春のおまもり 38
おおよそ夏とは思えない、湿気の少ない澄んだ空気が頬を撫ぜた。
波の音や潮のにおい、人の喧騒とかを想像していた俺はこの静けさと、あまりの心地よさにあと3時間くらいまどろんでいたいなという気持ちです。
「───きて、起きて!……!!」
揺さぶられて、ぼんやり開けた視界いっぱいに美しい顔面。
「んあ、ジーンだ……はれ、俺、夢の中入り込んだ……?」
「……」
俺の意識が戻ったのを見て、ジーンは少し安堵したような、しかし焦りの浮かぶ顔。
それもそのはず、意識が戻ったとはいえ、ここは夢の中である。
俺は直前まで何をしていたんだったか。
「覚えてる?、栄次郎さんに憑依していた霊に襲われて倒れたんだ」
あ。
憑依霊を落とすという松崎さんの後ろで、みんなで見守ってたはずだ。
祝詞を聞いて姿を現したのは動物の形をした霊だった。うなり、飛び出してきたので、咄嗟に皆を後ろに下がらせた。
いざとなれば祓える滝川さん、リンさんはいいとして、ナルを下がらせようと背中を押し付けていた。
たちまち、狼のような犬のようなものが松崎さんを飛び越えて、俺とナルのほうに向かってくる。
「ナル!いけません……!」
気合い入れてぶちのめそうとしていた俺は、身をかがめたナルの気配とリンさんの𠮟りつける声に気を取られてつい視線をやってしまって、ものすごい勢いの何かに吹き飛ばされた。
鬼の金棒に腹突き刺されたかなって思ったけど、いやまあ、あれのが痛かった。事故だったけども。
痛みを既視感と照らし合わせようとしていた俺は、結構衝撃に気をやられていたんだと思う。
ナルともども壁にたたきつけられるほどの勢いだったし、二人して噎せた。
「きもちわる……」
胸とお腹がむかむかした。
「君!ナル!大丈夫……!?」
「うぇ」
吐きそうというよりも、内臓をかき混ぜられるような、体中の血管を何かに走り回られるような、自分のじゃない感覚。
谷山さんが近寄ってくるのも、ナルがなんとか起き上がって、俺の身体をどかそうとしているのも、どこか遠い出来事に思えた。
「春野さん!?」
リンさんや滝川さんが俺を助け起こしてくれたようだ。身体の下からナルの足が抜けて、谷山さんが俺の指先をぎゅっと握って呼び掛けてくるのがわかる。
「なんか、入ってきた」
「まさか先ほどの霊が……!?」
「むり、やだ……気持ち悪い……やだ」
むしずがはしった。
外側をみんなに触れられるのとは違う。
内側をずるずると這われるみたいな不快感。
そして俺は、意識を手放したみたいだ。
「───思い出せた?身体に戻れる?」
「ちょっと、できないみたい……」
「え……」
心なし青ざめた顔のジーン。
「なんかさ、霊が入ってきたとき本当に気持ち悪くてさ、身体が。やんなっちゃって」
言葉を失い、ジーンは顔を手で覆う。
「まずい?皆には俺抜きで調査してもらうことになるんだけど」
「、自分の意識が今どこにあるか、わかってる?」
「へ」
ちょっとじとりとした顔、いや、途方に暮れた顔だろうか。
「僕は現実のことも、の肉体が今どうなってるかもわからなくなった───ここはいつも、眠っている場所とも違う気がする。霊場に近くて───それでいてもっと、気の遠くなるようなくらいの……」
ふと視界を見渡すと霧がかかったような空気が立ち込めていた。目を凝らすと、徐々に人影が見え始める。
たくさんの亡者だ。古風な死装束の人たちがぽつりぽつりと歩いてる。
あれ、吉見家にうろつく亡者がみえるようになったかな───と思ったところで、聞きなれた声やシルエットが目に入る。
「裁判の列はこちらでーす」
「落ち着いてゆっくり進んでくださーい」
これは、小鬼さんだ。
額にちまっと角が見える。
「なすびさん、からうりさん?」
「え、えええ!?桃太郎さん!?」
「し、しんだの!?」
獄卒が列を作ってるところに、同じように白い着物になってた俺も立っていた。
あ、俺これ死んだな……?
