Sakura-zensen


春にふれて 05

子どもの頃はほとんど毎日が家のお手伝いやばーさまからの指導ばかりだったのに、大きくなるに連れてそういうものは減って来た。
家の手伝いも慣れてこなせるようになった。
自分の仕事が減ったのはたぶん、学業を優先できるように取り計らってもらえたのが一番の要因だろう。旦那様は俺を使用人として雇っているわけではないし、ばーさまも居候としてやるべき事はやるように躾けたけど、それ以外は俺に自由にさせるようになった。
中学校にはやっぱり女の子として入ったから部活は当たり障りないものを選んだ。でも運動したいので、放課後はランニングやトレーニングをするようになった。

そういえば最近、坊っちゃまがバスケットボールを始められたそうだ。
学校から帰って来た俺はボールがバウンドする音を聞き取った。ああ坊っちゃまは今日、習い事までに時間があるんだなあ、なんて思いながら庭を覗いてみる。
「ねえや」
坊っちゃまはひょこっと顔を出した俺に気づいて、ボールを両手で持った。奥様もそれに気づいて振り向く。
「サクラさんおかえりなさい」
「ただいま帰りました、坊っちゃま、奥様」
「おかえり」
邪魔をしちゃった。そう思いつつも二人が笑顔でこっちを見て動きを止めるから、挨拶をしに傍へ行く。
「今日はお時間があるんですね」
「うん、あと20分くらいしたら、家庭教師の先生がくるよ」
「そうでしたか」
「ねえやもやる?」
「ええぜひ!」
「あら、でもサクラさんはいつもこの時間にランニングに行かれるでしょう?征十郎に付き合わせたら悪いわ」
奥様は俺が走りに行く事を知っている。
お見送りに手を振ってくれるので、ぺこっと頭を下げて走り始めるのが日課だ。
「そうか……知らなかったな」
「いつも坊っちゃんがお勉強されてる時間ですから。でも今日はせっかく坊っちゃんが誘ってくれたので、ご一緒させてください」
「ほんとう?あ、でもねえやはスカートだから……着替えてこないといけないね」
「大丈夫です。経験はほとんどないので、パスの練習くらいしかお相手はできませんから、ね?」
その程度なら制服も汚れないし、スカートがめくれる事もない。
というか、着替えている時間が勿体ない。
坊っちゃまははにかんで、うんと頷いた。ばーさまが見てたらはしたない!と怒られるかもしれないけど、生憎今日ばーさまはお出かけなのだ。ふふん、ぬかりないぞ。
坊っちゃまは優しくパスを出してくれたので、たやすく受け止められる。見よう見まねでぽーんと投げると、坊っちゃまも上手に受け止めた。
「ねえや、こうだよ」
「こうですか?」
身体の中心でボールを持って構えて、指をいっぱい開いた。胸元に引寄せてから押し出すようにパスをする。
「そう、上手だね」
軽い音を立ててボールを受け止めた坊っちゃまはふわっと笑った。
程なくして坊っちゃまはお勉強の時間だからと練習を切り上げる。お互いに汗もかかないで終わって、なんだか物足りない気もした。まあ、俺は制服だし、坊っちゃまはこれからお勉強だから、この程度で十分なんだけど。
「楽しかったよ、またやろう」
「はい」
「サクラさんはやっぱり運動神経が良いのね」
「そうでしょうか」
坊っちゃまは先に戻ると言ってお屋敷に入っていった。奥様はゆっくり戻られるそうなので、近くまで一緒に歩くことにする。
「私は一緒にはやってあげられないもの。ありがとうねサクラさん、あの子楽しそうだった」
「坊っちゃまは、奥様に見ていてもらうだけで楽しそうでしたよ。サクラが保証します」
奥様は坊っちゃまに似た顔ではにかんだ。


少しだけ遅くなったけど、いつも通りにランニングへ行った。
近所のおじさんや、いつも散歩しているおばさんとわんちゃんに会って話をしたので、今日はちょっとだけ遅く帰って来た。車の手入れをしていた岡崎さんが丁度外へ出ていて、俺におかえりなさいと笑ってくれる。
「ただいまかえりました」
「今日はいつもより遅かったかな?」
「ああ、はい」
岡崎さんまで俺の日課を理解しているようだ。
ふふっと笑ってしまい、岡崎さんに不思議な顔をされた。
「だいぶ日が短くなってきたね」
「そうですね」
まだ日が出ているうちに帰って来たつもりだったけど、ちょっと立ち止まって話している間に空は暗くなって来た。岡崎さんはゆっくり空を見上げる。つられて俺も上を向いて、ぐるりとあたりを見た。坊っちゃまのお部屋は明るい。多分あれからずっとお勉強をしているんだと思う。
坊っちゃまは大変だなあ。
そう呟いたけれど岡崎さんは何も答えなかった。俺みたいなのが漠然とそう呟いてもおかしくはないけど、岡崎さんは立場的にも口を噤むしかないだろう。
本当は俺だって、何も言えることはないし、何をしてあげたらいいのかもわからないけどさ。
ばーさまだったらきっと、お前はお前のやることをやればいいのです、って言うんだろうなあ。
「ただ今帰りましたよ」
「うわさをすれば」
「うわさ?」
そう考えていたところでばーさまが帰って来た。つい口を開いたけど岡崎さんとうわさ話なんてしてなかった。岡崎さんごめんね。
「なんでもない、おかえりなさいばーさま」
「玉枝さん、おかえりなさい」
岡崎さんと俺はにこっと笑ってお迎えの挨拶をする。
「ランニングの帰りですか、サクラ」
「うん、ああ荷物もつよ。重そうだねえ、買い物してきたの?」
「ありがとう。そうですよ、切らしているものがありましたからね」
ばーさまの手に持っている荷物をぱっととると、あいた手で肩をとんとんと叩く。ああつかれた、と呟いている。あとで肩をもんだげよう。
岡崎さんに片手を上げて見送られ、ちゃきちゃき歩くばーさまの後ろをのんびりついて行くと、ふいに視線を感じて見上げる。坊っちゃまが窓から見下ろしていた。
どんな顔ををしているのかまではみえなかったけど、俺が手をあげてぶんぶん振ると、小さな手がそっと窓に触れて少しだけ揺れたように見えた。
「なにしているんです、いきますよ」
「はぁい」
手を下ろした瞬間にばーさまが振り向いたので、何もなかったようにしてかけよった。



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一人称がサクラになるのがみそです。
April 2017

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