トムはやっぱり毎日のように俺を訪ねてきた。孤児院にいた頃ほど頻繁ではないが、常に傍に居る。1年しか一緒にいられないと分かったからなのか、
べったりだ。やっぱり親離れというか兄離れができそうにない子だなあと思いながらも部屋に入れてあげる俺も子離れができていないのだろう。
恐る恐る俺の手を握って迷惑かなと問われてしまっては、誰だって受け入れるはずだ。リドルの容姿なら尚のことだ。
トムは容姿を武器にする術を学んだのだろうか。
『
』
カボチャジュースをそそぎながらトムのことを考えていると後ろから名前を呼ばれる。
『ん?』
丁度入れ終わったのでグラスを持ってトムの傍に座る。
ジュースを渡すと小さくお礼を言うトム。
『
のお父さんとお母さんってどんな人?』
『ん、こっちの言い方で言うマグルだよ』
『え』
トムは驚き目を丸める。
俺の両親は普通の人間。俺も普通の人間。ただ境遇が少し違うだけで俺に特別な力は何もない。もちろん魔法だって使えない。
両親はマグル。俺も、マグルだ。
『驚いた?でも、ここではない世界からきたんだよ俺』
『そう……だよね』
俺はことり、と持っていたグラスをテーブルに置いた。口ごもるトムはグラスを握り締めたままカボチャジュースの表面をぼんやりと見つめていた。会話として
はこれで終わりになりそうだったけど、俺は少しだけ引っ張ってみることにした。
『トムはもう俺に会わないほうが良いのかもしれないね』
トムはきっとそうは思ってないだろうけど、わざと口にした。
これは、一種の賭けだった。
純血主義にどっぷりと憔悴してしまっていたら俺を見下すだろう。純血ではない下等な存在と見るだろう。
『そ、そんなっ……なんで!?』
声を荒らげるのは珍しいことだった。慌てたり泣きそうになったりするのは幾度か見てきたけど、こんなに感情をむき出しにするのは滅多に見ない。トムは自分
を演じるのが上手だけどその差くらい分かる。幼少時にあれほど素のトムを間近でみてきたのだから。
『純血主義に胸を打たれている、と聞いたよ……俺のこと、嫌いになっちゃったかなって』
『なるわけない!』
心の底では冷静に、トムの様子をじっとみる。自惚れてもいいのだろうか、トムがこれほどまでに否定してくれているのは俺に懐いてくれている証拠だと。純血
主義よりも俺を慕う気持ちのほうが大きいと。
カボチャジュースを零しかねない勢いでトムは声を荒らげて顔を苦痛に歪ませた。今にも泣きそうな顔にこれ以上言うのは止めておいたほうがいいかと甘いこと
を考えてしまう。
けれどこれから待ち受けている未来を変えるために俺はこの世界のこの時代に送られたのだと思うと止めないほうが得策だと思った。
『僕は……純血主義なんかより……
のほうが大事だ』
拳をきゅっと握ってトムは寂しそうに言った。
『どうして
を嫌いになることができるの?そんなの、僕には一生できないことだよ……』
『……ん、ありがと』
テーブルの上にあった俺の手に、トムは撫でるように確かめるように触れて、ゆるく指を絡めた。
『
、僕の父親は最低なマグルだったんだ……、魔女である僕の母親を捨てたんだ』
トムが俺の両親はどんな人だと聞いて来たのは、この話をするためだったのだろう。すでにかいつまんで知ってはいるけど、トムの生い立ちを彼の口から直接聞
いた。よく調べられたなと思うほどに詳しかった。
『だから、この名前が嫌い』
トムの親指が俺の手の甲を優しく擦る。
酷く凡庸で、特別ではないこの名前が嫌いだと、トムは自分の名を嫌悪していた。
『君の親を良い親だといえないけれど、俺は感謝するよ』
『どうして?』
俺はトムの手を握り返した。ぽかんと首を傾げるトムにゆっくりと言葉をつむぐ。
『だってそうしないと君は生まれなかった』
『
……』
『俺は君に会えなかった』
『……そうだね……
と会えた』
ようやく辛そうな顔をしたトムの表情に笑みが浮かぶ。追い詰めた原因の一部に自分の発言もあるけれど、ほっとする。
