窓から見えるロンドンの街もすっかり眠りついて、当然孤児院の皆も寝静まった。しんとする静寂の中僕ははっきりと目をあけていた。夜中に目が覚めて
しまっ
たのだ。
暇つぶしに本でも読もうかと思ったが、僕に与えられている本は子供向けで幼稚なくだらないものばかりで、つまらない。本棚はいつしか埃がたまってさえい
た。
眠ろうと心掛けてベッドに寝転がっていても無駄だとふんで、そっとベッドから降りた。
スリッパに足をいれ、ゆっくりと蝋燭の火を確かめ燭台をもって部屋を出た。
孤児院の廊下をそっと歩き、一度階段を降りてダイニングへ出るが何も変哲はなく退屈で、僕はやはり部屋へもどろうとしていた。
階段をゆっくりと上り、ゆらゆらと揺れる火をぼんやり見つめながら、廊下に出る。どうせ皆寝ているのだからと思い、僕は今度は廊下を雑に歩いた。さて、こ
れから部屋に戻っても何もすることがない何をしようか、と考えていた時、不意に真横の扉が開いた。
カチャリ
と言う音に驚いた。
子供がトイレにでも起きたのだろうかと思うところだが、その部屋の主は
。
温かい空気と、シャンプーの香りがして、ドキンと胸が飛び跳ねた。
「
?」
蝋燭の光は
までは照らしてくれなくて、僕はそっと燭台を動かして
がみえるようにする。
火の光に照らされたオレンジ色のぼんやりとした姿の
は、体や髪が生乾きで、裸で下半身にタオルを巻いているという格好だった。
自然と普段服で隠れている位置に目が行ってしまいかっと顔が熱くなる。
扉を開けたが何も言ってこない
はしばらくすると当たり障りない挨拶をした。
二言三言交わしただけで、
は部屋へもぐってしまう気がして、僕は必死で彼を繋ぎとめるために話題をふろうと頭をフル回転させた。
僕は頭の回転は良く賢いと自信をもっていたが、
の前では全て無意味だ。
いつもはとても頭が働くのに、
が目の前にいると話題をあげられない。会話を広げることができない。
本来、会話を長引かせ他人とコミュニケーションをとるのは嫌いだ。
だから、
は口数少なく余計なことをしないから好きだと思っていたのだけど、好きだから
と話したかった。そんな純粋な気持ちを僕がまだ持っていることを最近わかって少し驚いた程だ。
はいつだって僕を驚かせた。
今のこのタイミングで部屋をあけたり、この扇情的な格好だったり。
「その、格好……」
悩んだ結果、今の
の姿に対して呟く。
焦ったからぼそりと喋ってしまったが
は僕をじっと見てから、僕がなんて言ったか理解してくれたように「今……風呂……」と口にした。
そんなの見ていればわかるはずなのに余計なことを質問してしまった。
これだけで会話は終わり、
の手はドアノブから離れることはなかった。お願いだからもう少し待ってほしい。今急いで
を楽しませることができるように話題を出すから。
「きみは?」
僕がこの場から離れないからか、あれこれ悩んでいる僕の頭上で
は問いかけた。
「べ、べつに……」
僕の様子を聞いてきてくれた
にぱっと顔をあげると、濡れた髪の毛によっていつもより顔立ちがはっきりとわかり、蝋燭の所為で赤らんでいるように見えて僕はさっと目
を逸らした。
「そう」
僕の答えに静かに納得した
。多分もうこれで会話はお終いだ。
はなんだかんだですぐにどこかへ行ってしまう事が多い。だからだいたい会話はすぐに終わらせて、部屋の前に居るとすぐに部屋に引っ込ん
でしまうのを僕は知っていた。
「ねむれないのなら、おいで」
おいで、と言われた瞬間僕は信じられないものを耳にしたように思えた。
が、部屋に招き入れようとしてくれた。
「ほ、ほん……と?」
恐る恐る
の眸を見上げるとふっと細めて「ほんと」と口角をあげた。
部屋の敷居を跨ぐと、途端に違う香りがした。良いにおいで、シャンプーとか石鹸とかの香りと、多分
の匂い。
気づかれないよう、しずかにすうっと匂い吸う。体中を駆け巡っていく香りに酔いしれて僕はそれだけで満足感を味わう。
