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楊海は引率している棋士の一人趙石が雑踏の中で声を上げたのを聞いて振り向いた。
誰かがものを落としたのを見ていたらしく、趙石は中国語で「落ちたよ」と言ったのだが日本でその言葉に反応できるかと言われると、まずありえない。幸いなことにその人物は自分に何かを言われたことを察知したのか足を止めたので、日本語が喋れる楊海が代わりに言い直した。おそらく足元に落ちていたものだろうと拾い上げれば、日本の女優のグッズだった。
「あ、謝謝」
どうやら最初にかけられた言葉が中国語だとまで分かっていたようで、落とし主の少年は中国語で礼を言う。
少年は納得したように受け取ったものを眺めていたので、趙石も覗き込む。すぐに、趙石は自分の好きな女優のグッズであると気づいて声を上げた。趙石も楊海も日本の女優が好きであったため、二人ともまじまじとそれを見つめる。そのことに気づいたのか、目の前の少年は中国語で淀みなく喋り趙石にあげていた。
グッズをもらえたこともそうだが、中国語で喋っていたのも嬉しかったようで趙石はにこにこ笑っている。
正直通訳した自分にご褒美をくれても良いのではと楊海は思ったが、子供同士だからこそだったのかもと思い諦めることにしてレセプション会場に向かった。
気がつかなかったがその少年も同じところへ向かっており、中国に来たことのある伊角と一緒にいた。
少年、と三度も顔を合わせた時は、さすがに楊海も驚いた。関係者のみ入れる控え室であったため、選手の身内といえど大会に関係していない人物が入って来るとは思わなかったからだ。
次の日の日本対韓国の対戦なんかは、選手ではなく団長の倉田に連れ込まれている所を見ると、もう可哀相としか思えなくて関係者ではないを厭うものは誰も居ない。趙石なんかは同い年であることや、ものを貰ったこと、それから言葉が通じることもあってに隣の席を促したり喋りかけたりしていた。
塔矢行洋が来てからは席を譲って趙石と立って観覧していただったが、終局を迎えることとなりほとんど全員が部屋を出払うと彼はそこに残っていた。行洋も楊海も静かにそこにいたを気にせずに話して居た。
だが、対局場に行こうと振り向いた楊海は、が丁度あいた碁盤に一手を打った所を目にし、ぞくりと鳥肌を立てることになった。
理由も分からないが、ただただ、様になっているその打ち方。
彼は、小さく笑っていた。囁きあって内緒話をした幼い子供みたいに無邪気な笑み。
淀みなく腕が伸び、華奢な指先で黒い石をぱちんと置いた。それだけのことだった。
わずか十四歳の子供とは思えない雰囲気でありながらも、あどけない少年という言葉を体現したかのような柔らかな見た目が、言い知れぬ魅力と、わずかばかりの威圧感をかもしだす。
———さあ、打ちましょう。
まるで、その一手はそういっているようだった。音に振り向いた行洋も、の雰囲気に何かを感じたのか、ほんの少し目を見開いた。そして何かをいおうと口を開きかけ、けれどが視線をこちらに向けて、楊海に先を促したので叶わなかった。
「失礼します」
ぺこり、と頭を下げて行洋に挨拶をしたは、あっさりと部屋を出て行った。
残された碁盤にある一手を見下ろし、行洋は白石を指で撫でたが持ち上げることはせず、二手目は打たなかった。
三手目が打たれることはないからだ。
楊海は先を歩いているに追いつく為に足早に近寄る。
「君も、碁を打つんだ?」
「時々」
「でもプロじゃないんだよな?」
「なる気はあんまりないですねえ」
「ふうん。さっきの一手はなんだったんだい」
「———別に。ただの試し打ちですよ」
試し打ちと言うが、悪戯をした後の子供のような笑みを浮かべていて、好奇心がくすぐられる。しかしすぐに対局場に到着し、なおかつヒカルと永夏が話している姿が目に入り、二人とも視線をそちらにやった。
子供っぽいやりとりをしている永夏と秀英にはくすりと笑い、楊海はそんなを一瞬戸惑いながら見た。自身も日本語と韓国語が分かるが、も同じように中国語に韓国語まで分かるとは思わなかったからだ。
遠い過去と未来を繋げる為に碁を打つ、とヒカルは泣いた。
永夏は自分たちは皆そうだろう、と言って席を立った。
と佐為はその言葉を聞いて、そっと目配せをして微笑み合ってから、泣いているヒカルを慰めた。
誰にも見えない白魚のような手がヒカルの頭を撫で、未発達な華奢な指先は涙に濡れる頬を包み込む。
「……————」
佐為、とは言わなかったが間違いなくそう言っているのだろう。ヒカルはの腰に顔を埋めた。
おしまーい。
Dec.2015