ヴォルデモートを中心とした最悪の時代を起こさないためには、どんなことをしたらいいか。考えてみてもよくわからなかった。原作をきちんと読んだわ
けでもないから、トムが闇に堕ちた理由も原因もあまりわからないから手の打ちようがない。
純血主義にのめりこんだことと、名前を嫌悪していたこと、愛情を軽んじていることはわかる。予定では来年初めて人を殺めることも、わかっている。止めるな
ら今年しかない。
でも、どうしても名前を変えたいという考えを直すことはできなかった。このままではトムは名前のスペルを入れ替えてヴォルデモート卿と名乗ることになって
しまう。苦し紛れに俺が出した提案は、名前を俺に決めさせて欲しいという単純なことだった。
けれど、トムが了承してくれるとは限らないし、気に入ってくれなければ俺がいない間にヴォルデモートと改名するだろう。
『だめ?』
提案をしたはいいけど、トムが驚いて目を丸めて何も言わないので、俺は少し不安になって首を傾げる。
トムの顔を窺うと、眸を縁取る長い睫毛がふるふると震えていた。瞬きを数回して、口を小さく開閉して、ごくりと息を飲んでいる。そんなに動揺させるような
提案だっただろうか。名前を決めるのは、そりゃ重大だけど。
『いいの?
が……決めてくれるの?』
『きみさえ良ければ』
本当?本当?と小さな子供みたいにトムは俺を縋るように見上げた。まだ名前を変えると決めただけでどんな名前にするか考えてなかったのだろうか、トムは嬉
しそうな顔をしていた。こういう無邪気な顔が続けばいいなとかすかに思いながらトムを見つめ返す。
『僕は、僕は・・
に名前をつけてほしい。
が呼んでくれる名前がいい』
『ありがとう』
どうやら名前をつける許可をくれたらしい。俺がトムにお礼を言うと、トムは僕の台詞だよと笑う。そして期待に満ちた眼差しで俺を見る。
心なし動物みたいで面白い。わくわくしているのが見て取れる。
『
』
名前をつけるといったはいいが特に思い浮かばず、先日読んだ本に出てきた人の名前を口にした。トムほどよく耳にする名前ではないはずだ。現に俺はこの名前
の人なんて本で読んだ以外に知らない。
どうだろう、と様子を窺うとトムは口の中で名前を転がし吟味しているようだ。そして、こくんと頷いた。
『うん、
がそう呼んでくれるなら、僕はその名前になりたい』
It is good.という言葉に俺はほっと胸をなでおろした。俺もなるべく彼の名前を呼び、トムでもなくヴォルデモートでもなく、
という少年として接しようと決めた。
『よろしく、
』
手を出して握手を求めると、トム……基
は心なし照れた顔で俺の手を握り返した。
『
』
『ん?』
『僕の名前を、いっぱい呼んで』
遠慮がちに俺の手を両手で握り締める
が少し甘えた声で懇願する。弟みたいで息子みたいで、すごく可愛がってやりたくなってしまう。名前をつけたから尚更、愛着が湧くと言う
のだろう。
俺は
をぎゅっと抱きしめた。
『っ』
息を呑む音が聞こえる。そんなに驚かなくてもいいのに。
『
、名前を気に入ってくれた?』
『……ん』
背中を撫でながら問うと、彼はこくりと頷く。肩に額が摺り寄せられた。
『在学中は
に変えられないだろうけど、我慢できるかい?
』
『
がそういうなら』
俺の背中にも腕がまわって更に密着した。
『二人っきりのときは、
って呼んでね』
更に力が込められて、抱きしめていたはずなのに抱きしめられているみたいだ。やっぱり、大きくなったなあと感心する。女の子みたいに柔らかくないし大きい
くせに、抱き合うとどこか安心してしまう抱き心地。滑らかな肌やさらさらの髪の毛やふわりと匂う香りが気に入ってる。
今度は俺が
の頭に頬を摺り寄せた。
『ん。いっぱい呼ぶ』
***
「だめ?」
小首をかしげて自信無さそうに眉をしかめる
。駄目な訳あるもんか。僕にとって
が名前をつけてくれるということは、夢にも思わなかった事態だ。この誘いを拒否するなんて、生きることを拒否することと同等、もしくは
それ以上だ。
「いいの?
