春の蕾 04
ちょっと暴漢と戦ったら、うっかり髪を掴まれ、逃げるためにバッサリと髪の毛を切るハメになった。家族はあらゆる意味で泣いた。
そろそろロングヘアーで女の子に見える風貌からは脱却したいと思っていたので俺としてはいいタイミングである。
俺に髪を伸ばすように勧めたおじいちゃんは、さっぱりした俺をみて、大きゅうなったな……と目を潤ませた。これはこれで良いのだとか。
「ほんまに髪、短なっとるな」
久しぶりに会った信ちゃんは俺の顔というか髪型をしげしげと眺める。
手紙では少し前に、髪を切りましたと近況報告をしていた。
「初めて会うた時もこんくらいやったな」
俺は初対面の時短髪だったが、髪飾りをつけて女児用の着物だったことからまるで女の子みたいで、おばあちゃんがうっかりサクラちゃんと名前を覚え直してしまったせいか信ちゃんは勘違いしたっけな。
笑ったらいいのか謝ったらいいのか……。
「そ、そだ、おばあちゃん元気?この前腰やったゆーてたな」
「うん、一時期しんどそうにしとったけど、今は歩いとるよ」
駅のロータリーで立ち話するのもなんだし、信ちゃんの自転車に荷物を乗せてもらう。
おばあちゃんちまでは歩いて20分くらいだったかな。暑くなる前には家につくだろうか。
「でも腰は心配だなあ、病院は?」
「今は行っとらんな」
しばらくはおばあちゃんの腰痛の話で盛り上がったが、ふいに信ちゃんが俺の方を見た。
ん、と思ったのも束の間、じんわり湧いた汗が肌を垂れる感じがして、キャップを取り肩の布でこめかみを拭う。
「綾小路のじいちゃん、悪いんか」
「いんや、ちょっとした風邪───」
ぽふっとキャップを被りなおして答えた。
この時信ちゃんちに来たのは、夏休みだからってだけではなくて、おじいちゃんが少し入院することになったからでもあった。
おじさんとお兄ちゃんは仕事があり、おばさんはおじいちゃんの世話があるから夏休み中の俺をかまってやれん、という理由が大きい。
ご飯くらい自分でできるし、おばさんも家をまるっきり留守にするわけではないのに。
「───らしいけど、入院日数結構とってるし心配だな。家にいてもなんもできないからしょうがないけどさ」
「そうやな」
「でもちょっと楽しみだったんよ、今日」
「ん?」
「しばらく一緒だ、信ちゃんと」
まあるい目がきうっと窄まりながら揺れた。
「今まではほら、一泊とかだったしなー、いっぱい遊ぼうなー」
「宿題もちゃんとせなあかんよ」
「当たり前だろ!俺はちゃんとやる男だ」
「ははは、そうやろな」
信ちゃんは笑いながら自転車を押し、俺は宿題は全て持って来たので滞在中に終わらせることを宣言した。
おばあちゃんは知ってたけど几帳面で、丁寧な人で、暮らしぶりが真面目で素朴だった。
朝はみんなが動き回るよりも前に起きて掃除、庭の手入れをして、朝ごはんを作る。
俺はそれを尻目に縁側で瞑想、その後軽く体を動かす。綾小路にいる時と違うのは、廊下の雑巾掛けと、植物に水をあげる時に運ぶのを手伝うこと。信ちゃんは早起きして朝食の準備を手伝っていた。
午前中のうちに宿題を進めて、お昼を食べたら遊びに行って、夕方はランニング。
普段は体育の授業と休み時間に遊ぶ程度、という運動量の信ちゃんが付いて来ると言うので、剣道教室のチビっこたちを鍛える感覚でトレーニングをした。
数日後、電池切れの信ちゃんが居間に転がっていた。
手を洗って晩御飯の下ごしらえを手伝おうとした俺は、台所から見えた小さな塊に気づいて静かに近づいた。
「遊び疲れたんやなあ」
