Stay. 03
夕方、講義が終わった足でオフィスに顔を出す。はち切れそうな鞄を待機場所にどさっと落としてから、資料室に顔をだす。所長へのご機嫌伺いは、珍しく表に出てたので一秒で終わった。お茶もいらないそうだ。
「おつかれですー」
俺は昨日あったことなどは億尾にも出さず、資料室で作業をしているリンさんの背後を横切る。そして昨日の途中だったラベル張りをしようと作業机の前の椅子を引く。
「───……」
ふいに、作業音が止まったあと、椅子が軋む音がした。
俺が座ろうとしたパイプ椅子ではなくて、パソコン用のキャスター付きの椅子の音。顔を上げると、リンさんが振り返ってこっちを見ている。
「なに?」
「…………」
リンさんは何も言わない。でも席を立って、こっちに近づいてくる。
見てるのは多分、俺なんだろうけど。
「それはナルの服ですか?」
「! ああ、わかる? さすがに昨日着てた服で友達に会うの嫌だったから、リンさんの部屋を出た足で追剥をしてきた」
笑ってもらおうと思って、冗談めかして言った。まあ、リンさんの趣味はまだ理解できてないので成功率は低い。今回も、奇妙な沈黙が俺達の間に下りた。
笑わないとしても、なんか言ってくれないかと待っていると、リンさんはゆっくり口を開く。
「私の服もありました」
「え、サイズが合わないよ……」
俺は咄嗟に返事をしたけど、リンさんが自分の服を貸そうとする意欲に戸惑う。
「ついでに、ナルには報告とか相談をしたかったし」
「私のことを? 私には話させなかったのに」
「だ、だって……」
上手く言葉が出てこない。
俺はじりじり近づいてくるリンさんに圧倒され、座ろうとしていた椅子の背もたれを強く掴む。
そこに、リンさんの手が重なった。びく、と大げさに震えてしまった。
リンさんが身を屈めて、俺の肩のあたりに額を置く。
「昨日は、あんなに───……」
そのまま何かを言いかけたリンさんだが、言葉が途切れた。そして視界にある黒髪がずるりと落ちていきそうになる。
重みを感じて咄嗟に肩を掴んだら、そこは一瞬にしてふわふわの毛並みに変わった。同時に重たさも人だったときとは変わる。
咄嗟に、現れた犬の身体が落ちないように抱っこした。
一度犬になって戻ったなら、リフレッシュされたと言ってたのに。
今朝の俺とナルのやり取りが、思い起こされる。
「リフレッシュ、全然されてないんですけど!」
「変な話だな」
ポメラニアンを抱えて資料室から出てきた俺に、ナルは首を傾げた。
「ただいまぁ……」
俺は自虐的にリンさんの部屋に向かって挨拶をした。
小脇に抱えたポメラニアンは、人間だったころと違ってご機嫌に尻尾をプリプリしております。
おかしいな、俺はもう関わりたくないとナルに宣言したのにな。いや……昨日の今日じゃ対応策が見つからないってことはわかってる。
俺は再び自分の荷物をリンさんの家の中にいくつか点在させていく。例にもれずリンさんが足元にずっとついてきて、俺の行動を見ていた。
こういうのって後追い行動っていうらしくて、不安とか、甘えたい願望などがあるらしい。だから俺はリンさんを抱っこし直して、買ってきた弁当をリビングのテーブルに置いて、ソファに座った。
背もたれに深く身を沈めると、その傾斜を利用して俺の上半身にリンさんが乗っかる。
首筋にすりすりと頭を押し付けてきて、きゅんきゅん鼻を鳴らした。小さな生き物にこんなに甘えられて健気にされたら、俺は何もできなくなるわけで。
「ンもー、好きにしてくれ……」
ずり、と倒れてソファに横になる。
リンさんは耳をぴくっと立て、俺の胸に立ち上がる。のすのす、と鎖骨のあたりまで来た。
そして鼻先で俺の顔周辺を探りはじめる。
「え!? ぅあ、え、ぁは、くすぐったっ」
しっとり濡れた鼻が、ぺちょっと頬や耳、首や口にくっつく。
