sakura-zensen
春の雪
01話
脚を縺れるのも、なりふり構わず走っていた。
疾く、疾く。
俺の脚は、全盛期とは比べ物にならない程役立たずだった。筋肉が悲鳴を上げ、皮膚は擦り切れる。
脚だけじゃない、肺も、背中や腕も全部、頭の中にある最良の動きがちっともできなかった。
判断を誤った、と後悔し焦る気持ちが募っていく。それで自分が怪我をするならまだよかった。死んだって、自己責任だ。でも今はそうじゃない。
この身体が万全だったら、あの時油断しなかったら、自分の置かれている立場を理解していたら───父と兄は死なずに済んだのかもしれない。
文久三年、某日。京都守護職松平肥後守御預・壬生浪士組宿所において、新入隊士を募る考試が行われていた。
参加者の俺は用意されていた防具を身に着け、志願者たちと順繰りに打ち合いをする。身体が小さいので身の丈に合わない道着や防具は邪魔だが、致し方ない。
攻撃は相手の気配や隙を見れば避けられるので、出来はまずまずと言ったところだ。
「ようし! 一同やめ!!」
監督していた土方副長の声が響き、俺も相手も打ち合いを辞めて礼をする。周囲にいた皆でぞろぞろと副長の元へと集い、指示を聞こうと姿勢を正した。
名前を呼ばれた者が居残り、次の考試へと進めると彼は言う。何人か呼ばれた後に俺の名も無事呼ばれ、小手の中でこっそりと拳を握った。
二次考試もまた打ち合いになるが、今度は隊士を相手にするらしい。
俺の相手をするのは防具を身に着けてない少年にも見える青年で、藤堂平助と名乗った。
「春野と申します。よろしくお願いいたします」
「ん。気楽になー」
藤堂さんはにかっと笑ってから竹刀を中段で構える。丁寧かつ基本的な姿勢だ。
気楽にというのは俺が緊張しているように見えたのか、それとも身体が小さいから言っているのか。しかしそんな口ぶりではあっても、態度や構えから驕りや油断などは一切感じられない。俺との打ち合いを重ねるにつれ、目がキラキラと輝き始める。
俺が避けたり、往なしたりするたびに彼の高揚が露わになっていった。その昂る情熱とは裏腹に、ふと、俺たちは見合って動かなくなる。
互いの緊張が手に取るように分かった。全神経を極限まで張り巡らせて身体に纏わせる。それが、隙のない佇まいを作り出す。俺達ふたりともそうだった。
周囲の声も戸惑いも耳から排除する。なぜ見合って動かないのだ、なんて騒ぐ外野に構っている暇はなかった。少しでも気を抜いたら、打ちこまれるのがわかる。
その緊迫は数秒にも、数十分にも感じられた。だがある時、俺たちの間合いに人の気配が立ち入る。同時に「やめ」と終了を告げられたので竹刀を下ろした。
やっと緊張感から解放され、疲労と少しの勿体なさを感じながらも、結局は清々しい気持ちになって深々と礼をした。
久々に、臨場感を肌で感じた。
相手が自分の命を狙い、自分もまた相手の息の根を止めなければならない、あの感覚。これは考試ではあったが、相手の気合が本物だったことに起因するだろう。
ほう……とゆっくり息を吐いて初めて、平常の呼吸を取り戻したように感覚が凪いでゆく。
「なあ! お前、名はなんだっけ!?」
藤堂さんにどしんと体当たりをされたと思ったら、腕が肩に回って来た。俺よりも少し背の高い彼は、興奮気味に防具の隙間から俺の顔を覗き込もうとしてくる。さっき名乗ったにもかかわらず、忘れられていたのはさほど悪い事ではない。
「春野と申します」
「あ、そうだ、春野だ。お前は文句なしに採用だな!」
「そうなんですか?」
じゃあもう、面脱いでいいかな。
巻き付かれたまま腕を上げ、後ろの紐を解いてかぽっと面をはずす。
中に染みついていたツンとしたニオイが鼻をかすめた後、追って自分の熱気がふわりと立ち込めた。
やあ、汗だくだ。まあ男同士なので汗臭いとかは気にしないだろう。
「───……ぇ」
「ん?」