俺が覗き込んでいた背後から、おばあちゃんの何気ない一言がかかる。
「毎日連れまわしちゃったから」
「ええのええの、元気な証拠や。起きたら前よりもっと元気になるでな」
おでこを撫でると、くすぐったいのか意識が浮上したのか、眉を顰めた。
少し眩しく感じたり、音がやけにでかく感じたりしたのかも。テレビのスイッチと居間の電気を消して、明るい台所に戻る。
「今日は一人で走ってくるね」
「平気なん?」
「もう迷子ならんよ」
ご飯が炊き上がって、汁物の味見が終わって、魚の皮がパリッとした頃におばあちゃんとそんな会話をした。
「俺に付き合って毎日走ってくれて、きっといつも以上に疲れてるから」
「確かに慣れんことやろなあ、せやけど、もうしばらくの辛抱や」
それは続けられるようになるという意味で、少し戸惑った。
信ちゃんは別に体を鍛える必要はないんじゃないかな。スポーツや武道をしているわけではないのだし。
「ばあちゃん、くんが来てからは調子ええんよ、教えてくれた体操のおかげやね」
「そう、よかった」
「くんが帰っても続けよう思てな」
「そうしてそうして、毎日するんが大事なんよ。ゆっくりね、丈夫になってくから」
「信ちゃんも丈夫になってくれるとええなあ」
「……うん、そうやなあ」
俺のルーティンに北家の習慣が加わったが、逆に北家は俺の教えた健康法が習慣に加わった。おばあちゃんでもできるように優しく、血や気の巡りが良くなり一日を快適に送れるように考えた体操である。
腰痛持ちみたいだし、足腰や体幹、血行は大事だ。最初の数日は夜にマッサージもしたので、少し改善が見られただろう。
「お医者さんみたいやね」
俺お医者さんだったんだよ、とは言えないが、ちょっと誇らしくて笑って頷いた。
匂い立つ香りにつられたのか、暗闇の中でもぞりと山が蠢く。背高くなったそれは、起き上がった信ちゃんだった。
「おはよう、信介」
「ん……」
声がうまく出ないようだったけど、のそりと立ち、台所にやってきた。
「腹減った」
「元気やなあ」
寝起きの信ちゃんを見て微笑ましげに頷いたおばあちゃん。俺は二人のそのやりとりが微笑ましくて、人数分の味噌汁をよそった。
顔を洗って来た信ちゃんは戻るとすぐに配膳を手伝い、お澄まし顔で食卓に着いた。
今日もお父さんお母さんは遅いみたいで、俺たちは三人で両手を合わせていただきます、だ。
礼儀正しく、だけれどたっぷりご飯を飲み込んでいく様子に、勢いが良いなあという感想を抱く。起きたらもっと元気になる、というおばあちゃんの格言は間違いではなかった。
「信ちゃん、ゆっくりたべんと詰まっちゃうよ」
「ん」
自分でもいつもよりペースが早いと気づいたみたいで、俺の注意を聞いて丸く膨らんだほっぺのまま箸を休める。そこから静かに咀嚼し、嚥下した後に味噌汁に口をつけてほうっと息をつく。
「今日は夜のランニングもお休みしたら?」
「なんで?行くよ?」
「え」
至極当然のようにきょとんと返されて驚いた。いや、さすがにそろそろ慣れない習慣に疲れたかと思ったんだけどな。お昼寝とたっぷりご飯を食べる様子を見て確信したんだけどな。
「疲れたんちゃう?」
「いっぱい寝て、いっぱい食ったから平気や」
「そう」
なんだろう、この子供の成長を垣間見た感じ。
剣道教室のチビッ子たちも日々成長してると思う。最初はランニングもついてけなくて、ぴいぴい泣いてたり、竹刀をまともに持てなくなってすっぽ抜けたり。それが次第に力をつけて走って、姿勢がしゃんとして、道着と防具が板につくようになるのだ。
「ごちそうさま」