唐瓜さんと茄子さんにより、閻魔様と鬼灯さんの前にジーン共々連れて行ってもらえた。
わあ、懐かしいなあ、閻魔庁。
そして慌てた様子でチャカチャカ走ってきたお供たちも勢ぞろいし、俺がここにいる経緯を話す。
「霊に憑依されたくらいで自分のほうが魂飛び出るなんて、生きる気力なさすぎでは?」
「はうっ」
鬼灯様にざくっと痛いとこを刺されて、胸が痛む。
「桃太郎くん、まだ寿命残ってるから戻りな?」
「えんまさま……でも俺、身体への戻り方わかんない……ていうか今俺の身体と憑依霊どうなってるんだろ」
「仕方ありませんね……浄玻璃鏡で見てみましょう」
鏡のチャンネルをなんとか俺の身体に合わせると、ぐったり板の間に倒れているのが見えた。
谷山さんがゆさゆさと、意識のない俺を呼び掛けるが一向に返事をしない。
『気を失ったのか?まずいな』
『ええ……憑依されているようですが───出て来ませんね』
『縛るか……?』
『効果があるかどうかはわかりませんが……』
ナルとリンさんの会話に、松崎さんが何でよと異を唱える。先ほど栄次郎さんが暴れまわっているのを見ているから体の自由を奪うべきだと考えるのは妥当なことだ。
『春野さんは……身体能力が恐ろしく高いです───そして、気功法も使えます』
『なんだって?』
朝活仲間だったリンさんは俺が太極拳やらヨガやらで鍛えていることを知っているし、気功について話をしたこともある。
昔ほど怪力を必要としないので滅多なことでは使わないが、丹念に訓練しているので、もしかしたら俺は危ない力を秘めているかもしれない。
『憑依した霊はおそらく、春野さんが今抑え込んでいるのでしょう、どうなるかはわかりませんが、次に目を覚ましたとき、われわれは一瞬にして殺される可能性もあります』
リンさんがもっともらしく解説してくれているが、俺は霊を抑え込めていない。むしろ身体を明け渡してしまったようなものなので、周囲からの視線が痛い。だらだら、とない汗をかく。
「大丈夫、の身体で悪いことはできないと思う」
「憑依霊が暴れることは万が一にもありえないですね、……そのうち勝手に浄化されるでしょう」
ジーンと鬼灯さんが口をそろえていう。ホントかなあ。
小鬼さん2人がちらっと俺を見てあーの顔をして鏡に目を戻した。どういう意味かな。
リンさんに負担を強いる形になるが、俺を封じることにしたらしく、紐で縛られることなく布団に寝かされる。
そして朱い墨を持ったリンさんが俺の前髪を上げて額をあらわにすると、そこに現れたのは、第三の目。いや三つどころではないはずだが。そして徐々に目元が朱色にいろづいていく。
「え!?これ、白澤君が桃太郎君に憑依してる?」
「そういえば、いの一番に駆け付けてくると思ったのに来ていませんでしたね」
閻魔様と鬼灯さんの言葉に固まる。
「白澤さんって人間に憑依できるの?」
「普通無理だろ、人間がまず受け入れられない」
「力の強い神だしなあ」
「ほかならぬ桃太郎さんの肉体だからですね」
お供がきょとんとしているが、鬼灯さんの言葉に、再びみんながあーとこちらを見た。
リンさんは額に現れた目にぎょっとしたようだった。
そして間もなく、俺の肉体はぱちりと目をあける。
距離を取り、様子を見てくるリンさんに対し、白澤様が入ってるであろう俺は上半身を起こして、伸びたかと思うとうなだれる。
『あ"~……やば、二日酔いキッツ……黄連湯ある?』
『……は』
見てた俺は崩れ落ちた。最悪である。
「二日酔いって憑依しても引きずるのかな」
「知らねーけど、そうなんじゃない」
茄子さんと唐瓜さんの会話に胸が痛い。
リンさんは珍しくおどおどした様子で、春野さんですかと問いかける。
『う~ん、タオタローくんは今ここにいないんだよね……憑依された衝撃で飛んでっちゃって』
『ではあなたが憑依した者ですか?』
『あれはもう、いないよ』
にこっと笑った俺の顔はなんか、自分のものとは思えなかった。
具合は悪そうに、だけど余裕綽々と言った様子で、布団の上に胡坐をかいた俺ならぬ白澤様。
『憑依霊なんかがこの身体を使えるわけないだろ?だからって空っぽにしておくわけには行かなくてね』
『空───?春野さんはどこへ飛ばされたというのですか?それに、あなたは何者ですか』
『リン?が目を覚ましたのか……?』
隣室で話し込んでいた声が聞こえたのだろう、ナルが襖の向こうから声をかけてくる。
白澤様は自分の正体を名乗ることなく、よっと声を上げて立ったかと思うと襖を開けた。
座っていたナルを一瞥して、ぐるりと周囲を見回す。そして谷山さんとぱちっと目を合わせるなりにこにこと笑った。
『麻衣ちゃん、久しぶり。逢えてうれしいよ。またデートしようね、今度は2人きりで』
「───もう死のう……」
「いやあんた、ほぼ死んでるんだって」
「現世帰るのやめる?」
一目散に谷山さんのところに行ってきゅっと手を握った白澤様をはたいてください、だれか、どうにか。
唐瓜さんと茄子さんに慰められてるような、慰められてないような感じで背中をぽんぽんされた。
next.
魂スコーーーンがずっと書きたかったのであります。
前のほうの話で、霊媒みたいに憑依はできないっていってるんですが、それは自分がここまで魂抜けやすいと思っていたのではなく、亡者を亡者としてはっきり見るので無理だろなって思っていただけです。
この展開のにおわせではあるのですが。
Aug 2021