Sakura-zensen


春惑う 01

俺の人生は、目の前でぽかんと目を見開く男の人と、隣でにっこり笑う女の人……という光景から始まった。

「───き、聞き間違うたかもしれへん…………おかあさん、なんて言いました?」

目の前の男性───綾小路文麿さんは、俺の隣にいる自身の母へと問いかける。
「聞き間違いやあらしません。おじいちゃまがお決めになった未来のあなたのお嫁さんや。春野サクラちゃんいいます」
「春野サクラです……?」
ご紹介にあずかったのでとりあえず頭を下げると、さらりと長い髪の毛が落ちた。
今の俺の格好はどこかの学校の制服みたいで、膝小僧が見えたからなんとなくスカートを引っ張って隠す。
「まだ高校生くらいやないか」
「あらいやだ出逢うたばかりやのに、さすがに入籍は卒業してからにしまひょ」
「そんなことを言うてるんじゃありません……っ!」
目の前で進む話によると、俺はこの人の『許嫁』ということになるそうだ。
祖父同士が仲良くしていて、将来は互いの子を結婚させようと目論んでいたが娘同士だったため叶わなかったと。俺の祖父は早くに亡くなり、娘である母は就職を機に東京へ引っ越して結婚し、俺を生んだ。ところがその母も、夫である俺の父と一緒に事故で他界した。
そこで、すっかり疎遠となっていた"おじいちゃま"は中途半端に『孫』がいると聞きつけて、引き取って自身の孫の嫁にと思ったのだ。

うっすらとだが、記憶がよみがえってくる。
俺を迎えに来たのはおばさまで、俺が男であることに驚いていた。
そして、おじいちゃまがこのことを知ったらショックを受けてぽっくり逝ってしまうかも、と言われたこと。
しばらくは女の子のフリをして、許嫁の家で暮らして高校に通って欲しいと言われたこと、などなどが思い出された。
たしかおじいちゃまは会った時「信也ちゃんに似てはる……」とえらく感動してくれたので言いづらい……言いづらいか??よくわかんない。

「サクラさん」
「え?あ、……はい?」

いつの間にかおばさまは帰っていたのに、ぼんやりしてた俺はサクラという名前にはっとして顔を上げる。

「さっきから上の空やけど、状況はわかってはりますか」
「あー…………ご迷惑おかけするのは本意ではないので、出て行きます……」
「ちょ、待ち!」
のろりと立ち上がると、綾小路さんに手を引かれた。
「あんさん、事故以前の記憶が曖昧になってはるんやろ」
「そうなんですか?」
「お母さんがそう言うてましたが……見た所、そのようですなァ」
「……あはは」
会話のかみ合わなさからして、確かに俺は事故以前の記憶がないことが証明された。
あまりに頓珍漢な自分を振り返って苦笑する。
綾小路さんはそんな俺に小さくため息を吐いたけど、彼はどうせ忙しくて家にあまり帰ってこないといって俺の居候を許してくれた。
その後、俺たちの口からは許嫁の『い』の字も出なかった。



綾小路さんと暮らし始めてから、彼は宣言通り滅多に家に帰ってこなかった。……というよりは、朝早く出て夜遅く帰る日々で顔を合わせることが少ないんだと思う。
そして事件があるっぽいと、本当に数日間留守にする。
いなけりゃ気楽に過ごせる───とはいえ、さすがに一週間も帰ってこないと心配にもなるわけで、帰ってくると連絡があった日はリビングでソワソワしながら待ってしまった。

