Stay. 05
俺の犬にして欲しいというのは、きっとリンさんの切実な訴えだったんだろう。普通に考えて犬にしてほしいなんて、人には言わない。例え犬化する事実があったとして、いや、あるからこそ軽率に言える言葉じゃない。
俺はその深刻な事態に向き合わず、自分が踏み込むのが怖いからという理由で、リンさんを遠ざけた。もしかしたら、それに傷ついたんじゃないか。
リンさんを傷つけてまで、自分を守らなければならないほど、俺は最低な男になりたくない。
たとえリンさんが俺の気持ちを知って、軽蔑しようとも。
「リンさんのこと、嫌じゃないって言ったよね。───逆だから、やりたくなかったんだ」
聞いてるかどうかはわからないが、リンさんに話しかけ続けた。
「犬のリンさん……、可愛いくて、好き」
リンさんは身体を起こして俺の膝に乗ってくる。
足の付け根に後ろ足で体重をかけて、腹や胸に前脚をかけながら、俺に登ろうとしてくるのはいつものことになりつつある。
首を伸ばして俺の耳元に鼻先を埋めて、何かを探りはじめた。というか、匂いをかがれているのだと思う。ひやっと冷たい何かがこめかみにくっついた。濡れた犬の鼻だ。
犬の吐息が耳をくすぐり、毛並みがふわふわと顔を覆い、その上ぺろんと舐められた。
「だから遊んだりするのも苦じゃないんだ」
ここまでは、単に犬にメロメロな男の言葉だろう。だけど俺は続いて口を開く。
「───でも人のリンさんも好き」
そこまで言うと、やや興奮気味だったリンさんはぴくりと動きを止めた。
リンさんの理性に俺の言葉が届いたのかもしれない。
「たとえ犬の姿をしてても、リンさんだって思いながら接してた。ベッドでは緊張して眠れないし、抱っこも頬擦りも、舐められるのも、リンさんとしてるって思っちゃう……」
俺はリンさんの顔を見つめた。
きょとんとした顔にしか見えないけど、動かなくなったのはちゃんと聞いてるからに違いない。
俺は極めつけに問いかける。
「そんなこと考えてる俺の、犬になりたい?」
暫く沈黙し、動きを止めていたリンさんだったが、俺の胸の上にもう一歩乗り上げる。
ここで引くと思って油断してた俺の顔に、鼻先をぶちゅっと突き刺した。驚いて声を上げる俺をよそに、さっきの続きとばかりに好き勝手し始めた。
「ちょっ、ぅぶっ」
ぺろりと顔を舐められ、口を噤む。そこが俺の顎や唇でもお構いなしだ。
「俺の話きいて、んむむ」
ふわふわの毛並みの首に手をかけてながら、顔を逃がそうとすれば自然と身体が仰け反り倒れていく。
「ねえっ……すきなんだってば……」
自棄になって抗議をしたが、犬は執拗だった。
このちっちゃな身体のどこにこんなパワーがあるのか。俺は思わず、ぎゅっと目を瞑った。
その時、ふと荒々しい息が止んだ。そして身体に圧し掛かる重みが消えた。
手の中にあった毛並みもなくなり、怒涛の愛情表現がなくなったことに安堵したのも束の間───。
「え……」
目を開ければそこにはポメラニアンよりも随分大きな身体がある。
リンさんが俺の脚を跨いで膝をついていて、俺を見下ろしていた。
体重はかけられていないが、圧迫感はさっきの比ではない。
犬だったときの名残で俺に覆いかぶさっていたリンさんは、俺の予想に反して引いてはいかず、顔を近づけた。
安堵は戸惑いに変わる。
「リンさ、」
出かけた声は、リンさんに吸い込まれた。人肌が、唇が、俺の唇を塞いでいる。
反射的に身体が仰け反ったが、リンさんはそんな俺をゆっくりと床に倒してしまう。
犬だったときとは全然違う器用な拘束に、いともたやすく閉じ込められてキスされる。
身体は素直にリンさんを受け入れてて、俺の唇をはむリンさんに甘えるように吸い付いた。
「はっ、はっ」
この小刻みな荒々しい息は、犬じゃなくて俺のものだった。
息を止めてたら、耐え切れなくなってしまった。鼻で息をすればいいという当たり前のことに思い当たらなかった。
リンさんは俺の酸欠に気づいて唇を離したが、額を合わせて俺をじっと見つめ、息が整うのを待つ。
「ぁ……」
急かされてるような気がして、無我夢中で口を開いた。息を吐きかけるのも構わず、リンさんに手を伸ばして求める。
肩に触れながら、頭を引き寄せるようにして自分から唇に噛みついた。リンさんも俺の意図に気づいて、角度を合わせて深く俺に沈み込んでくる。
床の上に二人で倒れ込んだまま、ちゅっちゅっと音を立てて何度もキスした。
どうして今こんなことになってるのか全然わからないのに、目の前にある唇を食らわずにはいられない。
素直に好きっていったから、もう自分の感情を我慢できなかった。でも、それならリンさんは───。
「っ、ぅ……っ」
また息が苦しくなってきて、引き攣った喉から微かな悲鳴が上がった時、リンさんは俺を解放した。
降りやんだ雨を確認するみたいに呆けていると、俺に覆い被さってたリンさんが、身体を起こす。
胸の圧迫感がなくなって、少し体重がかかっていたことに今更ながら気が付いた。苦しかったのはこれも原因の一つだろう。
つられて俺も身体を起こそうとしたが、うまく腕に力が入らなくて、かくんと肘が崩れる。
そんな俺をリンさんは抱き起こしてくれた。
「いまの……は」
中々口がきけなかったが、やっとのことで、掠れた声が出る。