「はいお粗末様。走りに行くんでも、少し休んでからにしいや」
「うん」
信ちゃんは俺よりも一足先に食べきって、両手を合わせた。
おばあちゃんは食器を片付ける信ちゃんの背中に声をかける一方、俺は黒豆さんが箸からひょいっと逃げてったのを追いかけていた。
「長く走れるようなったな」
距離の目安がわかりやすく見通しも良いことから、土手の道をランニングコースにしていた。
要所にベンチもあるし、手洗い場もあるので最初は途中で休憩を挟みながら走っていたが、信ちゃんはすぐにある程度の距離を続けて走れるようになった。
前も走れなかったというわけではないんだけど、疲れてフォームが悪くなってたので俺が止めてたのだ。
呼吸の仕方、体重のかけ方、姿勢、腕の振り方。一つずつ指摘して矯正すると信ちゃんは瞬く間に吸収していった。
「……に扱かれたからな」
「あら、厳しかった?」
走り終えて自転車のところに戻った時、しみじみと言い放った俺に信ちゃんは肩をすくめた。
まだ少し息が上がってるので、少し言い方がつっけんどんだけど、これは怒ってるわけじゃない。
からかうようにウフっと笑うと、息を整えてた信ちゃんは一瞬きょとんとしてから、ふっと笑った。
「いや、好きや」
まさかそんなストレートに言われるとは思わず、今度は俺がきょとんとしてしまう。
「毎日の積み重ねってこういうことやろなって思う」
信ちゃんそういうの好きだよね、おばあちゃんも。
「正しいことを丁寧に続けていくんは気持ちがええ。実際に身体も楽んなるしな」
「うん。信ちゃんもなんか、スポーツはじめてみたら?もっと楽しくなるかもよ」
「スポーツか……は剣道やったっけ……一緒にできるもんがええかな」
「うーん、でも多分俺、剣道は誰ともやらん気がするな」
自転車の前かごに入れておいたスポーツドリンクを取る。ボトルを開けて手渡すと、信ちゃんは不思議そうな顔をしながらも口をつける。なんで、と話を促すような目つきだ。
「俺は他にも色々なことに手をだしていて、結局は自分を鍛えるのが真意なんだ。まあそんなかで子供に教えるのも、人から教わるのも楽しいけどさ」
信ちゃんから返ってきたボトルの内容量は半分になっていて、残りは全て俺が飲み干した。
「だから俺がやってるからって剣道やらんでもいいと思うし、むしろ信ちゃんがやりたくなったものを見つけて、俺に教えて欲しい」
「そしたら、一緒にやるんか?」
「うん、やる」
「簡単にいうやつやなあ」
はははっと信ちゃんが笑った。
滞在中、信ちゃんも俺も結局休むことなくランニングを続けた。
おばあちゃんの腰痛はすっかりなくなり、信ちゃんはなんだかキリッと精悍な顔つきになった気がする。俺のブートキャンプが功を奏した結果を、北のお父さんお母さんも感じていたらしく、今度来るときは自分たちも運動に付き合いたいと言ったほどだ。この穏やかに熱心な感じは北の血なのか。
最後の日、朝食を食べ終えてしばらくすると、車のエンジン音がしてインターホンが鳴る。
おばあちゃんが出ていったので俺も立ち上がり、信ちゃんを見下ろした。彼はまだ座っていて、風景をみるように、ぐるりとあたりを見渡した。
「毎日、幸せやったな」
「───、」
信ちゃんの毎日の中に俺はいたのか。そして俺はその毎日から、当然絶たれるわけだ。
「またな、」
「ん」
ぎこちない挨拶が、寂しさを物語っているようだった。
俺の曖昧な返事も、その寂しさを込めていた。
流れていきそうで、こぼしてしまいそうな何かをとどめたくて、信ちゃんに触りたかった。
next.
しんちゃんのなつやすみ。
Nov 2019