春の匂いがする方へ 02
*ヴァシリ視点どうしても自分の手で仕留めたかった相手は、最期、自分でその頭を撃ち抜いた。
狙撃手は孤独で、冷血で、不遜でなければならない。
だがその骸は、崇高な気配もなく抜け殻と化していた。
私の殺したい相手も、理由も、狙撃手としての魂も、この男と共に散ったたように感じた。
すると、私はただ一人の人間として残された。だがそれは中身が何もない空洞にほかならない。
何日も骸を見て虚しくなる日を送った。
この骸が雨風にさらされて風化して消えないと、この場所から動けないのかもしれない。
そう思っていた時、一人の男が現れた。
"尾形"を追う過程で観察していた、尾形が狙っていた人間の一人、"白石"だ。
白石は尾形の服を探り身元確認のようなことをした後、尾形の身体を抱える。そして森の方へと歩いて行くので、私も自然と足がそちらへ向かった。
途中、手伝えとばかりに手を動かし声をかけられるので、尾形のために穴を掘り、骸を奥深くに埋めた。
今まで仲間を埋めたことがないわけではなかったが、なぜかこの行為に胸が締め付けられた。
白石が山なりになった場所を叩く手を見て、子守歌のようだと感じる。
尾形とこの男の間に親密な感情は見えないが、それでもこのように身体を探され、弔われるほどには想われていたのだろう。
「───××?」
尾形を埋めた後、何かを言いながら差し出されたのは尾形から切り取った髪の毛だ。だが私は反射的に首を振った。
おそらく遺髪をくれようとしたのだろうが、尾形の死を証明する何かを私が持つ意味はない。
私が殺せたわけでもない。そして、死を悼んでいるわけでもない。
たとえ殺せたとて、悼んだとて、今の私には、目に見える形に尾形の死を残したいとも思えなかった。
その後、白石は遠くを指さし「ロシア」と言って、私をそちらに向かせた。
もはや私に日本に居る意味はない。だが、私は燃焼できなかった感情の燻りを持て余して、白石の後を追っていた。
「×××?」
白石は私がついてくることに怪訝そうにしたが、何も言わない私に、結局それを許した。
本気を出せば私を殺すことも撒くこともできた白石の、優しさか無関心のどちらか───どちらでもよかった───に、この時の私は、まぎれもなく縋っていたのだろう。
白石はかなりの距離を移動して、東京の賑わう街へやってきた。
どうやらそこが故郷のようで、ロシアや北海道と比べてかなり温かい気候をしている。
わからないまま家までついていった際は家族らしい人間にかなり驚かれたが、白石は私を家においた。渡り廊下で繋がった建物で寝泊まりし、食事や入浴することまで許した。
日中、白石は軍服に身を包み基地へ向かうので、さすがにその建物の中には入れないと理解してからは街で見たものを絵にしながら白石の帰りを待つ。
そんな日々が続いたある日、以前顔を合わせたことのある軍人二人と白石が三人で基地から出てくるのが見えた。
若く背の高い男の方が何かを言ったあと、年嵩の背が低い男の方がロシア語を話す。
「尾形は死んだ、春野につきまとうのは辞めてロシアに帰れ」
"春野"とは誰かと思いながら、白石が時折""やほかの名前で呼ばれていることを思いだして過去に描いた絵を見せた。
それは白石が汽車の中で戦う姿が印象的だったために憶え描きをしたものだ。
「───"春野"××?」
やはりそれを見て春野と口にした為、白石の別の名前なのかと納得する。
「×××、×××"春野"×××?」
「春野と一戦交えたいのか」
私はその問いには首を振る。とうに失った戦意を、白石に向けるつもりはなかった。
ただ、この時私は改めて、なぜ白石のそばに居続けるのかと自問することになる。
「××××?××××、××××」
「名前は?」
ふいに、これまで黙っていた白石が何かを言った。
通訳を通して、白石が私の名前を聞いていることが分かる。
以前もそんな動作をして私に名を尋ねてきたことがあったが、字が読めなくて断念したことを思いだす。……辿々しく呼ぼうとしていたあの音でもよかったのだが。
そう思いつつ再び紙に名を記せば、通訳は白石に教えるように私の名前を口にした。
続いて、白石が頷き、ゆっくりと口を開く。
「───ヴァシリ?」
何故だかそれだけで、故郷や戦友を思い起こされた。
