harujion

墨と彩

雪融け 01

 江戸時代、囲碁の棋士となるべくそだてられた虎次郎は一人の幽霊に出逢う。
 その身なくしても碁を打ちたいと切望する、平安時代を生きた先人に、虎次郎は身体をかした。操られるというわけではなく、ただ幽霊の望むままに石を置いてやるだけだったが。
 幽霊の手筋は、容姿と同じで美しく、聡明で、時に鋭く猛々しい。虎次郎の持つ腕ではとうてい叶わないし、魅力的に映った。それが自分の力として認められるというのは、傍から見れば卑怯なことなのかもしれなかったが、二人はそうは思わない。
 虎次郎は彼の強さが形になることを喜び、彼は虎次郎にただただ感謝した。
「佐為———ごめん」
 ながらく、誰にも見えぬ相棒と過ごした。けれど大人になり秀策と名を改めた自分は病に倒れてしまう。
 流行病で床に伏す周りの者たちを看病した結果のことだった。後悔はしていないが、残念に思う。
 多くの者がこの病で逝くのを見送って来たのだから、秀策は長くはないとわかっていた。
「虎次郎……謝らないでください」
 可憐に泣く佐為を、秀策は霞んだ瞳にうつす。
「もっとお前の碁を……残したかった。打たせてやりたかった、けれど」
 言いかけて咳をする秀策は、それだけで大分体力を削られ、ぜいぜいと息をつく。
 佐為は、透き通る手を伸ばしたが、当然上下する胸を撫でてやることも、身体を支えてやることもできない。伸ばしかけ、くにゃりと曲がった指先は座る膝の上にゆっくりと戻された。
「俺が死んだら……お前はどうなるんだろうね」
「……わかりません。きっとまた、碁盤に戻るのでしょう」
「俺はどうなるんだろう」
「それは……」
「……一緒にはなれないんだろうね」
 熱に浮かされる秀策は柔らかな口調で佐為に話しかける。ごろりと頭を転がして、ふふっと笑う秀策だったが佐為は再び泣きそうな顔をしていた。
 佐為は死んでいて、秀策は生きていて、今まで一緒に居られた。それなのに、秀策が死んでも佐為と一緒には居られない。
 死が二人を別ち、互いに誰も居ない場所で眠りつくのだ。

「俺はきっとね、生まれ変わるよ」
「生まれ、変わる……?」
 日に日に窶れて行く秀策と、毎日さめざめと泣いている佐為は色々な会話をした。
 碁を打たない日々は会話しかすることがないのだ。
「そのときもまだ幽霊だったら、会いにおいで、また……打たせてやるから」
「わたしは……きっとずっと幽霊なのでしょうね、神の一手をきわめていないのですから」
「そう、かな」
 ぽつりと秀策は乾いた唇で呟く。
 かさついたそこは、吐息のような声しかもう出せない。
 小さな声を聞き取るように、佐為は顔を寄せる。本当は心の中でも会話が出来るのだけど、高熱のため器用な真似はできなくなっていた。
「神の一手をきわめるのなら、まず肉体を得なければ」
「え……」
「そうだろ」
 少し、意志のともる視線が戻って来た。
 秀策は佐為で、佐為は秀策。二人はそう思って囲碁を打って来た。秀策が居るから佐為の存在は確立し、佐為がいるから秀策が在る。
 平安から江戸に至るまで彼は誰とも出逢えなかった。これから先も出逢えるか分からない。出来るとしたら生まれ変わった自分なのだろうと、秀策は思っている。
「俺の居ない世で待つくらいなら、一緒に黄泉へ逝こう」
「虎次郎」
 まるで、霊が人を唆すように囁いた。