ドアが開く音がしたら反射的にソファから立ち上がり、リビングのドアを開けて廊下をパタパタと走った。前は待ってたらうっかり転寝をしてしまったが、今回はばっちりだ。
すぐに玄関があるので、俺の姿が目に付いた綾小路さんは驚いたようでその場に立ち尽くしている。
「おかえりなさい、綾小路さん」
「あ、あァ……ただいま、帰りました」
手を出すと反射的に鞄を渡してしまった綾小路さんは、一瞬表情を変えたがすぐになりを潜める。俺に荷物を持たせたことへの罪悪感か、もしくは仕事道具を手放したことへの後悔かはわからない。ただそう神経質になることでもないだろうと、鞄とついでにジャケットも脱ぐように促した。
「またこんな時間まで、待ってはったんですか」
脱いだ靴を整えていた綾小路さんは、観念したように俺にジャケットを渡し、それからネクタイを緩める。
そして廊下を歩きながら、疲れたような息を吐く。これは単純に仕事の疲れのせいだろう。
俺がうっとうしいというわけではない、と思いたい。
「迷惑でしたか?」
「迷惑やない……」
「さすがに一週間も会ってなかったんだもん、顔が見たいじゃないですか。ねえマロちゃん、久しぶり」
ポケットにいたシマリスのマロちゃんは、俺がジャケットを預かった時から器用に抜け出して俺の肩に乗っていたので、頬擦りをした。
綾小路さんが口ごもる気配があったが、その表情はよく見えない。
だがその後、彼は俺から荷物とジャケットを奪い去り、まるで逃げるように寝室へ姿を消してしまった。

子供っぽいこと言って困らせてしまったかな、と思いつつもそれ以降も出迎えるのは辞めなかった。
寂しいというわけではないが、不在がちの家主の家を存分に使わせてもらっている礼儀とでも言おうか。
そして純粋に、何日も帰ってこられないほどの激務の人を、労わりたいという気持ちだった。


綾小路さんは帰ってくるたびに戸惑っていた顔を、徐々に緩和させていくようになった。
けれどそんなある日、帰ってくるなり廊下に倒れた。
正確に言うと俺が抱きとめたので、床に倒れたわけではないのだが、自分の足で立っていられないくらいになっている。
「わ、大丈夫ですか!?具合悪い?」
「~~、~~~………~~~」
もごもごと何か声を出しているようだが、言葉にはなっていない。
マロちゃんは潰される前に綾小路さんの肩から飛び降り、床に逃げている。
「立てなさそ……?」
とりあえず俺は綾小路さんの脇の下に腕を入れて背中を支え、肩を入れ込みぐっと持ち上げる。軽く足を引きずるようにはなるが、靴を脱いでいたのでフローリングを滑らせるようにして運び、寝室のベッドへ彼の身体を横たえた。
熱があるわけではなさそうで、酒を飲んだわけでもなさそう。
目の下にうっすらと隈ができていて、なおかつ顔色が全体的に悪いので、この不調の原因は疲労だ。───帰ってくるのが一週間以上ぶりなので、そうだろうとも。
「お疲れ様だねえ……綾小路さん」
「ん……さ……」
いつも整っている髪が乱れているのを、顔からそっと払いのけた。
僅かに声が出たが、これも結局何を言っているかはわからない。
「今日はもう、このまま眠ってくださいね、ネクタイとジャケットだけ外しますから」
完全に寝ているわけではなく、朦朧とした意識の彼に一応話しかけながらゆっくりとネクタイを緩める。
襟の隙間から解いたネクタイを引っ張ると、しゅるりと音がした。
ボタンを少し外して首元と寛げて、ジャケットを開いて肩から外して背中に踏ませる。
「失礼」
声をかけながら身体を横に向かせて、ジャケットを引っ張り下ろして腕を抜く。そこで腕時計が目についたのでそれも外した。
腕時計はサイドチェストに置き、ジャケットとネクタイはハンガーにかけた。
そして俺に背を向けたまま横向きの綾小路さんに視線を戻す。シャツとスラックスだけなので、これならまあ寝やすいかな……と思ったところで俺は、その腰に回るベルトに気が付く。
今は横向きになっているので、腹に食い込んで不快なのでは……と。
「───ベルトも外そうか」
「ま、……あかん」
「でも、苦しくないですか?」
身体を仰向けにして、カチャカチャとバックルをいじくっている俺の手に、綾小路さんの力なき抵抗が入る。
その場で頭をゆらゆらと振るので、外されたくはないのだろう。
……起きたときにどこまで世話をされたか気づいて、後悔させるのは本意ではないからやめておくか。
「じゃあ、ここまで」
耳元に囁けば、一瞬息を詰めるようだった。
でもすぐにその身体の力が抜けていき、眠りに落ちたのを見て、俺はそっと部屋を出て行くことにした。







