春にふれて 12
春から京都の洛山高校へ通う事になっていた為に別邸に移り住む予定だった。そのときに春野の家を訪ねようと思っていたが、少しだけ早まった。その日は、石畳がしとどに濡れる雨の日だった。
春野家はこぢんまりとした平屋の日本家屋で、古い出で立ちをしていた。ただ古いと言うよりは手をかけ愛情を持って使われた、時間を感じさせるそれに不思議と温かみを感じた。いつもここに、あの二人はいたのだろう。赤司の家に居たときのように、並んで歩いて、買い物をしたり、庭の手入れ等もしていたに違いない。
花が咲く庭の梅の木を横目に、インターホンを鳴らした。
家から出て来たのは若い男性だった。
サクラさんと同じくらいの年頃で、同じ髪と瞳の色をしていた。
彼は春野と名乗り、玉枝さんの葬儀を執り行っていた、親族の男性だった。
はっきりと聞いたわけではなかったが、玉枝さんとサクラさんは二人だけの血縁だったはずだ。葬儀中サクラさんの姿が見えなかったことから、真実はほとんど見えている。けれど彼は、彼女は、何を語るのかを聞いてみたいと思った。
春の花は、どのような弁をこぼすのか。
「お足元が悪い中、どうもすみません」
「こちらこそ」
家に招き入れられて、靴を脱ぐ。廊下をまっすぐに進む彼の背を追った。
たまさんに手を合わせてから、静かに居間へ案内されてお茶を入れてくると言う彼を待つ。
台所は繋がっているので、お湯を沸かしている音や器と茶葉を準備する音が聞こえた。目を向ければ後ろ姿がある。
「ねえや……」
小さな呟きに彼は振り向いた。
相変わらず、耳が良い。
「サクラさんは、いないんですか」
「はい、おりません」
彼は一人分の湯のみを持ってやって来て、テーブルの前に座った。
「しか……おりません、ごめんなさい」
「謝る意味が分からないが」
湯のみを受け取り口をつけながら、さんの謝罪に疑問を抱いた。
性別や名前を偽っていたことを謝りたい気持ちはわからないでもないが、かといってその謝罪を受け入れて許すのはどこか違う気がする。
なんだか、ようやく腑に落ちたような、納得できたような気分だ。
いつまでたっても背が追いつけないとか、手が届かないとか、絶対的な信頼感の裏にある気の遠くなるような差が、少し埋まったような気がした。
あなたはもう、淡い花ではなく、ひとりなのだと。
「知る事が出来て良かったと思うよ」
「そういうもんですか……征十郎さんに会いに行く時、こわくて、また嘘をついてしまったから、俺はますますこわかった」
「あのときも堂々としていればよかったんだ。別に、取り乱して責めるような真似はしないさ」
「それはわかってましたけど、……説明する時間もないだろうから、お顔を見るだけに留めたくて」
「なんだ、本当に時間がなかったのか」
説明したくないから帰ったのかと思ったが、違うのか。
あれは、まるで逃げるようだった。
「いえ、時間が押してたわけじゃないんですけどね」
よくわからず、さんの言葉を待ち、言いづらそうに口ごもる様子を眺めた。
テーブルの上に置いた指を緩く絡める。無駄な動作が多い人だけど、それは昔からで、見ていて懐かしい。
「離れ難いといけないから」
「は?」
「で、ですからあ、坊っちゃんには会いたかったけど、会ったら帰りたくなくなっちゃうし、でもそれは無理じゃないですか」
「……うん」
「でも会いたかったし、お話できてしまって、いっぱいいっぱいだったので」
そうは見えなかったけど、そうだったのかと納得する事にした。
色々言い訳をしているようだが、小さな声は聞き取れない。
「時間を作って言おうとしても、なんと言ったら良いかわからなかったんですけどね」
「それは物心ついたときからそうだったんだから、仕方ないだろう」
「うん、でも、幼心に……あれで良いと、思っていたんですよ」
「時代錯誤な義務感が?」
女子の格好をしていた理由には見当がついていた。しかしその発想は現代に似つかわしくないと思う。おそらく、提案したのはたまさんだ。彼女は良い意味でも悪い意味でも古い人だった。
父はサクラさんを女性としてではなく普通に受け入れることもできただろうし、そうしたとしても、彼の上に立てと言ってのけるだろうに。どんな思惑があったのか、そこは理解しかねる。
ただ、本人が女装を了承したのは大人の意志に従っただけだと思っていた。
「うーん、義務ではなくて、ただ───」
さんは小さく笑った。
いつも見ていた溌剌とした笑顔とか、ふやけた顔とか、外で見せる控えめな微笑ではなくて、とても柔らかい表情。
「あなたの目にやさしくうつりたかった」
「……やさしく」
「ばーさまも旦那様もそうだと思いますよ、坊っちゃんを立てるだなんて、それこそおこがましいじゃないですか」
この時なにかが掴めそうだったけれど、上手く見つめる事が出来ずに取り零した気がする。
いまの自分を崩し立て直すのに一番必要なものは敗北であって、欲しいものは勝利だったから、優しさは身に余ったのかもしれない。
「きょうは歩いて来たんですか?」
「ああ、そう遠くもなかったから」
「でも雨強くなってきたから、歩いて帰るのしんどいでしょ、車呼べます?」
「いい、帰れる」
さんは立ち上がり、庭に面した窓を開けた。
来た時よりも雨足は強くなっていて、激しい雨音が聞こえる。
一緒になって窓のところへいくと、庭の梅の木が雨に打たれて寒そうに見えた。
「花、全部零れちゃいそう」
「いずれ全て無くなるものだろう」
心配そうにするさんの横顔と、梅の花を交互に見た。
「まあ、雨風に零れるも春に零れるも、どっちも自然の摂理だけど」
「それに、また来年咲く」
さんは迎えを呼ばないなら自分が送るといって、車をとりに行った。暫くしてやってきた車の助手席に座ると一瞬驚いていたようだけど、二人の関係は運転手と主人ではないのだからおかしなことではないはずだ。
「そういえば、姉やと別れる時に聞いたな」
「うん?」
信号で止まった際に口を開く。
ワイパーがフロントガラスの水をしきりに拭う様子をぼんやり眺めながら言葉を続けた。
「たまさんに分け与えていた分のさんは死んでしまったのかい」
「ああ……そう、ですね。でも覚悟もしてました。それに」
「それに?」
「征十郎さんにまた会えたから、生き返った部分もあるんですよ」
思わず運転席を見ると、さんはこちらを見てはにかんだ。すぐに視線を前に戻して、青信号をみとめて発進した。
「不思議ですね、かえられないものを喪っても心は生きるんです」
「そうだね」
それきり、沈黙を抱いて力を抜いた。家にはすぐにつく程近いので、ほんの僅かな時間しか、一緒に居られなかったような気がする。
「さん」
「はい」
車から降りる時に、律義に傘をさして助手席にまわり迎えに来た彼を見上げた。傘を持つ手に触れると、一瞬傘を放そうか迷うように手が開かれる。それを上から握り込むと、彼は何も言わずに傘を持ち直した。
もうさほど身長差もなく、手の大きさも変わらないらしい。
「桜が咲いたら一緒に見に行こうか」
同じ傘の下にいる彼は、ぐんと近くなった場所で花が綻ぶように微笑んだ。
next.
最後のセリフはべつに、月が綺麗ですね的なそれではないです。(聞かれてもいないのに言う)
May 2017