の部屋に僕は今居るのだという現実を夢ではないかと思えてきた。
の部屋には大きな本棚があった。僕の部屋にあるものの3倍くらいの大きさで、タイトルをみると興味深そうなものばかり。
「本が・・・いっぱいだ・・」
感嘆し呟くと「好きにしていいよ」と後ろから声がかかった。
僕が本の背表紙を見てどれを見せてもらおうか吟味していると
はいつの間にか着替えていた。
目のやり場に困るから丁度良かったとほっとしていると、
は少し待っていて、と言うと部屋から出て行った。
が部屋を出て行くと、どっと緊張がとかれた。
大きく息を吸って吐いて、僕は本を1冊手にとって部屋を見渡す。
僕の部屋とは少し違った作り。
広くて、この部屋だけで生活出来そう。
(でもキッチンがないから無理かな)
家具は綺麗で床もぴかぴか。スリッパでよかったと思った。土足や裸足で彼の部屋を踏みにじるようなまねはできない。いつも
が裸足で歩いているこの床を、踏んづけていることさえも億劫。
本を抱えてどこで待っていようかと考え、僕はベッドに目が行った。
いつも
が眠っているベッド。
が寝転がっているのを想像して僕は頭を振りまわした。
火のついた蝋燭はベッドの辺りを一番明るくしているし、窓から入ってくる月の光もベッドを照らしていて、本は読みやすいだろうと思ったのだ。
ベッドに座るのに、酷く緊張した。
が眠っているベッドに僕が座ってもいいのだろうか。不安で不安で仕方がない。
けれど、遠くから足音が近づいてきて僕は
だと気がつき慌ててベッドに座って、本に夢中になっている顔をしてじっと本のページを見つめた。読んでいる内容なんてこれっぽっちも頭
に入ってこない。
そんなとき部屋に
が入ってきた。カチャ、キイ……バタンというドアが閉められる音。
は僕に近づいてきた。
やはりベッドはだめだっただろうか。
に図々しい子供だと思われてしまったかもしれない。怖くて怖くてドキドキしているけど、僕は気がつかずに本を読んでいる振りをした。
しかし
は「あげる」と呟いて、僕の傍の棚にミルクココアの入ったコップを置いて、一緒のベッドに乗り込んだ。
多分碌な返事もできなかった。お礼くらいは言えたはずだけど、
がベッドに上ってきたから焦り焦りしてしまった。気づかれてないといいけど。
僕は
が壁に寄りかかって窓の外を眺めているのを背後に感じていた。
の息遣いや外でなく虫の鳴き声、おちついた空間とミルクココアの甘さ。いろんなものが合わさって僕はだんだんと意識がもうろうとしてき
た。
眠い、のかもしれない。
そろそろ
とは別れて部屋で寝なければと思うのだけど、今ベッドに座っているのだと思うと何もできなかった。
「ねむい?」
ふと後ろから優しく声が掛けられて、僕はうつらうつらとしながら頷いた。
くすりと
が笑う声が聞こえたけど、眠気で視界がぼんやりしていて
の顔はあまり見えない。
「いいよ」と
が言っていたけどなにを許されたのかは一瞬理解できなかった。
僕の体を支え、本を取り去って、ベッドに寝かしつける
。
(まさか、ここで……眠っていいの!?)
「
……」
何かを言おうとして
の名前を呼ぶ。
返事をしてくれるのが嬉しくて何度も何度も名前を呼んだ。
そして
が僕をあやす様に肩をとんとんと叩き髪を梳くのが心地よくて、だんだん眠りにおちて行ってしまった。
「!」
朝、目をさまた僕の頭は早速昨晩のことを思い出す。確か
の部屋で同じベッドで眠ったのだと理解するや否や寝起きの体がすごいスピードで起き上がる。
隣には、人が眠っている。柔らかそうな髪の毛を布団に散らして朝日に照らされた白い顔。僕と同じ黒い髪の毛に恐る恐る触れてみると、目が開いた。
「ん……おはよう……」
寝起きの掠れた声に、驚きのあまり閉口した。
すると
はまた目を瞑り寝息を立てる。
僕はいたたまれなくなってそろりとベッドから抜け出して自分の部屋に戻った。
2010-07-03