Sakura-zensen


春にふれて 08

バスケットに興味を持ったオレは母の後押しもあり、僅かな時間を与えられた。
クラブに入ることを許可されて、家で練習する時間も作れるようになった。息抜きをする時間が増えて、楽しいと思うことも沢山できた。
母はよく、オレが練習をするのを見ていてくれる。試合や練習にも顔を出してくれるので、一緒に過ごす時間が増えた。
うちで手伝いをしている姉やも、近頃は手伝いよりも学校や私生活を優先できるようになった。そうしてる間はオレと会う事がほとんどないので、母から聞いた話だったけれど。
運動が得意だった姉やが、毎日ランニングに出ているということも母から言われるまで知らなかった。
バスケットの練習に付き合ってくれた後、日課のランニングに出た彼女は暗くなる頃に帰って来た。自室の窓から見下ろしたので顔はよく見えなかったけれど、運動着姿でたまさんの荷物を持ちながら後をついて歩いていた。たまさんはその日出かけていたからきっと、門の所であったんだと思う。
オレの視線に気づいた姉やは手を大きく振った。
丁度家庭教師の先生が少し目を休めて、と言うから窓の外を見ていた所だった。大きく振り返す事は出来ず、けれど反射的にそっと窓に触れた。
とおいなあ、と小さく呟いたのを自覚して口を噤んだ。

ある日の放課後、家に帰って来たら甘い匂いが漂って来た。
そういえば今日はバレンタインデーで、クラスメイトや他学年の子からチョコレートを貰った。母も毎年この日はチョコレートのお菓子を作るので、今日もそうだろうとキッチンを覗く。
「ただいま、母さん……と、ねえや」
「ぎゃ……おかえりなさい坊っちゃん」
「おかえりなさい、征十郎」
母と並んでキッチンに立っていたのはメイド服を着た姉やだった。
品のない声をあげた後、恥ずかしそうにもじもじしている。それはそうだろう、メイド服なんて今まで着ていたことはなかったし、普通の使用人がつけるよりもたくさんフリルが付いたエプロンをしている。おまけにフリルのヘアバンドも。
「坊っちゃんまだ帰って来ないって言ってたのに〜」
「あらあら」
母さんは、ボウルをぎゅっと抱きかかえて身悶える姉やを見てほがらかに笑った。
「見たらいけなかった?」
「こんな可愛い格好してるの、見られたら恥ずかしいです」
「そうだね、可愛い」
「可愛い格好してるのだから、見てもらおうかと思って」
自分で可愛いと言っているのは笑いそうになるが、多分本人はあくまで格好の事を言っているのだろう。オレと母は似合っているという意味で褒めたけれど。
「今年のバレンタインチョコレートは、私とサクラさんからね」
「え、サクラはまぜまぜしただけですよ……?」
「わかった、楽しみにしてる」
姉やは母の隣でぶんぶん手を振っているが、オレはそれに触れずに笑った。
程なくして、ヴァイオリンのレッスンの時間になったので先生を出迎える。家に入るなり、バレンタインだからかと笑っていた。今は丁度ケーキを焼いている時間だったのでとくに香りが強いだろう。
甘いチョコレートと小麦粉の香りを吸い込んで、キッチンにいた二人を思い浮かべると、いつもよりヴァイオリンを弾くのが楽しかった。

レッスンを終えて時間が出来たのでまたキッチンへ行くと、母だけが居た。
あら熱をとり終えて、容器を移しているところだ。
「待ちきれずに来てしまったの?」
「そうじゃないけど。ねえやは?」
「残念、サクラさんはランニングに行きました」
「そう」
チョコレートよりもサクラさんを見にきたのね、と言われて口を結ぶ。違うとは言い切れない。
もう一回くらい、フリルのエプロンをつけた彼女を見ておこうかと思ったのは事実だ。
「渡してはくれないんだ」
「私もそう勧めたんだけど、ほとんど手伝っていないからと遠慮されちゃったの。今食べる?」
「今年も、夕食後のおやつでいいよ」
オレはキッチンを出て、裏門の方にむかった。
次の習い事までは十五分程しかないので希望はうすかったけれど、外に出てみると丁度彼女がランニングから帰って来た姿が見えた。門の内側に用意していたらしいボトルをとって、水分補給をしている。
彼女の白い喉がぐびりと嚥下した。顔は上を向いたままだったけれど翡翠の目がこちらを見て、ボトルから口が離された。
「坊っちゃん、どうしたんです?」
「おかえり」
「ただいまかえりました。なにかご用でしたか?」
用はないけど、と言いかけてやめる。彼女は濡れた口元をごしごし拭いて首を傾げていた。
「ねえやはチョコレートくれないの」
「ええ?坊っちゃん毎年たくさん貰ってるって聞いたけど」
「まあ、そうだけど」
「なんかあったかなあ〜ちょっと部屋行きましょう」
毎年バレンタインに興味がない顔をしていたのであまり期待していなかったけど、姉やは住んでいる離れの方へ足を踏み出した。そういえば、姉やの住まいにはあまり行ったことがなかった。一度か二度、訪ねた事はあったけれど。
靴を脱いであがり、姉やの部屋とされている和室の襖が開けられる。壁に学生服と鞄がかかっている以外はあまり生活感のない質素な部屋だ。
文机の引き出しを開けて何かを探している後ろ姿をよそに、部屋の隅にチョコレートの箱が詰まれているのを見つけて少し驚く。
「これは?」
「クラスメイトからもらった友チョコです〜。っとあったあった」
姉やは小さな箱を手に立ち上がった。
「ミルクキャラメル……」
「駄菓子ですいません、でも未開封だし買ったばっかりですよ」
「大事に食べるよ、ありがとう」
「あーいちおう、チョコレートが欲しかったらそこの持ってっても良いですけど」
「欲しいのはチョコレートじゃないから」
「そう、よかったです」
姉やは眉をくにゃりと和らげた。そして、来年はきちんと準備しますねと言う。
その来年はこなかったけれど。
次の年の夏、姉やは赤司家を出ることが決まった。年が明ける前に出て行くそうだ。
彼女はますます遠くなってしまった。
オレはなんとなく、すぐに身長差は縮まるだろうと高をくくっていたし、まだ離れる事にはならないだろうと思っていた。せめて並ぶくらいになるまでは、うちにいるだろうと。けれど、違う。いつまでたっても身長が追いつく事はなく、年の差を痛感した。
いつだったか、彼女の睫毛に糸くずがついていた。自分で取ろうとしてたけれど、中々取れずに
手間取っていたのでオレが取ろうと提案した。その時姉やは目を瞑って屈んだ。腰をぐっと曲げて顔を押し出す。顔が近いことや、無防備なまぶたよりも、随分と自分たちに差がある事を強く思い知らされて、その時のオレは指で桜色の睫毛を撫でるしかなかった。
姉やが引っ越すとオレに話したときも、まだ傘を彼女にさしてもらうくらいの身長しかなかった。
───追いつけなかったな。
呟きそうになって今度は止める。
案外子どもっぽいと思った直後にまた大人びたところを見せつけられて、よりいっそう遠いと思わされた。

どれが本当のあなたなのかは、まだ問えなかった。




next.

無防備なくちびるではあまりにも恋を意識し過ぎなように聞こえるけど、無防備なまぶたにすると無垢で幼い純粋な何かが見えると思いませんか。はつこいとはよばない。
April 2017

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