藤堂さんが至近距離で俺の横顔をガン見してきた。
俺達の試合を見ていた面々も注目している。
「なんと美しい若衆じゃ……♡」
「───まだ童じゃねえか」
そんな二つの意見が聞こえてきて、周囲の動揺の意図を理解した。
十五歳のまだ幼さを残した顔つきは、時に俺を少女のようにも見せてしまう。
「……あれ?」
しかし一人だけ素っ頓狂な声を上げる人がいた。
土方副長と考試をずっと監督していて、俺たちに試合終了を告げた沖田さんである。
「付かぬことをお尋ねしますが、以前どこかでお会いしませんでしたか?」
彼の既視感は正しい。俺は約ふた月ほど前に、彼と顔を合わせている。
ただし、一瞬の出来事だ。
───喉から血の味がするような、渇きを覚える。
あの日の俺は、肺が収縮して破裂しそうになるくらい息を荒らげて走った。やっと家が見えてくる頃になると、周囲を取り巻く雰囲気が異様であることが分かる。
近づくにつれて、怒号や悲鳴が聞こえてきた。診療所を営む我が家には多くの患者が出入りしていたが、その人たちが必死に家から出てくるではないか。
「ちゃん、入ったらいけん!」
隣のおばちゃんが俺にそう叫んだが、構わずに家に飛び込む。
目の前に広がったのは、酷い光景だった。刀を振り回す男たちと、地面に倒れる人、散乱した医療器具に、飛び散る血。俺はその混沌の中で咄嗟に、兄と父の姿を探した。どうか逃げていてくれと祈るもむなしく、二人は地面に倒れていた。
「どけ!」
彼らに駆け寄ろうとしたその時、俺の身体は男に跳ね飛ばされる。
血や汗、垢の匂いのする浪人風情の男だった。
手には刀を持っており、その男の後を同じく刀を手にした青年が追おうとしている。
「あなたは人を呼んできてください。私はあの男を追います!」
青年は尻餅をついた俺にそう言いつけて、男の後を追っていく。
男は俺の家に火を放ったようで、指示に従い人を呼ぶまでもなく、大勢の近隣住民が火消し活動を手伝ってくれた。
後でその場にいた患者の一人に聞いたところ、騒ぎがあったうちに通りすがりの彼が助けに入ってくれたのだそうだ。───それが、壬生浪士組・沖田総司だった。
「さあ、どうでしょう」
俺は、見覚えがあると言った沖田さんに対して曖昧に返した。わざわざ、あの時の話をここでするのもどうかと思って。
すると彼は何かに気づいたように声を上げ、「春画本であなたによく似た人を見たんです」と言い出した。一瞬肩透かしを食らったが、笑顔で頷いておく。そういうことに、しとこうか。
「藤堂さんも見ませんでした? 原田さんが買ってきたやつ」
「お、おい総司」
藤堂さんは話をふられて、俺と沖田さんを見比べながら口ごもる。マア照れちゃって。
その程度の揶揄いで腹を立てることはないので、俺はにっこりと笑って受け流した。
そんなこんなで、俺は一応壬生浪士組への入隊は認められた。
ただし土方副長は俺の年齢がまだ十五ということで渋っていた。経歴としても、俺は京では吉田道場に通っていたが特に流派の剣術を学んだわけでもなく、当然免許皆伝はおろか目録も与えられていない。
それでも結局は、俺の"戦う力"が水準に達しているとみなされたことで、多くの賛成意見の前に経歴は不問となった。そしてため息を深く吐いた彼は俺のことを、沖田さんの下につけることにした。
沖田さんはもちろんのこと藤堂さんも歓迎してくれたのでほっと胸を撫で下ろす。もし年齢だけで落とされるのであれば、泣き落としでも手合わせ百人抜きでもなんでもやる所だった。
沖田さんは早速、俺を宿所の中に招き入れ、案内をしてくれることになった。
この建物は奉行所や役所などとも密接にかかわりのあった前川氏が住んでいた家屋で、住民はここを壬生浪士組に明け渡すと出て行ったそうだ。当初は武州から京へ来た近藤局長派の数名しかいなかったが、京阪近辺の道場に声をかけて集めた数十名の隊士が犇めき合っているとのこと。ちなみに水戸藩の芹沢一派は道を挟んだ場所に居を構える八木邸を宿としている。
