秘すれば春 18
珍味と言われるトドの脂身を、アシリパから口に突っ込まれて、独特の臭みと噛み切れない食感に尾形と二人で「ヴェッ」って言いながら飲み込む。……口の周りがテカテカになった。まあ、アシリパが本調子を取り戻したのはなによりである。
残ったトドの皮はアイヌのおじさんに物々交換してもらい、肉や内臓は養狐飼育場へ持って行った。
そこで無事にトドが売れた後、キロランケが以前はこのあたりにアイヌの村があったはずだと職員に尋ねる。
どうやらここは、アシリパの父親でありのっぺら坊───ウイルクという男が生まれた村があったそうだ。
だが今はこのあたりにアイヌの村はない。
なぜなら、日本とロシアという二つの国の間にすり潰されたから───キロランケは沈痛な面持ちでそういった。
その言葉にすべての感情が詰め込まれている気がした。
アシリパと杉元を離してしまったことは悔やまれるが、アシリパの父親をよく知るキロランケと共に来たのは、アシリパにとって正解だったかもしれない。
おそらくキロランケは、アシリパに金塊の在処を導き出すきっかけを与えたいんだろう。尾形はそれに乗じて金塊をもらうつもりなのか───否、尾形の素性からしてそうではないかな。
だが、今はなによりアシリパは父親のことを知るべきだろうと静観することにした。
それが彼女の望みであるから。
キロランケの次なる目的地は、さらに北上した敷香という街だ。
犬橇を使ったので大分距離は稼げたが、お金がすっからかんらしい。
何か動物を狩って毛皮や肉を売るのが基本なのだが……と周囲を散策していると、尾形が銃を構えて撃った。
「尾形、何を撃った?」
「エゾシカだ」
「樺太にエゾシカはいねえよ」
尾形のことだから人間を撃ち間違えたりなどはしないだろうが、大丈夫かよ……と思って何かが倒れた方へ確認しに行く。
確かに尾形が言った通り鹿のように角のある動物だったが、どこか違う。それは鹿ではなく馴鹿で、拘束具のようなものがつけられていることから人に飼われている動物だった。
「どうしたんだよ尾形……人が飼ってるもの撃つなんて」
「近くにウイルタ民族が居るはずだ。ああほら、呼んでる。謝れば大丈夫さ、タバコあげたら喜ぶから」
「尾形!一緒に謝ってやる心配するな」
無表情で頭を撫でる尾形の感情はわからないが、三人でワチャワチャと尾形を囲ってウイルタ民族の方へ近づいていく。
そしてウイルタ民族の人たちへ素直に話をすると、馴鹿を殺したなら飼ってる馴鹿で返し、返せないなら山馴鹿の狩りを手伝うように言われた。感情で責められることはなく、垣間見える信仰と思想から民族性を感じた。
ちなみに山馴鹿というのは野生の馴鹿のことだが、アシリパの父親も昔、尾形のように飼われた馴鹿を撃ってしまって、山馴鹿狩りに参加したという。
「その話も、初めて聞いたかも……」
「一緒に行くか?アシリパ」
「……そうだな……何かアチャのこと思い出せるかも」
キロランケから聞いた話に感心した様子のアシリパに、どこか白々しい尾形の誘い。───尾形が急に発砲するなんて珍しいと思ったんだが、なるほど、わざとだったわけだな。
しかしキロランケの企みは、なにも父親追想体験の為だけではなかった。
ロシアに密入国するために、ウイルタ民族に混ぜてもらうためだ。
彼らのような遊牧民族は、国境の出入りを黙認されているから。
尾形が山馴鹿を大量に仕留め、ウイルタ民族に食糧や毛皮を渡す。そしてキロランケが貴重品である針も贈って取り入り、俺たちは彼らの協力を得ることに成功した。
そして衣類を借りて準備を整え、馴鹿橇に乗って国境へ向かう。
キロランケの後ろから少し顔を出すが、白い雪原しか見えないし、風が凍みるのですぐに隠れた。
「国境まだ?」
「もうすぐだ」
そっと声をかけると答えが返ってくる。