 秀策は息を引き取る前、また謝った。
 もっと碁を打たせてやりたかったから。
 そして、やはり置いて行ってしまうから。
 どれほど彼が碁を打ちたいのかは秀策も分かっている。きっと彼はずっとずっと、誰かに会えるまで待つしかないのだろう。一緒に逝くことは無理だろう、と諦めている。
 けれど、秀策は生まれ変わったらまた打たせてやれると思っていた。
「また会おう、ね」
 なんとなくの確信だったのだが、その最期の言葉に佐為は啜り泣く。
 触れられない亡骸に縋り付き、家人が来ても姿が見えないのを良い事にずっと傍にいて悲しみに暮れていた。





 佐為は秀策にまた会えるとは思えなかった。
 生まれ変わった人など見た事もなければ聞いた事も無なく、もし魂が同じでもきっと自分と過ごした日々はその人に無いのだろう。
 秀策が黄泉へ共にと誘った時も、本当はそれに甘い響きを感じて受け入れそうになった。でもきっと、この日々を忘れてしまうのだから逝きたくないと、返事をしなかった。
 でも、でも、誰も居ない部屋は寂しかった。
 秀策の碁盤は丁寧な掃除の後にしまいこまれ、遺骨は埋葬され、ただ広い和室に取り残された。
 どうせなら死んだ瞬間に己も碁盤の中で眠りにつければよかったのに、と思いながら染みすらつくれぬ涙を畳に零す。
 一緒にはなれないんだろうね、と言った声が脳裏に響いた。
 本当は一緒になりたかった。
 黄泉でも、来世でも、現世でも、どんな姿でも、あの子と共に、いくひさしく。

「———たとえ、記憶が薄れて、も…………?」
 佐為は目を覚ましながら、思考を受け継いだ。
 口に出していた自覚は無くて、自室のベッドで目を覚まし、カーテンの隙間から差し込む朝日を見て目をまたたく。
 ゆっくりと起き上がり部屋を見渡すと、広い和室ではなく見慣れた洋間の自室だった。ラグは好きではないのでフローリングがむきだしになり、家具は壁ぎわにきちんと並んでいる。ベッドの隅には向こう三年はお年玉や小遣いは要らないからと宣言してまで強請った、足付き碁盤がおかれていた。
「あれ?」
 まだ声変わりのしていない自分の声に、不思議と違和感を感じてしまう。
 自分はこんなに幼かっただろうか。
 夢の中では大人になったつもりで、小さな子供に碁を教えていた。その子が大きくなって、病で死ぬまで、ずっとずっと大人の姿のままだったはず。
 ぽとりぽとりと、涙がこぼれて来るのに気づいた。今度はきちんと、布団に水がしみる。
「ああ、わ、たし……」
 一般家庭に育ったわりに、古風な喋り方だと言われた。この歳の少年で自分を私と言う人はまずほとんど居なくて、どうしてと聞かれることさえあった。自分でも分かっていなかったが、たった今納得した。
 ひとしきり泣いた後、ベッドから抜け出して碁盤の前に座る。
 あの子と自分の打った碁を並べたくなったのだ。
 記憶にはしっかりと残っていて、佐為はほっとしながら石を置いて行く。
『おまえの碁は美しいね』
 斜め下に居るあの子は、まろやかな微笑みを浮かべて自分を見て来る筈だった。
———あなたの碁だって、美しいのに。
 そう何度も言うのにあの子は自分の碁を褒めた。
 佐為も自分の腕には自信があったけれど、やっぱり自分にはない考えを持つあの子の手も好きだった。
 結局それを人前にま出せなくしたのが佐為だったのだが、本人は気にしていなかったし、愛しい数多の星を一人占めするのは嫌ではなかった。
 一局並べ終えて息を吐くと、丁度部屋をノックする音がした。
「起きてるか?佐為」
 返事をする前に慌ただしくドアは開かれた。息を弾ませていた父は、正座して碁盤に向かう佐為を見るときょとんとしてから小さく笑う。碁とは全く関係のない所で生きている両親にとっては、朝食もとらずに朝一番で碁を打っている息子がおかしいのだ。といっても、嫌な気持ちを抱いているのではなく、純粋に笑ってしまう程度だった。
「どうしたんです?」
「ああ、いや、うん———生まれたんだ!」
 佐為はそういえば着替えもしていないと思いながら立ち上がるが、父の言葉にぴたりと動きを止める。
 そういえば、母は妊娠中で数日前から入院していた。なおかつ、そろそろ生まれると言っていた。
 生まれたという言葉に、ぱあっと顔が明るくなるのを自覚する。佐為は弟が出来るのを楽しみにしていたのだ。
「ほんとうに!?」
「ああ、今日は学校を休んで、赤ちゃんに会いに行こう!」
 父が嬉しい計らいをしてくれたので、佐為はこくこく頷いた。ならば着替えねば、と寝間着を脱ぎ捨てて自分の服を引っ張り出す。
 碁盤は勿体ないのでそのままにして、朝ご飯は途中のコンビニで買うからと言われながら車に乗り込んだ。





