春を告げる 03
さんに出逢ったのは祓魔師という仕事を知る前だ。まだ五歳とか六歳のころに、神父さんが一時的にうちの修道院につれて帰って来たのが始まりだった。薄い茶色の髪の毛をした年上の少年は、なんだか少しだけ怖かった。あの頃の僕は泣き虫で、恐がりだったから、初対面の人は大抵怖かったし、自分よりも身体の大きい人はなおさらそうだった。
けれど礼さんは決して僕に意地悪を言わない。僕がびくびくしてても、にこっと笑って喋るのをじっと待っていてくれた。
兄さんはすぐに屈託なく話しかけていたから、僕が彼を信用するのも早かった。
膝の上に乗せてくれたり、一緒にお風呂に入ったり、時には三人で眠ったりした思い出はほんの数日ばかりだけれど、僕は未だにその輝かしく平和な数日間を忘れていない。
───別れのときは、僕はやっぱり泣いてしまった。
「泣くな泣くな、また遊びにくるからさ」
「ほ、ほんとお」
「ほんとほんと」
「なあ!明日も遊べるか?」
「うーん、ごめん、明日は無理」
ぽんぽん、と二回繰り返して撫でて、言葉を二回繰り返す。それはこの人の癖だ。
言い聞かせるように、けれど軽やかに。
ぐしゃぐしゃになった顔を、さんは掌で拭ってくれた。
そうして別れてからも、さんは言葉の通り時々遊びに来てくれた。頻繁と言う訳ではなかったけれど、最初は二ヶ月後に顔をだし、次は三ヶ月後、次は半年後。
気がつけばさんは神父さんと同じように祓魔師になっていて、僕はその頃に祓魔師になると決めた。
神父さんと、兄さんを一緒に守ろうと約束した。その兄さんは歳をとるにつれて力や感情を制御しきれなくなっていて、喧嘩ばかりしている。といっても、子供のころだって制御できていなかったし、桁外れの力を持っていたと思う。でも、あの頃はまだ力の強すぎる”子供”だった。けれど今は手の付けられない不良の子供というには、強すぎる。そして、理性がなさすぎる。
兄さんが嫌いな訳じゃない。自由に生きているのなら、むしろそれで良いと思った。もちろん手加減は覚えてほしいけど、押さえ込みたいとか自覚してほしいとは思わない。僕が、どうにかできるようになればいい、と。
「おお?雪男だ。久しぶり!」
数年ぶりに顔を見せた───というより、僕の方が彼のいる所に行ったのだけど───さんは、薄い茶髪がピンク色に変わり、焦げ茶色の瞳も緑色に染まっていた。
彼の所に訪ねて来た筈で、僕はさんと呼びかけ彼は返事をした、けれど。
「どうした?」
「その髪と目、どうしたの?」
「ああ、元がこっちだよ」
「そ、そうなの!?」
てっきり何か使い魔と契約でもして容姿が変わったとか、特殊な事情があるのかと思っていた。どうやら彼の色素は元々が特殊だったらしい。僕らに会いに来るたびに変装していたのだと聞いて少し驚いたけれどあの頃の泣き虫で臆病な僕が彼をみたら、怖いとでも言っていたかもしれない。
「迷わなかった?」
「大丈夫だよ……」
僕が普段日本支部に入る事はあっても頻繁ではなかった為そう問うのだろうけれど、迷子になって困ってしまうほど考え無しではない。拗ねた顔をしてしまった自覚はある。
僕はさんに子供扱いされるのが少しくすぐったい年頃だったのだ。
さんは祓魔師になってすぐ本部勤務になって世界中を飛び回っていた。それから大学に通う為にこっちに戻って来て、学校と祓魔師の仕事に追われている。
最近ようやく祓魔師となった僕とは雲泥の差だと、輝かしい笑顔を見上げた。
手が伸びて来て、僕の頭をあの頃の様にぽんぽんと撫でる。
「さん?」
「史上最年少だって?」
「あ、うん」
「頭が良いって獅郎さんから散々聞いてたけど、ホントに凄いね」
「そんなことない……さんだって祓魔師になったのは今の僕とひとつしか変わらなかったじゃないか」
「俺はちょっとちがうの」
大人になっても、少年時代と笑い方は変わらないらしい。
拗ねない拗ねない、と言いながら頭を撫でたついでに頬を軽くつねってくる。
「子供扱いするのはやめてくださいっ」
「わ、敬語〜」
「さん!」
ここは騎士團だし、さんは年上で、そして階級も上だ。でも家族に敬語を使う感じがして妙に恥ずかしかったし、さんもからかうような顔をするからもっと恥ずかしくなった。
彼の笑みも、癖も、優しさも、何もかもそのままで、僕はほっとした。
これから祓魔師になって、頑張らなくてはならないというプレッシャーをこっそりと感じていたけれど、さんが、神父さんが、いつもと変わらない姿で居てくれるから。
数年後、彼は大学は無事卒業したと神父さんから聞いたけれど、仕事をおおいに振られて多忙を極め、僕は結局会えていない。
そんなさんとようやく会えたのは、最悪な事態に全く関与せずにいて終わった頃だ。
兄さんがサタンの落胤だということが、本人や悪魔にバレた。神父さんにサタンが降りて来た。兄さんが連れて行かれそうになった。