ある日突然許嫁やとお母さんに紹介された子は、まだ幼気な十六歳かそこらの女の子やった。
京都泉心高校の制服を着てはるので、聞いたら東京の高校からこっちまで転校することが決まってるそう。
ついこないだ両親が亡うなったばかりの子を突き返すのも忍びなくて、許嫁というのも単に役目を与えて家に居やすくするためなんやと思うた。

サクラさんは年のわりに落ち着いてはって、こっちにかなり遠慮をして静かに過ごしてる節もあった。
せやけど私が仕事であまり家に居ない時はくつろげてるようで、遅うなって帰った日のリビングでテレビをつけたまま眠りに落ちているところを見たときは安堵した。

「んぁ、……やのこうじさん」
「こんなところで眠ったら、風邪をひきますよ」
「ぁい」

テレビを消した時、ぼんやりと目を覚ましたサクラさんには、のろのろとした仕草で起き上がる。そして「おかえりなさあい」と目をこすりながら頭を下げた。
「はい、……ただいま……」
「すみません、待ってようと思ったんです」
「……待って……はったんですか?」
朝早く出て夜遅く戻る私の生活とはほとんどかみ合わないサクラさんが私を待つとなれば、何か用事や話したいことがあったんやろか。
「ん……じゃあ、おやすみなさい」
「お、おやすみなさい……?」
ソファから立ち上がるサクラさんは、眠たげな顔から一変して、私の目を見てゆったり微笑んだ。
そして満足げに頷いたら背を向けてリビングを出て行ってしもうて、やがてパタンッとドアが閉まる音がして完全に後姿が無うなる。

……そんだけ?

立ち尽くしたまま、しばらく頭が働かんようになった。
まさか今した会話の「おかえり」と「おやすみ」を目的にここにおった、ゆうことかと理解していく。

───サクラさんは、これまでのすれ違う日々を、あまりに容易く埋めてしもうた。



それからのサクラさんは、何日も家に帰れん日のあとは、決まって「おかえりなさい」と言いにきた。
初めて玄関で出迎えられた時は、思わず出された手に素直に鞄やコートを渡してしまい戸惑いもあった。
せやけど徐々に、それがサクラさんなりの礼儀と歩みよりなんやと気づいて、その行いを甘受するようになった。
そしたらもう、帰るて連絡するその指が逸るのも、ひとりやったら仮眠とってから帰ればいいもんを無理して帰るんも、ぜんぶ家に待つ人に逢いたいがため、ゆうことになっていて。

これが、家庭───。実家にいた時に家族に迎えられるんとは違う、安心感や、と。
その温もりに溺れるのにそう時間はかからんかった。

「お疲れ様だねえ……綾小路さん」

疲労と安堵の緩急で、働かない頭ん中に聞こえてくるサクラさんの声。
そういえばこの人は、私のことを苗字で呼ぶ───許嫁やのに。
ああ、許嫁ゆうても、ほんまに結婚するわけないんやった……。
いつの間にかベッドに横になってた私は、胸に広がるような靄つきに眉をしかめた。
そん時、顔にかかる髪がうっとうしいのを、サクラさんがそっと退けてくれる。
「今日はもう、このまま眠ってくださいね、ネクタイとジャケットだけ外しますから」
優しい声の、言葉を上手く聞き取れないまま、ただその温もりにしたがう。
ぼんやりとした視界には、私のネクタイを緩めてはる、サクラさんの顔があった。やがてしゅるりと音を立てて、首の後ろからネクタイが抜けてく感覚がする。
そして襟元を寛げたあと、ジャケットの釦を外し、身体を横に傾けさせられて脱がされてく。