前川邸は玄関を抜けると渡り廊下があり、中庭や井戸を横切りながら主屋へと繋がっていく造りになっていた。俺は沖田さんの自己紹介や住居に関する話を聞きながら、ヘエと周囲をそれとなく見回す。
「それにしても、一時はどうなる事かと思いましたが、よかったですね」
微笑みながら俺を振り返った沖田さんに、俺は頷いた。土方副長が俺の入隊を渋っていたことだろう。彼にはかなりの発言権や決定権があることは明らかだ。
「土方副長のご心配を払拭できるよう、精進いたします」
「心配、ですか?」
土方副長はまるで嫌味のように「実戦の場でせいぜい踏みつぶされることのないように」と言っていた。
元をただせば、つまらない理由で俺の命が散ることを惜しむようではないか。
きょとん、としていた沖田さんはやがて、ケラケラと笑い始めた。
「あのせりふを、心配ととるなんて、あなた中々───」
最後なんと言いたかったのかは笑いに飲まれてしまったが、俺を馬鹿を言っているようには聞こえない。
「沖田さん、───いえ、沖田先生は土方副長と長いお付き合いですか?」
「あ、ええそうですよ。私たちは天然理心流・江戸試衛館道場の門下で」
彼はようやく笑いをおさめた。そうして土方副長のことや自分のことを話そうとしたところで、言葉を切る。なぜなら、先ほど俺たちが通った玄関の方から、どやどやと足音が聞こえ始めたからだ。
「総司!」
大きな声で、沖田先生の下の名前が呼ばれた。
巡察から戻って来たらしい隊士の姿があり、やけに沖田先生と親し気だ。丁度良いからと、先ほど話しかけていた試衛館道場の門下として彼らが紹介され、俺は目まぐるしく人の名前と顔を一致させる作業にあたった。
エエト、最初は俺の相手をしてくれた藤堂平助、続いて永倉新八、井上源三郎、原田左之助。そこまで来たところで脳裏に"春画本"の三文字が過る。
「春野と申します。よろしくお引き回しのほどを」
「くーーーっ、まだ声まで可愛らしいじゃねえかっ♡ まーるで女の子だぜっ♡」
挨拶の途中で原田さんが俺の声に身悶える。すみませんね、成長がやけにおそくて。十五歳ならそろそろ声変わりしても良いはずなんだが。
「あほう。平助と渡り合える相手が女子なわけあるかい」
「それでもいいんだ! おうあんた、イッパツ俺とやってみねェかい?」
井上さんがツッコミを入れてくれているが、なんのその。原田さんは俺に衆道の誘いをかけた。そういう趣味があるわけではないが、興味はあると。
さぞ俺の顔がお気に召したようで。
「心配すんな、やさしくしてやっからよ」
助けを求めるべく沖田先生を見るが、彼は泣くほど大笑いしていた。
そうしている間にも原田さんは増長して行き、俺の衿に手をかけて開こうとする。
新人ゆえにこういったいじりを受けるのも致し方ないと思っていたが、思わず原田さんの両手首を掴んで止めた。
「───まって!」
この場で着物を剥かれるのがイヤで、つい。
周囲は先ほどまで礼儀正しくしていた俺の、あからさまな拒絶にしんと静まり返った。は、と言いかけた俺に、きょとんとした原田さん他数名も首を傾げて俺の次の言葉を待つ。
「はずかしぃ……」
顔を背けて、熱を集めた耳を見せた。
掴んでいた原田さんの手首が、わずかにたじろぐのを感じる。勢いを削げはしたが、煽りもしてしまったので、そっと胸元を正しながら俺は更なる打開策を見出す。
「はじめては、沖田先生に捧げると決めてるんです」
ぴと、と沖田先生に身を寄せると、その身体が軽く跳ねた。
原田さん達はたちまち激しく「えー!」と顰蹙の声をあげたが、けして嫌な感じはなく、からからと笑って去っていった。沖田さんだけはやや憮然とした顔のままだったが、俺を助けてくれなかったのが悪いと思う。
June 2025