Sakura-zensen


春にふれて 07

「坊っちゃんの大きくなった姿、見たかったなあ」
傘の中で骨組を見ながら呟いた。足を一歩踏み出しても坊っちゃまがついてこない。振り向けば、まだ軒下にいる坊っちゃまが目を丸めていた。
「どこへいくの」
ぽつりと、二人の間に雫がおちた。
「ばーさまの実家、京都なんですって」
「そう」
傘を傾けると、坊っちゃまは足を踏み出した。
「年内に引っ越して、あっちの学校に……三学期から通います」
「いそがしくなるな」
ぼやくように言って遠くを見た坊っちゃまの横顔をそっと見下ろす。
本人に報告ができたのに、なんとなく物足りない。
もっと、なんか言いたい事があったような気がするんだけど、言葉が出て来なかった。
車までの距離は残りわずかで、まだ京都へは行かないのに、これが最後に思えた。


細い指先が、傘の柄を握る手を撫でる。
坊っちゃまの方を見ると、目を伏せて俺の手を見ていた。
傘、持ちたかったのかな。自分の指を若干ぎこちなく開き傘を預けようとしたけど、坊っちゃまの手は俺の手の上から傘を握る。
「坊っちゃん」
「なに?」
折角歩き出したのにまた足をとめてしまった。
坊っちゃまは俺を見上げる。手の意味を問うのは無粋な気がした。
「───きょう、迎えに来てくれてありがとうございます」
「いいよ」
「人生で一番嬉しいお迎えでした」
「こんなことで?」
微笑んだ坊っちゃまを見て、もう一度歩き始めた。もう車の前まで来てしまって、俺は後部座席のドアを開ける。
「いつか、もっと素敵な迎えがくるだろう」
「ああ、天寿を全うしたら?」
「飛躍し過ぎじゃないかな……ほら、王子さまとか」
「白馬に乗った?───坊っちゃんしか思い浮かばないな」
「ねえやが望むなら迎えに行くけど?」
小学生だからその発想なの?逆に小学生にしてその発想なの?ねえやちょっとよくわからないし、大笑いしました。例え話だろうけども。
車に乗り込むと、岡崎さんのどうしたんだろうという視線を受けた。大笑いしたら、なんかもう何でもよくなった。



坊っちゃまと過ごした小学六年生の一年間はとても短かったけど、坊っちゃまと過ごす最後の時間はもっと短かい。
言いたいことも、やりたいことも、まだ全然達成されてない。
でもなにが言いたいのか、なにがしたいのか、よくわからなかった。
たぶん俺は坊っちゃまと離れるのが惜しいだけで、この燻ってる思いは寂しいと言う感情なんだろう。
お庭の紅葉が散って、それをほうきで掃いて、空を見上げるとすっかり裸になった枝が目に入る。
この間、ばーさまと一緒に京都の新しく通う中学校へ行って来た。新しい家も見た。じいちゃんのお墓参りもしてきた。素敵な町だった。古いけれど広くて安心感のある家だった。学校の先生は良い笑顔をしていた。
誰にも気を使わなくていい、使用人じゃなくていい、男で居ていい、自分の家と環境。
───でも、いきたくないなあ。



とうとう明日、俺はこの家を出て行く。それで、こっそり、ひっそり、坊っちゃまのお部屋を訪ねてみた。
日付が変わる前だからセーフだと思う。坊っちゃまはお勉強をしてた所だったけど俺を中に入れてくれた。
「寂しそうな顔をしているね」
「だってだってえ」
見るからにしょんぼりしている俺を見て坊っちゃまは笑った。
「今生の別れってわけじゃないよ」
坊っちゃまはそう思うかもしれないけど、ねえやは、もう坊っちゃまには会えないんだよ。
「ねえやは子どもっぽいんだね、あんがい」
「よく言われます、成長してないなって」
「へえ」
「でも坊っちゃん……別れ難く思うのは子どもだからじゃないんですよ」
坊っちゃまは苦笑して、そうだねと頷いた。
「会えないことは、死ぬことと似ています」
「死ぬこと」
「生きていようとも二度と会わない人もいますし、会わないまま亡くなった事を知らずにいることもありますからね」
「そうかもしれないね。じゃあ、ねえやはオレと離れたら、オレが死んだことになるのかい」
「死ぬのは自分の方です」
俺はゆっくり首を振った。
「死は自分の中にしかありません。別れは、その人に与えていた自分を喪うんです」
坊っちゃまは少し驚いてから、考えるように目線をそらして、ゆっくり俺にもどした。
「こわいんだね、ねえやは」
「そうかもしれません」
後ろで手をくんで、少しだけ背筋を伸ばす。
「ねえやを覚えていてくださいますか」
「オレが忘れると思う?」
「どうでしょう、坊っちゃんの周りには沢山人が居ますし、お忙しいから」
えへへと笑うと、少し拗ねたような顔をした。
「ねえやは特別だよ。オレはあなた以外をねえやと呼んだ事もないし、母に次ぐ身近なひとだ」
女としてかな、それとも総合的にかな……後者だったら旦那様そっちのけじゃねーか、と内心思う。
でもその言葉は純粋に嬉しかった。
「坊っちゃん、お身体には気をつけてくださいね」
「うん」
「無理をしたら駄目なんですよ」
「わかってる」
「辛いなって思ったら、休んでくださいね」
「心配性だな、さっきから」
俺は床に膝を立てて坊っちゃまを見上げた。
初めて会った時よりも背が伸びてるので、腰は下ろす必要はなかった。
「ねえやは……サクラは坊っちゃんに会えて幸せでした」
「オレもだよ、おやすみなさい」
もう部屋を出る時になって、最後に出た言葉はやっぱり自分の感情だけだった。坊っちゃまに残せる坊っちゃまの為のなにかではない。でも坊っちゃまは微笑んだ。
俺も笑って、おやすみなさいと頭を下げて部屋を出た。



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April 2017

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