春の妻問い 01
(律視点)きっかけは些細なことだった。
昔同じ講義をとっていたのか、知人の知人だったのか、どういうわけか忘れたけどとにかく顔見知りの男に声をかけられた。こういう時、厄介な頼まれごとをしたり、妙な縁があって巻き込まれたりすることもあったけど、僕がうっかり起き忘れた荷物を親切に届けてくれただけだった。
それは学食に置いておいた、教授からの借り物で、彼が届けてくれなかったら気づかず、家まで帰っていたかもしれない。慌てて戻ってきて探し回るなんてことにならなくてよかった。
その荷物の中に紛れていたのが、不思議な木の実だった。
今となっては本当に木の実だったのかもわからないけど。
───ゴミでも入れられたのか?誰に、どんなタイミングで、どういう意図で?
わけもわからないまま、帰り道で見つけた僕はそれを指に持ち掲げる。
指で押してみると弾力はあまりなく、食べるには値しない代物だ。
歩きながら捨てるタイミングを見計らっていたとき、バス停のすぐ側の木陰に足を踏み入れた僕は足元に木の実が潰れた形跡があるのを見つけて立ち止まる。
この実も足で踏めば潰れるか、果たしてこれがこの木ノ実なのか、なんていろいろと考えつつも頭のどこかには、どこにでも捨ててしまって良いものだという認識があって、深く考えることなくそれを手放そうとした。
その瞬間、木ノ実がどろりと溶けて僕の指からぼたぼたと落ちていった。
「洗って来なさいよ、手」
その時に着いた液体のようなものが、シミとなって僕の指先についている。
それを見た司ちゃんが嫌そうに、台所の方を指差す。
「やだ律ったら汚れた手で食卓につこうとしたの?」
「?あら、何もないじゃない」
おばあちゃんとお母さんは、司ちゃんの言葉に反応して僕の方を向いたけど、手を見てすぐに首をかしげる。
二人には、僕の手の汚れが見えていなかった。
晶ちゃんは台所から顔を出してお皿を一つ持って来たところで、僕の手と、司ちゃんの顔を交互に見た。何も言わなかったけど、みんなそれっきり僕の手については何も言わずに夕食をとった。
夕食後、レポートが途中だからとすぐに席を立った僕のところへ、晶ちゃんがやって来た。
「今日、何かあったの?」
「特に何もないはずなんだけど……」
何の変哲も無い出来事だと思っていた。もちろん木の実が急にどろりと溶け出したことはおかしいけど。
晶ちゃんは僕の手を覗き込み、まじまじと眺めている。
「律ーおじさんは?」
「え?ああ、お父さんなら部屋じゃない?」
「いなかったけど」
「え、うそ」
司ちゃんもそこへ加わり、僕はとうとうレポートどころではなくなった。
指先のシミが気になるは気になるけど、洗っても落ちないだけで今のところ特に害はなく、焦るほどではない。
ちなみにお父さん───正しくは父の身体に居る妖魔、青嵐は僕の指を見てニタリと笑った。
もうあれは僕の護法神ではなくなっているので、前以上にあてにならない。
「なんだ、律のソレわかるかと思ったのに」
「ってことはやっぱり、何か関係してるってこと?」
「それ以外ないでしょ?なんで張本人のあんたがわかんないのよ」
「えー」
司ちゃんの言いように体を引く。
笑ってないで晶ちゃんも何とか言って欲しい。
「まあまあ。じゃあ律には何も負担ないんだ?」
「うん、別に」
「でも絶対変だよね、どうすんのそれだんだん人に見えるようになって、消えなかったら」
司ちゃんは体に妖魔が棲み着いていたので、不安な気持ちはわかる。僕自身も暫くの間身に受けていたことがあった。
それでも今回は何か、違うような気がした。
「今日に限って鳥たちもいないし……お酒は?」
「……」
本当は僕の手のことなんてどうでもいいんじゃ無いかと思えて来た。
尾白と尾黒は司ちゃんのことをえらく気に入ってて、酒盛りが好きなので彼女がくると飛んで来てすぐ酒を注ぐ。
司ちゃんは最初のうちはよくわかってなかったけど、今となってはそれを目当てにしてうちに来てる節さえあった。
「鳥たちは、玉霰と花見に行ってるよ」
「え、なにそれずるい」
「今の季節に花見って……何?北の方はまだ咲いてるとか?」
花見と言って思い浮かべる桜はとっくのとうに散っていて、木々は今緑に溢れている。
きっと何か花のなる木があって、知り合いの妖魔とかがいて、うまい肴や酒をどんちゃんやってるのだと思う。出かける前の玉霰とは会っていないし。
「玉ちゃんといえば、開さんには?相談してみた?」
「開さんは今地方に行ってる」
主人である開さんの遠出も、最初のうちは玉霰も連れて行って欲しそうにしていたが、今となっては平気で送り出す。式神といっても、本当の主従契約のもと、使役されているのとは違う。うちの尾黒と尾白もそんな感じだ。