『名前はできればそのままでいて欲しいな』
『え、どうして?』
『だって……今度この世界に来たときに君が名前を変えてちゃ、見つけられないかもしれない』
トムは口を閉じて黙った。
どうか、名前を変えませんように。ヴォルデモートという名前になりませんように。
強く手を握ると、トムはぴくりと驚いてから握り返して俺の眸を見た。
東洋人の黒い眸とは違った、けれど似ている濃い色の眸で。
まだ子供の眸だ。この眸が赤くなることのないように俺は今やるべきことをしっかりやらなければならない。
『それでも、この名前が嫌……
だってトムなんて名前忘れちゃうよ』
『どうしても、変えたい?』
『うん』
どうやら、純血主義よりも平凡な名前のほうが根強いらしい。幼少時からそうだったみたいだから、覆せないのだろうか。
俺は最終手段として、とある提案をしてみることにした。
『じゃあ、その名前俺に決めさせて』
***
父親は純血の魔法使いで、母親はマグルだと思っていた。死に屈した母が魔法使いであるはずがないと信じていたのに、僕は逆であることを知った。母は純血家
出身で父はマグル出身だった。名前の由来は聞いていたから、マールヴォロ・ゴーントという純血の魔法使いの名をきいたときは驚いた。そして、絶望に打ちひ
しがれた。
もともと半純血だったのは知っていたのだが、魔法使いが簡単に死ぬという事実に驚愕した。僕はそうはなりたくない。
人とは違う存在で居たかった。簡単に死なず聡明で強い、特別な存在になりたかった。
ほぼ毎日のように
を訪ねていた僕は今日も今日とて彼の部屋にお邪魔している。
カボチャジュースを注いでいる
の背中を見て、僕はぽつりと彼の名を呼んだ。
「
」
「ん?」
小さな声であっても静かな部屋では十分彼の耳に届いていたようで、カボチャジュースの入ったグラスをテーブルに置きながら僕の呼びかけに反応した。
「
のお父さんとお母さんってどんな人?」
特に話す事考えてはいなかった。ただどうしようもなくて、途方にくれて
の所に訪れてしまったのだ。
何から言ったらいいのかわからなくて、
に両親の話を振ることにした。
「ん、こっちの言い方で言うマグルだよ」
「え」
両方とも、マグル。その言葉に一瞬息がつまる。
入学してからすばらしいなと思っていた純血主義に反しているからだ。
「驚いた?でも、ここではない世界からきたんだよ俺」
が別の世界の人で、一年ずつ移動していることは知っていたけど、忘れていた。僕にとっては違う世界など知らないからだ。
戸惑いつつも納得して頷くと、
はふう、と息を吐きながら口を開いた。
「トムはもう俺に会わないほうが良いのかもしれないね」
僕は飲みくだしたはずのカボチャジュースが競りあがってくるのを感じた。どうして、そんなことを言うのだろう。
頭がクラクラした。
「そ、そんなっ……なんで!?」
やっとのことで言葉を発した。テーブルごしの
へ詰め寄るけど、彼は表情をあまり動かさずいつも通りの黒い眸で僕を見つめた。
離れたくなんかないのに。
がいきなり消えてどれだけ僕が苦しかったか、1年しか一緒に居られないという事実を突きつけられて僕がどれだけ辛いか。
今同じ世界に居ることが奇跡なのに。同じ空気を吸っているのに会えないだなんて、息ができなくなる。
「純血主義に胸を打たれている、と聞いたよ……俺のこと、嫌いになっちゃったかなって」
「なるわけない!」
自分でもらしくないって思うくらいに狼狽えて、必死になっている。冷静になんてなれなかった。
は、どこまでも無表情だった。口元も目元もうっすらと笑んでいて落ち着いているのに、僕には無表情にしかみえない。
彼は、僕の心の内を視ていた。純血主義をとるか、
をとるか、僕を試しているのだと思った。
きっと
は純血主義が嫌いなのだろう。なら、僕がとる道はただひとつ。
だ。
が嫌いなものは、僕も嫌い。