そして何より、白石とのこれまでの日々ばかりが駆け巡った。
もう、私に心はないと思っていたのに。
名前を呼ばれるようになったその日から、徐々に凍てついた心が溶かされていくのを感じた。
穏やかな時間のなかで、人との賑わいの中で、時に触れられる手の温もりに絆されていく。
描いた絵が売れた喜びを感じ、横になって眠れるようになり、雪を見ぬ冬を超えて春が来て、桜という美しい花に見惚れ、団子を口に含み膨れた頬に思わず笑みがこぼれる。
───その反面、時折戦争のことを思いだし息が出来なくなる夜がある。
はいつも、私が眠れぬ夜に気が付いて部屋を訪ねてきた。温かい飲み物をいれたり、顔を見に来るだけだったり、微かに明かりをつけて本を読むだけだったりするが、人の気配を私に与えた。
そしてこの日、は私の上下する胸を優しく叩いた。
えらい、と褒めたり笑ったりするのとは違うそれは寝かしつける子守歌のようで───。
「!!!」
脳裏に、尾形を埋めた土の膨らみが蘇り、飛び起きた。
は驚きに目を丸める。
「どうした?」
少しずつ分かり合える言葉が増えたが、私は相変わらず口にできる言葉が少なかった。
舌が上手く動かないのと、長らく言葉を発することを諦めていたからだ。
「おぐ、あ」
掠れた声で零したのはまともな発音も出来ていない。
それでもの手はピクリと動き、「尾形?」と言い直す。すぐにわかるくらいに、尾形のことは特別だったのだろうか。
私は、胸に靄が広がるような感情を抱いた。
「ヴァシリ、……ロシアに帰れ」
そして言い放たれたその言葉に息を詰め、嫌だと首を振った。
だが本当は、このままでいて良いとは思っていなかった。
「故郷に家族がいる」
「……」
「言葉がわかる、そして絵が売れる」
続けられたのはそんな言葉で、おそらく私は国に帰った方が一人で生きていけると言いたいのだろう。
それはもちろん、随分前から気がついていた。
この国で絵が売れようと、言葉が分かるようになろうと、それは本当に微々たるもの。対しては軍を辞めた後は会社で働く一人前の男だ。家族にも私の存在を責められてもいただろう。
それをわからないふりしていたのは、が何もいわなかったからだった。
私はそれに、甘えていたのだ。
「そうやって生きろ」
突き放して言ってるのではないと分かっている。
だが、私が自分の心と向き合うにはがいないと駄目だった。
春を知った私に、ロシアは寒すぎる。
の手に、懇願するように顔をうずめた。
私は、この手に弔われたい。
「……、」
の戸惑うような息遣いが聞こえて、ぎこちなく手が動き、私の顔を持ち上げた。
私たちにはまだ言葉の壁があり、知らない過去は多い。だがその言葉がゆき届かないからこそ、表情や行動で相手の感情がわかった。
暗闇の中で表情はかすかにしかわからないが、を強く腕に抱きしめて、その身体の形と温度を閉じ込める。
肩に鼻先を埋めてかぎ慣れた匂いをいっぱいに吸い込んだ。
やがての手も私の背を撫でるように摩り、二度叩いた後、くしゃりと服を握りしめる。
───それを、私は許しと受け取った。
どこに何があるのかを確かめるように鼻先を押し付け、頬や耳を探り当て、唇を滑らせながら輪郭を辿った。
幾度となく描いたこの顔───、この感触まで絵にするには、どうしたらいいのだろう。そんなことを考えながら皮膚を食む。
体温や息の熱があるのに、肌の表面はひやりとした冷たさを持ち、触れ合った時にわずかにはり付いてくるような瑞々しさがあった。そして体毛が薄くて子供みたいに滑らかだが、肉厚ではない。
顎の丸み、唇の下のくぼみを辿り、私の上唇がの下唇にあたった。
躊躇ったのではなく、一度呼吸を置こうとした時、がかすかに私の胸を押し返した。
「だめ……」
は一瞬の隙をついて、私の腕の中から抜け出していた。
目で追えないまま、引き戸が静かにしまった音で、部屋を出て行ったことを理解する。
何もつかめなかった手を握って、もどかしさを飲み下した。
next.
主人公が尾形に思い入れがあるかどうか、言葉に壁があるため微かな誤解はある。問題はない。
頭巾ちゃんの口を治すか治さないか考えた結果───主人公の治療は割と人智を超えた力なので治さんかな……現時点では。ということで落ち着いてます。
Apr.2024