その答え通り程なくしてロシアの国境を超えて、ことは起こった。
パァンッ───。
どこかで銃声が響いた。
そしてどさりと落ちる音や騒ぎが聞こえる。
アシリパと尾形の橇を確認したが無事で、もう一つ、ウイルタ民族の夫婦が乗っていた橇が止まった。よく見ると、橇から少し離れたところにおじさんが倒れていた。
おばさんが旦那を助けに駆け寄ろうとするのをキロランケが止め、橇の影に隠れた途端に積み荷が撃たれた。
どこかから俺たちを見て、狙撃しているらしい。
「あの森の中だ。かなりの距離になる」
「ああ、手練れの狙撃手だ。モシン・ナガンの銃身が少し見えた……ロシアの国境警備隊だろう」
アシリパは尾形の横で隠れていたので、俺もそちらへ近づき話しかける。
「国境に入った途端狙撃する?普通」
「日本軍の三八式を見て怪しんで、優先的にこちらの武力を封じようとしてるのか……それにしても乱暴だな」
ンなわけあるかい。
うっすらとだが、俺には理由が分かる気がした。
なぜならキロランケはロシアではお尋ね者のはずだ。
それにアシリパを追いかけているのは杉元だけではない───鶴見中尉もだ。
「行動が読まれていたかな」
「……白石、走って三八式を拾って来い」
「ヤだ、お前の銃だろ、お前が行け」
尾形が俺に無理難題を押し付けてくるので、ボソボソ言い返した。
そもそもおじさんが狙撃されてしまったのは、なぜか尾形と銃を交換して背負っていたからだ。つまり尾形のせい。
「白石ッ、馴鹿を進ませて森に逃げ込め!」
「え~~~!!!も~~~~」
せっかく橇の後ろに隠れていたのに、今度はキロランケにそう言われてしまった。
キロランケと尾形はそれぞれ保護している人間がいるので、銃を取りに行くよりはマシかと橇の影から出て馴鹿の後ろに逃げ込む。
盾としては心許ないが馴鹿を誘導して橇を引かせると、早速一頭が狙撃されて倒れた。
「逃げるの読まれてるけど!?」
「進むしかねえ!その馴鹿をどかせッ」
動かなくなってしまった一体から綱を外し、もう一体に引っ張ってもらったが、そいつも撃たれる。
「がんばれ、もってくれ……」
よろめきながら進む馴鹿を、なんとか支えて進ませた。
「───キロランケニシパ!!」
後ろから、アシリパの悲鳴のような声が聞こえる。
思わず振り返ると、キロランケが橇の影から出て堂々と歩いていた。
その先には、最初に狙撃されて倒れたおじさんがいる。
「あんなの、撃ってくれというようなものだ」
「いや、撃ってみろと言っているのさ……」
「は?」
俺のつぶやきに尾形は答え、キロランケはおじさんを担ぎあげた。
同時にこちらから銃声がして、尾形が発砲したのがわかる。
「今だッ───走れ!!」
そして合図があったので、俺は馴鹿もろとも橇を引っ張り森へと駆け抜けた。
背後で何度か銃声がしたが、少なくとも人が撃たれたような声は上がらず、なんとか森の中に逃げ込むことに成功。
キロランケが救出してきたおじさんは、大きな帽子のおかげで狙いが逸れたようで、頭の横を掠っただけだった。まあ、骨は見えてるんですけどね。
「……巻き込んでしまったおじさんが死んでなくてよかったけど、無茶をしたねキロランケ。撃たれてもおかしくなかった」
「カムイレンカイネ……カムイのおかげだ」
「違うな……俺のおかげだ。親父さんが助かったのも帽子のおかげ、すべての出来事には理由がある」
尾形が即座に、信仰心を否定して強い自己主張をしたと思えば、この出来事に関しても絶対に理由があると言いたかったらしい。
皆の視線がキロランケに集中する。
「あそこまでしたのは、何か思い当たることがあったからなのか?キロランケニシパ」
「……」
「やつらから直接聞き出すさ」
口を噤んだままのキロランケに、アシリパも尾形も追及をやめた。
next.
尾形と仲良し……では、ない。
Mar.2024