それをなんとか引き止めてくれたのが偶然兄さんを見つけて、神父さんと再会して修道院まで着いて来てくれていたさんだ。
詳しい状況は知らないが、さんがその場に居てくれて本当に良かったと、心から思ったのだ。
神父さんは怪我を負ったけれど命に別状はなく、一週間から二週間程動けないそうだけれど、本人の意識もしっかりしているし、さんが看てくれるそうなのでなんの心配もしていない。
だから、兄さんの顔は問題なく見られる筈なんだけど、さんと一緒に病室に訪ねて来た兄さんにかける言葉がみつからず、僕はさんに頭を下げることでその場をしのいだ。もちろん、頭を下げたのは本心からだけれど。
兄さんは祓魔師になると決めたらしい。
それをフェレス卿は許し、神父さんもその場に居たのに止めなかったようだ。詳しい現状は分からないが、あっさり修道院に帰って来た兄さんは「反対なんかされてねえ」と言うのでそれを信じるしかない。「まあ、爆笑されたけど」と言っていた意味は分からないし、今は聞く気になれなかった。
入学式の挨拶を終えてほっとしてからクラスでオリエンテーリングを受ける。その後にはコートを着て塾の講師として教壇に立った。
騒動を起こしてしまったことは悪い、と謝ってはきた兄さんには本当に呆れてしまう。今、そんな話をしている最中ではないのだ。
授業を滞りなくすすめたかったし、鬼たちが暴れてしまったのならまずそれを片付けさせたほしい。兄さんは、やっぱり考えが無さ過ぎるのだ。
だから、僕らに任せておけば良いのに。
何も、全て、知らないままで居れば良い。
「ジジイがあんなんになってから、あんまり話せてなかったけど、……ずっと知ってたんなら、お前はどう思ってたんだよ、俺の事」
兄さんが悪魔であると聞いた時僕は少しだけ怖くなった。けれど神父さんに言われて、悪魔としてではなく兄さんとして彼を守ろうと約束して決めた。今でも冷静な僕は兄さんを悪魔として見ている。けれど約束したことと、僕の情を持ってすれば兄さんを兄さんとして見ている。
ストレートな兄さんには通じないこの思いを、言おうとは思わない。
「危険対象だと思ってるさ」
分かりやすく言う、それに尽きる。
僕は、兄さんが祓魔師になろうと思った意味が全く分からない。まず無理だ。騎士團が許しはしない、世間が、人が、許しはしない。僕も許せるかどうか、分からない。
ずっとずっと隠して来たものを、何故、自分から暴いてしまったのか。僕はそれが許せなかった。
僕と神父さんがひた隠しにしてきたものを、無駄にされた。
「今更……ッ───もし本当にそう思ってるなら……大人しく騎士團本部に出頭するか、いっそ死んでくれ」
そうでなければ、僕らはもう守れるかどうかも危うい。
極論だということも分かってる。本心ではないけれど、嘘とも言い切れない。
けれど、兄さんが死んでいたら、兄さんを恨む事はなかったのだろう。可哀相な兄さん、と思っていたかもしれない。僕が無力だったのだと、ただ自分を責められた。
「お前……、ジジイが大怪我負ったのは俺の所為だって思ってんのか!!」
「違うっていうの?」
神父さんがどれほど強かったのかを語る。
兄さんは今まで知らなかっただろう。神父さんがどれほど兄さんを守っていたか、守る為に努力していたか。
こんなに言っても、兄さんはまだわからないだろう。
「さんが居なかったらどうなっていたと思う?死んでいたよ、神父さんは」
「んなこと、分かってる……ジジイが、俺を守って死のうとしたって聞いたし、がジジイを止めてくれて……治療してくんなきゃだめだったんだろ」
「そう。でもそれだけじゃないんだよ兄さん」
「あ?」
「さん、額の痣が消えていただろう」
兄さんは小さく頷いた。
僕も普段あんまり見せてもらった事がないから、数日前に修道院に顔を出してくれた時にようやく気がついて、問いつめた。
もともと、『百豪の印』の話は本人からも聞いていたし、祓魔師の中でも結構知れてる。
「あれはさんが何年もかけて溜めていた力だ」
「は?」
「綿密に力を練って、額に溜め続ける。いざと言う時に生きのびる為の、最後の砦といってもいい」
本人が居たら、そんな大層なもんじゃないから、と必ず言うけれど。
でも僕はそれと同等だと思っている。あれがあるのとないのとでは、さんだって戦い方が変わる。
神父さんを助けてくれたことは感謝しているが、だからってさんにひとつ弱味が出来てしまったのが申し訳ない。そして、何も手を出せなかった自分が悔しい。
「神父さんは無事だった、さんも強い、けれど今後兄さんが二人を───殺すんだ」
next.
お父さん死ななくても、喧嘩はするだろうな……と。 獅郎さんと違って、雪ちゃんは経緯はどうでアレ、燐が覚醒してしまったことをすぐに飲み込んではくれなさそう。 June 2016