が好きなものは、もしかしたら嫉妬してしまうかもしれないけど、僕も好き。
「僕は……純血主義なんかより……
のほうが大事だ」
世界で一番、
が大事。
家族も友人も居ない。僕には
しかいない。僕の世界は
で構成されている。
「どうして
を嫌いになることができるの?そんなの、僕には一生できないことだよ・・・」
は太陽であり酸素であり大地であり水であり星であり、愛しくて神々しい人。
を否定したら僕の世界は崩れ去る。世界の中心を嫌いになんてなれるはずがない。傍に行って近づいて抱きしめたいのに、それができないな
んて僕には死よりも苦痛だ。
おそるおそる、
に手を伸ばした。触れるのはいちいち恐れ多いのに、どうしても触れたい。尊い人だからこそ穢したくなくて、嫌われたくなくて、自分のも
のになってほしい。
「……ん、ありがと」
ゆるく指を絡めると、
は今度は本当に笑った。
僕は触れることが赦されたのだとほっと胸をなでおろす。そして、今抱えている言いようのない不安を
に零した。
両親の話を出した理由がわかったのだろう、
は真面目に僕の話に耳を傾けていた。そして、何も言わなかった。
ただただ聞いてくれるだけだった。慰めも同情もなくて、いっそすがすがしかった。話し終えるころには不安がほんの少し減ったように思えた。ずっと手に触れ
ていたから、
が浄化してくれたのかもしれない。
「君の親を良い親だといえないけれど、俺は感謝するよ」
が僕の手をきゅっと優しく握り返しながら言った言葉に思わず首を傾げた。どうしてだろう。
が感謝なんてする奴らではないのに。勿体無いことをしないでほしい。
「だってそうしないと君は生まれなかった」
「
……」
「俺は君に会えなかった」
「……そうだね……
と会えた」
僕が生まれなかったら、
に会うことはなかった。
はこの世界にくる理由すら生まれなかったかもしれないんだよと笑った。
つまり、
がこの世界に来たのは僕に会うためだった、と言うことだ。
僕は生まれたから
に会えた、
は僕が生まれたから僕に会えた。それは必然だったのだ。運命だったのだ。
ほっと安心して
の手のぬくもりを感じていると、
は口を開いた。できれば名前を変えないでほしいと。
僕はこの凡庸な名前が嫌いで仕方がない。トムなんてありきたりな名前何処にでもいるからだ。
特別な存在でありたい僕にはふさわしくないと常日頃から思っていて、いつかは改名するつもりでいた。それは
に会うよりももっと前から決めていたことだ。
「だって……今度この世界に来たときに君が名前を変えてちゃ、見つけられないかもしれない」
さっきよりもぎゅっと手を握った
に少し驚く。眸を見つめるととても真剣な眼差しとかち合う。
見つけられない、なんて考えなくていいのに。僕がきっと君を見つけ出すのに。誰よりも先に会いに行くのに。
「それでも、この名前が嫌……
だってトムなんて名前忘れちゃうよ」
僕はトムという名前を一生背負うつもりはなかった。母と僕を捨てたどうしようもない男と、情けない純血の魔法使いの名前。凡庸な響き。いやでいやで仕方が
ないのだ。彼らとの血縁は死して尚消えることはない事実だとしても僕自身をあらわす名前だけは変えたかった。見えないように蓋をしたかった。
「どうしても、変えたい?」
「うん」
僕は
の言葉に初めて真っ向から反抗したような気がする。僕を見据える眸は何処までも闇で呑み込まれそうになるけれど、負けないようにじっと
みつめた。僕の心の内を視られる
なら、僕がどんな想いで名前を変えたいか分かってくれるはずだ。
だって
はいつも僕が本当に嫌なことはしなかったし、本当にしたいことはやらせてくれた。
の呼吸や脈拍が聞こえそうな気がした。ふとした動きさえも目に止まった。
とうとう
の唇が開かれて動き始めた。そして凛とした声が静かな部屋にしみわたった。
「じゃあ、その名前俺に決めさせて」
願ってもないことだ……っ。
2011-07-04