 七つ上の兄は、が生まれた時に虎次郎と名付けようとしたらしい。
 兄は囲碁が大好きだったので、過去の棋士である本因坊秀作の幼名をつけようとしたのだと、両親が笑い話として零した。それは、自分の名前の由来を両親に聞いてみましょう、という小学校の宿題の関係で聞いたのだがは今の今まで知らされなかった事を勿体なく思う。
 生まれた時からの事が大好きで甘やかしてくれる、佐為という兄は前世で見た美しい幽霊にそっくりな少年だった。
 両親の言い草では、ただの偶然なのかもしれない。
 魂は同じで生まれ変わっている可能性もあるが、自分のように記憶があるかは分からない。
 それに彼は、ずっと碁盤の中で自分を待っていると思っていた。
「ただいま、
 兄は中学生にもなって、帰って来るとまず一番にの部屋に顔を出す。リビングなら母も居る事が多く不思議ではないのだが、こうして部屋で宿題をしているときにわざわざ声を掛けに来るのは、相当だと思う。は兄より遅く帰ることは殆どないが、今までわざわざ兄の部屋に挨拶しに顔を出した事はない。むしろ、帰って来たら兄はすぐに出迎えに来る。
「おかえり、兄さん」
 つい佐為と呼び捨てにしそうになるのだが家の教育方針もあるし、踏み込めずに彼を兄さんと呼ぶ。イスごと振り向いて声をかけると、兄は満足そうに頷いた。
「今日は?」
「いく」
「ええ。手を洗ってくるので待っていてください」
 このやりとりは日常的なことで、兄が棋譜並べをしているのを見るか否かという掛け合いだった。たいていは兄の隣にはべって見ているし、兄もそれだけのことなのに当然の様に誘う。
 は打つよりも、見ているのが好きだ。
 佐為に似た兄が白い指先で碁を打つのを見ているのが、もっと好きだ。
 今まで何度も相手をしないかと問われたけれど、は一応囲碁を学んだことはなかったのでルールは分からないと言っている。教えると言われたけれど、素人のふりが出来そうになかったので、見ているだけが良いと答えたのだ。
 だから、兄と打ち合ったことはなく、手筋も殆どしらない。棋譜並べの棋譜は、もっぱら他人のものなのだ。
 けれど両親から虎次郎と名付けようとした話を聞いて、少しだけ希望と興味が沸く。
「兄さんの碁がみたい」
「え?」
 兄はきょとんとしてから、微笑する。どこか寂しげな眼差しで自分を見て、そっと指先が伸びて来る。
 頬を撫でられるので目を細める。なんだか、佐為に撫でられているみたいで、兄に触れられるのは好きだ。
「———では、私の思い出の一局を」
「思い出?」
 今度はがきょとんとする番だった。
 兄はよく外で、部活で、ネットで、碁を打っているようだから不思議ではない。けれど、寂しげに自分を見て、頬を撫でたその行動の意味はわからなかった。否、そうであればいいという理由ならあって、それ以外はわかりたくない。
 左腕にへばりついて、は宇宙を眺めた。
 ひとつまたひとつと、兄の思い出の星がそこにきらめく。
———やっぱり。
 シャツをゆるく握ったのを、兄は気づかない。
 が微笑みながらも涙を零しているのを、佐為は気づかない。
 並べ終わるまで、ただ静かにみていた。