更にはぺろぺろと顎を舐められて、身悶える。
「はっ、待っ、そこはちょっと、やばいて」
唇まで舐められるのは洒落にならない───っ。そう思って手で押し返したら、掌をべろべろと舐められた。犬の舌は人のそれより薄くて、柔らかくて、滑らかな感じがする。
って、こんなことを分析してる場合ではない。
匂いをかぐとか、舐めるとかは愛情表現だろうけども、やっぱり中身が人間であり、リンさんであると思うと、なんでもは許せない。耐えられない。
「だめだ、これ以上は……っ」
好きにしてと言ったのは撤回する。
犬の胴体をわしっと掴んで、勢いをつけて上体を起こした。膝の上にリンさんを乗せ、顔を両手で覆う。俺の掌をぺろぺろ舐めて来るので、手を動かして犬の小さな額や目の上、耳の付け根や頬、顎と指で揉みこんでから、顔を挟んだ。言い聞かせるように自分の顔を近づける。
「め!」
甘やかさないと人には戻らないとはいえ、俺にも捨てられない尊厳がある。
本能が強いとはいえ、これまでも意思の疎通はまあまあ取れてたので駄目なことは言い聞かせた。すると、リンさんは俺の言うことを聞くように膝の上からおりた。……いやあの、別におりろとは言ってないけどね。
一度ちょっと空気が悪くなってしまったので、時間を置こうとシャワーを浴びてきた。
リビングに戻るとリンさんはソファの隅で身を小さくしている。
俺も遠慮がちにそのソファの端っこに座り、リンさんの近くに手を置いた。
「さっきはごめん」
黒い三角の耳がぴくんとこちらを向く。
「犬の本能なんだってわかってるから」
そっと距離を近づけて、ふわふわの背中を撫でる。
「ほら、一緒に寝よう。おいでー」
少し早い時間だけど、寝かしつけようと背もたれの隙間にめり込んでるリンさんをわしっと掴んで引きずり出す。さほど抵抗しないあたり、俺に怒ってるわけではないだろう。
でもまあ、ちょっと、拗ねてるかな。
「キュゥウ~……?」
甘えているというより、なんだか言いたげな声がする。しかしわからん。
俺は軽く笑って、リンさんを抱っこしながら寝室に向かった。昨日と同じように布団に入り、寝転がりながら腕の中でリンさんを撫でた。
とてつもなく眠いのに、やっぱりこんな状況で眠れるわけがなく、頭はずっと覚醒していた。
腕の中でぴすぴす言ってるのはまぎれもなく犬にしか見えないのに、俺は割り切ることができない。記憶が残るってわかってるんだから当然だろう。かと言って犬を可愛がってあげないと戻れないので、完全に人扱いすることもできない。
犬化する前のリンさんの様子のことも気がかりだった。
少し怒ってるというか、気に入らないことがあるみたいな、何かを言いかけてた。
多分リンさんに犬化のことを聞かず、ナルと相談していたのが原因だと思う。でもリンさんに直接話を聞かされたら、その時点で俺は繋がりの様なものが出来てしまう気がした。
上手く距離をとりたいのに。そう思っていると───ぴくぴくと、犬の前脚が軽い痙攣をおこした。
これは、昨日も感じたことのある兆しだ。人に戻る───、え、この体勢で? 向き合って腕枕してる、この体勢で? 俺がそうしたけれども。
暗闇の中で影が蠢く。腕を引き抜く間もなく、急に増した重みに押さえつけられる。
「───は、っ……」
息を吐きかけて、瞬時に吸う。
肘から先を捻ってみたが、リンさんが頭を上げてくれないので上手い事引き抜けない。いや、本気で押し返せば出来るだろうけど。
「ねてる……?」
小さな声で問いかける。
リンさんは返事の変わりなのか、身体を丸めるように俺の方へ擦り寄って来た。
まだ犬のつもりなのか、腕で俺を捕らえる。
これはさすがに逃げられないと観念した俺は、犬にしてた時と同じように、肘を曲げてリンさんの頭を撫でた。
ふわふわの毛並みではなく、サラサラの黒髪を梳く。首筋には、かすかな寝息がかかっていた。
