春の蕾 09
(第三者視点)頬や顎、こめかみや額が何かに触れる。かぶった布団や頭を押し付けている枕ではない。指の腹と、かすかな爪に撫でられていた。
声も意図もない戯れは、ふいに肌を摘んでは放し、揺れた表面を指の腹で叩く動きが追加された。
振動により瞼を開くと、ぼんやり霞む視界は白く光り、やわらかくの姿をうつした。
「おはよー」
信介の髪の毛をとかして耳にかけるように流す。
短いので実際に耳にかかることもなく、生え際がそちらに流れる感覚だけがする。
「おはよう」
挨拶を返しながらもまどろむ。
昨夜隣で寝ると言ったに、起こしてほしいと頼んだのは信介であり、目論見どおりの朝を迎えた。
とても満たされた気分だった。
今年の春、信介とは同じ高校に進学する。信介が稲荷崎に誘われた時、はまだ志望校を決めていなくて、どう言うわけかそうなった。
京都も兵庫も、綾小路でも北でも、どちらにせよの家ではない。たぶん唯一、が手を伸ばすのは信介だったからだ。
は収入も得られず、庇護が必要な立場だ。そこにはきっと、負い目があった。
───あの子はなあ、一人ぽっちや。
の祖父であり、信介の大叔父はそう言っていた。
親戚からあんなにも愛されて、信介だって大事にしているのに、は一人でいるつもりなのだ。
家族はとっくにを認めている。だというのに、はそれに気づかない。大事にされているのは子供だからだと思っていて、大人なったら一人になると決めている。
そして恩を一生かけて返そう、だなんてことを考えているに違いない。
大叔父もだが、きっと大人たちはそのことに気づき始めている。だからこそは綾小路を離れて北に預けられた。親族はだれも、彼を一人にするつもりはなかった。
「……うん」
「うん?」
信介は自分の頬を撫でる手を包み込む。
「これ、俺のやったな」
はその発言に小さく笑った。
庭先で、光を食む植物みたいにじっとしているをよそに、信介は祖母と一緒に朝食の準備にとりかかる。
先ほどは門の前や庭の掃き掃除をしていたので、この時間は自分のために使わせていた。
目を瞑り風にそよがれ、暖かくも寒くもない空間を作り、何をするでもなく、何を考えてるかもわからない姿がそこにある。それでも世界から切り離された存在ではなくて、北の家の庭に馴染む。
朝食だと声をかければきっと、人間に戻って嬉しそうにこっちへやってくるのだろう。
「そういえばテレビ、今日やったね」
「ん?」
汁物に口をつけていたは祖母の言葉に眉を上げた。
まるでなんの話だかわからない顔をしているが、テレビといったら昨年自身がカメラに追われていたことだろうに、もう忘れ去っているらしい。自分はたいして使われないという、何の根拠もない自信は果たしてどこからくるのか、だれも知らない。
「20時や、録画予約しとるよ」
「楽しみやなあ〜〜くんきっとかっこよく映っとるでなあ〜」
「うん」
「……いや、どうだろうネ」
ようやくなんの話かわかったようだが、映らないという思いと、映ったとして大したものじゃないという思いの両方があるようで、あまり期待して欲しくはなさそうだった。
「も見るやろ?」
「うん、まあ……部員は出るだろうし」
「ほんならランニングは夕方にしたらええね」
祖母に言われて二人は頷く。
早めにランニングから帰り、順番に風呂を済ませて食事の準備をした。
食べ終わる頃には、予告のCMが流れ、が一瞬だけ映った。
「あ」
「今のくんやったねえ」
「おお〜本当に映ってる〜」
本人は使われない自信が強すぎて、余裕の笑みを浮かべている。
予告にしか使われないとさえ思っているのだろうが、そんなわけがなかった。
昨年全国初出場を果たし、良い成績に収めた学校が、今年は優勝を果たしている。密着度は高く、放送時間も長かった。なにせニュースの一枠ではなく、全国の部活に取り組む学生を取材する番組だったからだ。
「キャーーーイヤアーーーーー!」
見てられないと言わんばかりに、は顔を覆ってのたうちまわっていた。
夕食の片付けもできないでいる。
「かっこええな、くん」
「うん」
祖母と信介も箸を止めて、テレビを見つめた。
素振りの手本、走る姿、竹刀や防具の手入れをしてるところ、後輩へ指導する横顔、友人とのひととき、顧問と真面目な顔して話し合うところ、茶道部での活動姿、ありとあらゆるがそこにはいる。
は茶道部にまでカメラが付いてくることに少し照れ臭そうにしていた。おそらく学校側からは許可が出ていて、せっかくだからと着物で点前を披露するように言われているのだろう、和服に着替えて出て来たは和室へスタッフを誘った。
「春野さんは剣道部に入部しようとは思わなかったんですね」
「そうですね、思いませんでした」
「お強いのになぜなんですか?」
お茶の準備をしているに、ディレクターは深く切り込む。
は曖昧に笑って見せた。
その問いは全ての剣道部員がまさに聞きたかったことであるし、身内の誰もが明確な答えを聞いたことはないだろう。
『春野さんはこれまで、剣道、柔道、合気道、時には空手や拳法など様々な武術を嗜んで来たという。中でも柔道は子供の頃に出場した大会で優勝を果たしているし、剣道は試験こそ受けてはいないが連盟から熱烈に声がかかるほどだそうだ。そんな彼が今なぜ茶道部に。我々はそれが不思議でならなかった。』
