくない。
まだ打ちたい。
打った事のない、もっと打ちたい人がいた。
虎次郎に似たとは、結局一度も打たせてもらえなかった。あかりちゃんがもっと上手になって行くのを見たかった。和谷や、塔矢アキラがどんどん力をつけて行くのも、多くの者達が碁を学び行くのも、私がもっと碁を知るのも。
歯がゆさと、悔しさと、悲しさ。
思い残した事が沢山あるというのに、私は消えてしまう。
私がいたかったからこの世に居たのではない、私は役目を果たす為にここに居た。
役目は終わってしまった。
それでも、楽しかった。

「佐為、」

うとうとしたヒカルを眺め、視界が白んで行くのを感じた。その時、私の名を呼ぶ声がした。静かで抑えたような声色。焦りと喜びを孕んだ音だった。
「やっと会えた」
?」
ヒカルの部屋にやってきたは、ヒカルを通り越して私を見ていた。聡い子で、ヒカルの影に潜む私の存在をどこか気づいているような子だったけれど、ついに私の姿を目に映す程までになっていたとは。
「なぜ、どうして?私は……消える筈だったのに」
この子は消え行く私を、名前一つで引き止めたのだ。
するすると落ちて行く、残された時が空っぽになる直前、を見た瞬間に満たされた。新たな役目を、神様がくれた気がした。ほっとしてはにかむを悲しませないために、私はこの子の傍に居なければならないと思った。
は、虎次郎は、私をずっと探していてくれた。

「おまえは相変わらず、綺麗だね」

の微笑みの方が、私にとっては尊く美しいものだった。




ヒカルは唐突に私の姿が見えなくなった。
それは悲しく、歯がゆいことだったけれど、私はこの世にまだ居られること、ヒカルを見ていられること、そしてなにより虎次郎と再び相見えたことに感謝した。
そんな中ヒカルはのことをほったらかしにして私を探し始め、制止する声も聞かずに飛び出して行ってしまった。
「まったく、あの子は」
「いや、ほんとにね……」
家を出て行ってしまったらしい音がして、はゆっくりと階段を下りて行った。ヒカルのお母さんが頬に手をあてて呆れるのと同じように、も頭を抱えてため息を吐いていた。私も思わず、ヒカルの馬鹿と嘆く。
に私のことを言えないとはいえ、落ち着いていればがきちんと説明したのに、一人で突っ走っていってしまうなんて。

「え、ヒカルがいない?はあ?広島?因島?なんで?」
次の日の夕方、ヒカルの家に電話をしたは、顔を顰めて呆れていた。手持ち無沙汰に唇をいじる癖は生まれ変わっても変わらないようだった。
「因島とは、虎次郎と私が前に住んでいた?」
「そう、佐為のことを探しに行っちゃったのかなあ」
なんだかヒカルの事が心配で、との再会を喜んでいる時間もあまりなかった。もちろん嬉しいのですけれど。
その次の日の夜には、ヒカルのお母さんからヒカルが帰って来るなり棋院に行ったという電話をうけて、は家を出た。
ヒカルは泣きはらしたような目で棋院から出て来て、の姿に気がつくと、ぽつりと名前を呼ぶ。
こんなに泣かせてしまったという罪悪感があり、私も泣きそうになる。
「ヒカル、ごめんなさい、ごめんなさい、ヒカル。泣かないでください」
「あのねヒカル、俺の話はちゃんと聞いてね?」
「え、なに?なんだよ」
逃げないように手をぎゅっと掴まれて、ヒカルはきょとんとした。本当に、どちらが年上なのだか分からない。ああでも虎次郎は三十いくつかまで生きていたのだから、ヒカルよりも大分年上だ。
「佐為は俺が貰った」
「へ?」
「本当は消えそうだったみたいだけど、新しく俺に憑いたから、ヒカルには見えないだけ」
「うそ、ホント?」
「うん」
「オレが碁を打った所為か!?だから佐為はオレから離れちゃったのか?」
「違います、違うんですヒカル!私はヒカルが碁を打つ為にこの世に居たのです!!」
触れないヒカルに抱きついて弁解したけれど、ヒカルには聞こえない。はヒカルの頭をゆっくりなでて、落ち着きなさいと囁いた。
「ヒカル、碁を打ったらいけないなんて思わないで。佐為はヒカルと碁を打てて楽しかったっていってる」
「ん」
涙の零れる瞼を、の親指がぐっと拭う。私の涙は拭ってもらえないから、少しヒカルが羨ましい。
「寂しいだろうけど、自分を責めたら佐為が悲しむ」
「でも佐為にはもっと碁を打たせてやらないと駄目だったんだ」
「大丈夫、大丈夫」
は項垂れるヒカルをそっと抱きしめて、あやすように背中を叩いた。
「佐為は俺の所にいるから、まだ打てる。ヒカルが佐為と打ってあげればいい。ね?」
ぐすぐす泣きじゃくっていたヒカルは、の優しい声色にあてられて、どんどん穏やかな呼吸に戻ってゆく。

あとになって、落ち着いたヒカルはもっと早く言えよと怒ったけれど、はつんとして話を聞かなかったヒカルが悪いと答えた。私の為にあそこまでしてくれたことは嬉しく思ったけれど、確かにヒカルが話を聞かなかったのも悪い。
私とヒカルが一局打つということで、ヒカルの気持ちを収めてもらった。

もヒカルの事を案じていたから、せっかく再会できてもまだ一局も打っていなかった。
「さあ、俺とも打とう」
「はい」
ヒカルと一局打って疲れて眠ったあと、ヒカルの傍で碁を打った。ヒカルの眠りを邪魔しないように小さな電気にして、それと月の明かりを頼りに碁盤を眺める。遠い昔のことだけれど、虎次郎とかつて打った碁を脳裏に描いた。それから、ヒカルとが打っていた碁も全部覚えている。
「強くなりましたね、
「佐為もね」
負けました、と頭を下げるは満足そうに私をみた。
この子は負けてもいつもけろっとしていて、それでいてどこか嬉しそうな顔をする。囲碁は遊戯であり楽しむものと思っていて、浅いようで深い。
「うれしいよ、また会えて」
「私もです」
月明かりの下の一局は、私と虎次郎の思い出にまたひとつ加わった。

next



主人公と佐為の対局は、愛の営みです。おたんびおたんび。
Aug.2015