そういうわけで玉霰は今僕の式と一緒に花見に行ってる。
あれほど自我があり、むしろ整いすぎている人格を持った者を使役するような叔父は嫌なので、そんな関係に内心ほっとした。
玉霰を連れて尾白と尾黒がどこかで楽しんでいるのが気にくわないのか、司ちゃんはいつの間にか家の台所から持ち出した酒───それも一升瓶───を開けて飲み始めた。
縁側に三人並んで風にあたりながら、幾許も無い軽食をつまみ、夜空を眺める。
僕は月明かりに照らされて夜空を泳ぐ龍のような影を見た気がして目を凝らす。青嵐のやつ、またどこかにお父さんの体をほっぽって出かけていたんだ。あいつの抜けたお父さんの身体ということはつまり、ただの死体になる。
いくら人気のないところを選んだって、誰が通るかわからないのが世の中だ。
変な事件になっていなければいいけど。
ふう、とため息をつきながら板の間に盃を置く。
そろそろお父さんが林の中からのそのそと顔を出すだろう、と、思っていた矢先に騒がしい声が聞こえる。尾白と尾黒、それからお父さんの声、唯一ヒソヒソと話していて何を言って居るのかわからないのは玉霰の声だ。
なんだ、後から玉霰たちのところへ行っていたのか。
「───うるさい!」
お前がうるさい。
尾白と尾黒が騒ぐのを煩わしげに一喝した青嵐に心の中で文句を垂れる。
「お、なんだお前らも酒盛りか……どいつもこいつも」
「食べ足りないからって……いつまで拗ねてんの」
「わしは腹が空いてるんだ。あそこにいた奴らを食わなかっただけ感謝してほしいくらいだわい」
もう、と呆れている玉霰の一言で青嵐の不機嫌の理由がわかった。
夕食では足りずに、宴会でもしているであろう玉霰たちを思い出してそちらへ向かったはいいが、時は既に遅く青嵐が食べられるものは残されていなかったのだろう。
お父さんは下駄を脱ぎ捨てて縁側から家に入ると、台所の方へ食べ物を探しに消えていった。
「やや、姫!おいででしたか!」
「なんと!大変面目ございませぬ!!」
尾白と尾黒は司ちゃんに気づいて、わあわあと騒ぎ出す。
すぐに酒を、馳走を、とバタバタして走り回るが、今の所酒もつまみも足りていた。
「いいわよ、それより何の花見行ってたの?」
「たまちゃんおかえり〜」
「ただいま〜?二人揃って来てるなんて珍しいねえ」
ただいま、でいいのだろうか。そんな感じで玉霰は首をかしげた。
酒が入ってるからか、誰かと誰かが好き勝手喋っているからか、もはや誰が何を言ってるのかわからないままどのくらい時間が過ぎただろう。
ふと、僕の指先のシミを見た尾黒が、何かに気づいた。
尾白はそれを一部の妖魔がする求婚だと言った。
その印つけは、死霊が取り憑き人を死に至らしめるかのごとく身勝手で、僕はやがて誰ともわからない妖魔と結婚する羽目になるらしい。
「古い手法ですな、まだそんな時代錯誤なことをする妖魔がいたとは」
時代錯誤な人間にしか化けられないくせにと思いつつも、その言葉にはもっともだと頷いた。
「どうにかできないの?そ、そうだ!他の人と結婚すれば!?……司ちゃん!」
「え、わ、わたし!?」
「あ、今彼氏いるんだっけ、さすがにそれは……じゃあこの際わたし!?」
晶ちゃんと司ちゃんが僕以上にうろたえたので、呆けてしまった。
一方的に求婚された僕が果たして健やかな人生を歩めるかと言ったら、……ないだろう。
とにかく僕は断らなければならないし、きっとそれだって一筋縄ではいかない。
「無理だ無理、両方殺されて終わりだな。諦めて受け入れるか───断るなら、奴以上の妖魔と連れ添ってないとな」
ヒヒッと笑い、暗い廊下から現れたお父さん。
おそらく僕の手を見た途端に笑っていたのは、このことを知っていたからだ。
「なら、青嵐でいいじゃん」
「なんでわしが。お前がやれ」
いつのまにか盃を手にしていた玉霰は軽い調子で笑った。
しかし面倒臭そうにする青嵐にはやはり期待できそうにない。
「んー……じゃあ律、俺と結婚する?」
青嵐がやる、ということはつまり食べる、と判断していたけれど。
玉霰の言葉に僕は何の疑問も抱くことはなく。それどころか、夜に映える翡翠の瞳に見惚れて、胸を震わせながら、
「───する」
と、答えていた。
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妖魔の求婚方法はなんのひねりもなく、捏造です。
江戸時代は櫛を贈るというのもあったそうですね。「苦労」も多いが「死」ぬまで添い遂げよう的なシャレがどうのこうの。某シンデレラちゃんがガラスの靴で通り魔(?)するみたいに櫛を拾わせる方法も考えましたけど、体に印がついちゃうのが性癖だったのでこうしました。
April 2019