 佐為の弟は、虎次郎によく似ていた。
 彼の赤ん坊時代はさすがに知らないが、生まれて来た弟を見て虎次郎と呼びかけるくらいに何かが似ている。
 生前、自信ありげに言っていたとおりに生れ変わって来たのかもしれないと思った。
 きっと、魂は同じなのだろう。
 すくすく育って行く様を見ているのは嬉しくて、赤ん坊が可愛いのは当たり前なのだが弟は本当に愛しい存在だった。
 はおしゃべりも出来ない頃から自分のしている囲碁をながめ、膝の上にのしかかりながら手が動くのをじいっと眺めていた。記憶のなかったころの自分も囲碁が好きだったから、もそうなのかもしれないと思って碁石を小さな掌に乗せてみた。食べちゃうかもしれないから駄目と母に怒られたので諦めたけれど、急にものを取り上げられてしまったはしょんぼりしていた。
「せっかくもらったオモチャを取られたらかわいそうでしょう?こういうのはあげないの」
「ごめんなさい」
 取り上げたのは母なのだが、取り上げざるを得ないものをあげたのは自分なので佐為は反省した。
 は利口な子だったけれど、きちんと分別つく年頃になるまでは見守るのが家族の義務なので佐為はに碁石は握らせなかった。
 しかし彼が言い付けをきちんと守る事を覚えたのは同年代の子供よりも早かったので、佐為はわりと早い段階でまた碁石を持たせてあげた。しかし表面を撫でたり握ったりするだけですぐに返された。少しショックを受けたが、は何か駄目だったのだろうかと訝しげにするので、すぐに表情を改める。弟が悪いのではないのだ。

 打ちたがろうとはしなかったが、自分が碁を打っている姿をじっと見つめてくるはやっぱり囲碁が好きなのだろう。
 小学校に入学するころになって、友達が増えて遊ぶものも増えたというのに変わらず佐為が詰め碁をしたり棋譜並べをしたりするのに付き合ってくれた。といっても、やっぱり横で見ているだけなのだが。
 小さな頭が下にある光景が懐かしくて愛しくて、佐為はついついに毎回声をかける。

「兄さんの碁がみたい」

 ある日、つぶらな瞳が佐為を見た。
 一瞬、虎次郎と呼びかけそうになりながら微笑む。丸みおびた頬を撫でると、目を細める猫のような動作は前は見た事がない。触れられなかったのだから当たり前なのだけれど。
 思い出の一局を、と告げてに見せたのは、虎次郎がまだ碁石を持てる時に打ったさいごの一局だった。
 互いを思い合う絆のある一局は、もしかしたらの魂を揺さぶってくれるのではないかと思った。そうじゃなくても、に見せるのならばこれが良いと思った。
 左腕によりかかったまま、は動かない。
 打ち終えてからそっと見やると、頬の膨らみが上から見えた。
 そこを、雫が這う。
!?」
 肩を掴んで顔を覗き込むと、は静かに泣いていた。
 濡れた睫毛は羽ばたくようにぱさりと動き、その拍子にまた涙がぽたぽた垂れて行く。
 今の佐為は、たやすくその雫を拭えるのだけれど、どうしてだか見つめてしまう。
「———生まれた時、虎次郎と呼んだんだって?」
 両親は、『名付けた』と表現するが、本人達だけは『呼んだ』のだと分かっていた。
 は涙を自分で拭いながら笑って、佐為を見る。
 また会えたと言いかけたを、感極まって抱きしめてしまったので肩で口を塞いでしまった。

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次はほぼヒカルのターンです。
Aug.2016