いずれリンさんが目を覚ます時に備えて、せめて仰向けになろうと肩を開いた。ほのかに明るみ始めた天井をみていると、リンさんのみじろぎと共に腕にかかる重みが和らぐ。
そっと腕を引き抜くと、リンさんは自然とそれを助けた。それは良かったんだけど、リンさんの意識もうっすらと浮上し始める。
俺は速やかに、ベッドの中から這い出そうと布団の中で身体を捻った。
ところがリンさんに手を掴まれてしまった。
「……なに……?」
ベッドの上で、へたりこむように座った。
リンさんは俺の手を掴んだまま、自分の身体を起こす。俺はそれを待つしかなかった。
「犬が、お好きなんですか」
「うん?? ……うん」
リンさんの問いかけの意図はさっぱりわからないが、ぎこちなく頷いた。
ここで世間話を差し込むほど、リンさんのコミュニケーションの取り方は多彩ではない。犬というからには関係あると思いきや、俺が犬を好きかどうかは今関係ないような……。
もしかして俺が気持ち悪かったとか? 犬を飼いたかったって話をしてたから自分が飼われるのを恐れて探りを入れてきているとか。と、あまり良くない方向に思考が偏る。
それを振り切るように、笑顔を浮かべて言い張ることにした。
「だからってリンさんのことペットにしようなんて考えてないから、安心して」
俺の発言にリンさんは一瞬目を見開いた。
何かを言いかけて口ごもる。そして再び、意を決したように開いた。
「───私を、谷山さんの犬にしてください」
ん??????
「ゴメン、ちょっとよくわかんない」
真顔で何を言ってるんだ、この人。
俺の思考が地球を飛び出し、宇宙の神秘に思いを馳せるような現実逃避を始める前に、自力で帰って来る。
「リンさんが犬になった時の対処を、俺に任せたいってこと? でも俺は」
「ナルから、聞いています。不本意だと」
「!」
ナルがどんな風に言ったかはわからないが、他人を介して伝わった分、リンさんには冷たく感じられたかもしれない。
「私のことが嫌なのは承知していますが、せめて……」
「ちがう、リンさんのことが嫌で言ってるんじゃない」
今更、リンさんを傷つけたり、冷たい人に見られるのが怖くなって弁明した。
だけど俺は掴まれていた手を、やんわりと解く。
リンさんの指先が微かに俺に縋ろうとするような、いじらしい気配を感じて腕を遠ざけた。
これは、よくない兆候だ。
「俺の犬になるんじゃなくて、そもそも犬にならないことが大事なんじゃない?」
「それが出来たら苦労はしません」
深呼吸してから問うが、リンさんは即座に首を振った。
「薬があるんだって聞いた。飲んでないとか、切らしたとか?」
「薬の類は効かなくなりました」
「じゃあ、病院に行かないと」
言い聞かせる俺に対し、リンさんは沈黙を返した。
病院にはもう行ったのか、行きたくないのか、のどちらかだ。
「私は、どうすれば……───ですか」
「え?」
呻くような悲痛な声がリンさんから絞り出される。
あ、失敗した、と後悔した。
リンさんは自分ではどうしようもない犬化に、困っているのに。
「ごめん……俺、」
項垂れるリンさんの肩を支える。
だけどみるみるうちにリンさんは小さくなってしまって、最後には黒いポメラニアンの姿が残された。
俺はいよいよ、リンさんの精神状態がやばそうだということに気が付く。
いや、五年以上一緒に仕事していても知らなかったこの体質が、明るみに出た時点でおかしいことだったんだ。
人である時の苦悩を忘れ、ポメラニアンになったリンさんは、期待の眼差しで俺を見つめて来る。ただ甘えたいという感情に溢れた、健気な動物の姿が俺の罪悪感を余計に刺激した。
「どおしよお……」
next.
人でいる時間が短すぎない??? と思ったけどそれを楽しむためのポメガなので(いいわけ)
Jan. 2026