目を伏せて答えを考えているようなの沈黙を、ナレーションの声が補う。
「勝ち負けに特にこだわりがなくて……負けても死ぬわけじゃないし」
やがて返って来た極端な回答を聞いて、ディラクターはえっと言葉に詰まる。
誰もが彼の強さに特別なものを感じるが、本人は剣道が唯一とは思っていない。
「体を鍛えるのは好きです。子供達に教えるのも、強くなっていくのも、見ていて楽しいですね。だからぼくがしているのはその手伝いです」
「で、では茶道部に入ったのは?」
「んー……心を整えるためかな」
うまく喩えられないと感じたのか、テレビの中のははにかむ。
一方で畳に這いつくばっていたは映像から逃げるようにして台所に食器を片付けに行ってしまった。
「茶道は勝ち負けじゃないでしょ、一本とか技とかもない。亭主と客人が茶を振る舞いいただく、交流ともてなしの心がそこにはあるんです。でも礼儀作法はたくさんあって、一つ一つを大事にする。───残心、ですね」
残心とは、剣道の有効打突の条件にもあるその言葉だろう。技を決めたあとにも油断せず次の攻撃に備えて身を構え、心を構えること。
言葉の意味そのものでは、心を残すこと、余韻である。また、一つ一つの動作を美しく行い続けることをいう。茶道においては所作以外にも、茶席に訪れた人との出会いを噛み締め、名残惜しむことも余情の残心と言われていた。
テレビではナレーターが言葉の意味を補足していたが、信介はぼうっと食卓を眺め、の皿洗いの音を聞いていた。
「終わりまで気を抜かない、最後まで美しく、果ては一生、己を磨く鍛錬です」
テレビの中ではが茶器からゆっくりと手を離す姿があった。その名残惜しむ指先と、離れがたいと言いたげな眼差しは、美しい所作だった。
その後も色々との映る場面は多かった。剣道部の支柱であると認識されていたのだから無理もないだろう。けれど、基本的に部員以外にものを語らず、それも最低限の静かな指導だった。
途中で服部平次の登場により画面が賑わったり、大会が始まれば部員が主体となるため、もすっかり静かにテレビを見るようになっていた。
入学式の当日、早起きするのだろうと思っていたはどうやらまだ起きてこないようだった。
たまにはゆっくり寝ていればいいのだと、信介も祖母も朝食を準備していたが、いつまでも起きてこない。体調でも悪いのかと部屋を見に行けば、特におかしなこともなく───いや、少しだけおかしな寝相になって布団からはみ出して寝ていた。
「?起きひんのか」
「んー」
掠れて呻くような声が地を這う。
「具合悪いんやったら休み」
「、きる……」
ぼさぼさの頭でなんとか体を起こしたを、信介はまじまじと見る。
「平気なんか?」
肌に触れてみたが、体温はいたって普通のようだ。本人は一応起きてはいて、自分の容体もわかっているのか笑った。
「たまにすんごい眠い日あって、……きょうそれ」
いつまでも瞼をかき混ぜているので、心配になって両手を取り上げた。
「階段、おりられるんか?」
「ん」
よたよた歩くが心配で、信介は前に立ち後ろ向きにおりた。朝食の席で待っていた両親と祖母は、手を引かれて、いつもは見せない寝ぼけた姿に思わず笑った。
「あらあら、かわいい」
「どないしたん、昨日夜更かししてもうたか?」
「してない……かお、あらわな」
「もう先食うたらええ、あんま時間あらへんし、あとで頭とまとめて直しや」
「うーい」
隙だらけの様子を、家族は微笑ましく見ていた。
今のは甘えた子供みたいで、だらしないただの男の子だった。
両親は朝食を手早く取ったあと、スーツに着替えて入学式の準備をしている。信介はとっくに着替えていたが、の手伝いに奔走した。
「くんどないしはったんやろ、珍し……というか初めて見たわ」
「あるやろう、そういう日も。なんやうちに馴染んできたんとちゃうか」
「体調悪いんと違うらしいで。たまにそういう日あるて、前言うてた」
「そうなん、なら今日はちょっと気にかけといたって、信介」
「うん」
車で学校へ行く最中も、は眠たげな顔でぼんやり外を眺めていた。
手を引いて車から降りて、テントの下へ行き新入生用の花とバッチをもらい、クラスを確かめる。残念ながら別れてしまったので、の教室に先に送り届けることにした。
「もう大丈夫」
「転んだらどないすんねん」
「そこまでアホじゃないです……」
教室の外の廊下で袖を引っ張ったの顔を覗き込む。朝食の時よりは幾分かさめた顔をしている。
「ほとんど目ぇ開けてへんかったやん」
「信ちゃんに掴まってるからいっかーと思って」
ふわあ、とあくびをしたあと、涙を拭いている。
「危ないんやから、ちゃんと起きなあかんやろ、特に外では」
「はぁい」
頼って甘えてくれたことは純粋に嬉しいのだが、そんなことをされるよりも外ではきちんと歩いてほしい。
信介が真面目に言えば、眉を八の字にしつつ、少し拗ねた声で返事をしてから笑った。
next.
テレビに出ちゃう主人公書くの好きです。
Nov 2019