リンさんは俺の視線から逃れるみたいに顔を背けたように見えたが、俺を抱きしめて、首筋に顔を埋めた。そこでリンさんはしっとりした声で囁く。
「私も谷山さんのことが好きです」
「えぇ……? 本気……?」
言われたことへの喜びよりも、戸惑いのが勝った。
「今したことを何だと思ってるんですか」
リンさんは胡乱な目つきで俺を見た。
「いや、犬の気分が抜けてな───……いわけないよね」
深いため息を一ついただいてしまった。
あんだけキスしといてそれはない、と言いたい所だが、リンさんって犬から戻った後も犬みたいなことしてたから……。
言い訳がましく最初の時と今朝のことを言うと、覚えがあったみたいで一瞬口ごもる。
「……それは、私の本心です」
「へえ……そう……」
寝てる俺にぴとっとくっついてくるのが、本心なんだあ。
徐々に照れくささが増して来た。
話が長くなるからといって、リンさんは俺の手をとりながら立たせた。
近くのソファに並んで座ったが、手はずっと繋いだままだった。
放して欲しいとは思わないけど俺はリンさんからのスキンシップの多さに、実はかなり落ち着かない。
「私の体質は心身への負荷、疲労が限界に達することで犬化すると言われていますが、もう一つあまり知られていない条件があります」
俺の戸惑いなど構わず、リンさんは語った。
ふつうのポメガの体質さえ曖昧な俺でも、ここまで来たらリンさんの言いたいことが分かった。
「───恋です」
もしかしてと思っていたけど、やっぱり。
俺は胸がぎゅうっと搾り上げられるみたいに痛くなった。それが辛いんじゃなくて、嬉しいという気持ちであることはもうわかっていた。
さっき好きって言ってくれたのに、俺はやっと実感する。
「恋はとても厄介です」
吐露したリンさんの言葉に、俺は思い当たる節があって笑う。
自分もそれを憂いだと評したが、リンさんも同じだったに違いない。普通犬化の原因が負荷であるなら、恋は同等、もしくは凌駕する苦痛を伴うだろう。
「恋をすると、今まで休息や簡単な愛情表現などで満たされていた欲望が増強されます。何より、心を満たしてくれる相手が限られてしまう」
「それが、恋の相手?」
「はい。犬になる原因でもあり、心を満たす救いにもなります」
今朝のリンさんの変わり様はやっぱり、俺が拒否する姿勢を見せたからだろう。
でも、他の時はどうだっただろうと考える。
「俺の前で初めて犬になった時は? 何かショックな事とかがあるとああなる?」
「あの時は、谷山さんがバイトを辞めると言ったから……」
「いや、辞めるとは言ってない……」
リンさんの口ぶりに俺はぎょっとする。
辞めるとしても一年後の話だし。
「そうですね。でも、いずれ辞める事実が現実的に見え始めて───耐えられなかったんです」
「そんなに……?」
「谷山さんがずっといるわけではないことをわかっていたはずでした。私自身、この国にいつまでもいる気もなかった」
「うん」
「頭で理解していても、私は本能に抗えないようです」
リンさんの体質にのことを、心から難儀だなあと思った。
本能を制御し、相手を渇望する感情を殺し、理性で自分をコントロールすることに慣れた普通の人とは違って、ポメガは本能が強く出て、身体に影響が出る体質だ。
だけど、リンさんがそうでなければ俺はこの憂いを抱えたまま、恋と呼ぶこともなく消してしまっただろう。
感情を殺していた俺にとって、リンさんに好きだって言うのは本当に恐ろしいことだった。でもリンさんに引かれる覚悟をしながらも、素直に自分の心を口にした時、すごく晴れやかな気分になった。
肩に頭を摺り寄せて幸せに浸りながら、ふと、思いついたことを尋ねる。
「もし、恋が成就しないと、どうなるの」
「下手をすれば、ずっと犬の姿のままです」
「───……もしかして、俺の犬になるって言ってたのって、そういう?」
「半分ほどは」
リンさんが俺以上にとんでもない覚悟を決めていたことに気づいて、腰が引けた。
まさか人に戻れない事を見越して、いっそただの犬として傍に居ようと思ってただなんて。
ちなみに半分と言ったのは、ポメガの文化的には愛の告白でもあるのだそう。でもそれを全く知識のない人間に言うのは、誤解を招くに決まってる。
俺が理解できていなかったことをリンさんもわかっていたようだが、結局説明する間もなく再び犬化してしまった、というわけである。
今回はお互いに好きだったってことがわかったけれど、今後はそんなすれ違いはないようにしないと、と思った。
だってリンさんが犬になったら、俺たちは話し合えないのだから。
「これからは、リンさんが話したいことから逃げないでちゃんと聞くよ……」
最初にリンさんから逃げたことも激化の原因の様な気がして、俺は詫びた。
そんな俺にリンさんが言ったのは「では、ナルの服を着るのはやめてください」だった。
二回目の犬化は、ナルへのヤキモチが原因だったらしい。
end. (epilogue.)
今作は主人公が割と本気でリンさんへの思いを消そうとしていたので、リンさんの好意にはかなり鈍感でした。
というのも、期待したくなかったからですね。防衛本能。
私はリンさん夢をかくとき、ナルを恋のスパイスにしがちだな……?
Jan. 2026