随分楽になったと思うたところで、身体は仰向けに戻った。
そしてベルトに手をかけられて、腰の上でカチャカチャと音がした途端───、なんとか理性を総動員さしてサクラさんを止めた。
苦しくないかと聞かれれば苦しいのやけど、単純に寝苦しく窮屈やって話だけでは済まされへんもんがあって、考えを振り切るように首を振った。
そしたら掴んでたサクラさんの手が力を失い離れてく。私の手はそれを追うことはせずぽとりと落ちて──「じゃあ、ここまで」と耳元でささやかれた声によって、今度は身体の力が抜ける。

その声はまるで熱い息を吹きかけられたみたいで、それどころか、まるでねぶられたみたいに、耳たぶに余韻を残した。




「…………は、」

朝、目を覚ました私は自分の格好を見下ろした。
シャツとスラックスだけの格好で布団に潜り込んでて、頭は整髪料がついたまま、帰って来てすぐ着替える力もなく寝てしもうたらしい。

昨日はサクラさんに出迎えられたいばかりに、疲れた身体に鞭打って帰って来たんやった。
せやけどそのサクラさんに会ったかどうかはあいまいで、自分でベッドにまで行った記憶も無うなってて、

───「……綾小路さん」
───「苦しくない?」
───「じゃあ、ここまで」

瞬間的に思い起こされた記憶に、冷や汗が沸き出す。
ゆ、夢かもしれへん。自分で服脱いでベッドにもぐりこんで、あないな夢を見たのかもしれへん。
……否それはそれで、あかん気がして頭を抱えた。



おずおず廊下へ出ていくと、サクラさんは既に学校へ行ってはった。
私は丸一日休みやったのでシャワーを浴び、水分補給のために冷蔵庫を開く。
水を取り出しながら目についたのはラップで覆われた皿で、引っ張り出して見るとそこにはサンドイッチがあった。
『綾小路さんへ よかったらどうぞ』と書かれた付箋が貼られてて、その字を見つめたままテーブルまでのろのろと歩く。
そういえばサクラさんは料理ができたんやろか。なんて、今更なことを考えながら食べたサンドイッチはとても美味しゅうて、できたんやろな、と結論におちつく。

少しずつ積み重ねたやりとりだけで、随分サクラさんを知った気になってた。
こうして食事を用意されていたのも初めてで、そもそもこれまでの食事をどうしていたのか気にしたのも初めて。
今まで連絡し合った言葉かて、見返したら家に帰るか帰らないかの話ばかり。共に、食事をしたこともなかった。
帰る時の連絡で、食事はと聞かれても外で食べてきたと返していて、この時もサクラさんだけが気を使うてたことを痛感する。

私はサンドイッチを食べるもう片方の空いた手で、スマートフォンを操作した。
食事を準備してくれたことへの礼を送ると、すぐに既読がつく。きっと授業中とわかってても胸は躍る。
返事がくるかと、じっと待ってしまう。

「『よかった』……はあ……」
そして返って来た一言を、思わず口に出すほど沁み入る。
続いてまたメッセージが着て、目に入れた途端スマートフォンが手から滑り落ちてテーブルの上に叩きつけられた。

『昨日はすごく疲れてたみたいだけど、今日はおやすみですか』
「───っ、」

内容は昨日のことやった。サクラさんのことやから、心配して言うてくれてるのはわかっとる。せやけど昨日のことは自分から何があったかを聞けん。
恐る恐る『昨日はご迷惑をかけてすみません、今日は一日休みです』とありきたりな言葉を返した。
この後何か私がしたことを責められるんか、否、サクラさんのことやから蒸し返すような真似はせえへんやろうし。と、緊張していると───返って来たのは『ごゆっくり』と言って犬が寝転んではるスタンプやった。

「…………かわい……」

思わず零れた言葉は、リビングに流れるニュースの声にかき消されるほどに小さかった。



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最後のとこ、綾小路文麿にスタンプを送ってくる人はいないはずなので軽率にときめいてもらいました。
May. 2024

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