が……決めてくれるの?」
驚きすぎて声が出せずにいたけれど、ようやく
に確かめる。今のは空耳ではないか、夢ではないか、本当に僕に名を与えてくれるのか。
「きみさえ良ければ」
思わず顔がほころぶ。
が僕の名前をつけてくれる、こんなに嬉しいことがあるだろうか。
今まで人の名前を呼ばなかった
が、だ。またとないチャンスに胸が躍る。
がつけてくれたら、
は呼んでくれるだろう。きっと僕を呼んでくれる。それだけで幸せだ。もともと気に入らない名前を変えられる上に、大好きな
が名づけてくれて、大好きな
が呼んでくれるのだ。
「僕は、僕は……
に名前をつけてほしい。
が呼んでくれる名前がいい」
「ありがとう」
目を閉じてくすくす笑いながら
僕にお礼を言う。勿体無い言葉だ。
お礼を言いたいのはこっちの方なのに。
さて、どんな名前をつけてくれるのだろう。僕は
がそうだなあ、と呟きながら考えている顔をじっと見ていた。
少し長い髪の隙間から見える白い肌と長い睫毛をじっと観察して、ゆったりと弧を描く口元につられて僕も笑う。
「
」
暫くして
が口にした名前は、
。トムなんて凡庸な名前ではなくて、僕の知っている人物に誰1人として同じ名前の人物は居ない。そしてなにより、
が考えてくれた名前だ。拒否するわけがない。
「うん、
がそう呼んでくれるなら、僕はその名前になりたい」
はどうだろうかと僕の様子を窺っていたけれど、僕が頷くと笑顔になった。そして手を差し出して僕の名を呼ぶ。新しい僕の名前を。
「よろしく、
」
名前を呼んでくれた。きちんと僕の顔をみて、僕に、僕の名前を呼びかけた。
トム・リドルだったとき、こんなことがあっただろうか、否、なかった。僕の名前を知っているのかと確かめた時に一度きり、名前を呼んで以来彼は僕の名前を
呼ばなかった。それに、あの時だって別に僕を呼んだ訳ではなかった。ただ、口にしただけだった。でも、孤児院の子供たちの名前はほとんど覚えていないにも
関わらず僕の名前はきちんと覚えていてくれたから嬉しかった。
今は少し欲が出てきてしまったみたいだ。
名前を呼んで欲しいだなんて思ってしまう。呼ぶことはないと分かっていても、呼んで欲しくてどうしたら良いか考えて考えて考え抜いた。結局方法は見つから
なかったけど。
今まで生きてきた中で1番嬉しいのがこの時かもしれない。
蛇と話せるとわかったときよりも、自分が魔法使いだとわかったときよりも、スリザリンの末裔だとわかったときよりも、
に新しい名前を与えられて、呼ばれている今この瞬間。本来の凡庸な名前、トムと呼びかけられるよりも、新しい名で呼ばれたほうが嬉し
い。
どっとこみ上げてくる幸福感の中でなんとか頭を働かせて
の手を握り返し、破顔した。多分すごい分かりやすいくらい喜んでるのが
もわかるだろう。
でもわかって欲しい。僕がどれほど君がつけた名前を特別大事に思っているか。
「
」
握手をした手を離さず、僕は両手で彼の手を握った。きょとりと目を瞬かせる
はどこか動物的で愛らしい。
昔会ったときよりも見た目の年齢が近い所為か、
が少し子供っぽく見える。随分年上のはずなんだけど。
「僕の名前を、いっぱい呼んで」
君が名づけたんだから、君が呼ばないと駄目なんだ。他の誰にもその役割は果たせない。僕の名前を1番多く呼んでくれなくちゃいけないんだよ。それが名づけ
た君に課せられた義務だ。
トムだったときは、あまりに情けない名前で呼んでなんていえなかった。今は
がつけてくれた名前だから胸を張って言える。
だから僕は
に名前を呼ばれるのを待った。すると、
はふっと笑って僕を抱きしめた。
いきなり抱きしめられるとは思っていなかったから、息を呑む。その音が
に聞こえたのか肩がふふっと笑って振動する。
「っ」
体の大きさもさして変わらないから、昔とは少し違う感じがする。それでも
の香りは変わらなかった。
少し伸びた髪の毛が僕の額に当たってなんだか不思議だ。僕は当時
の胸に顔を埋めていたのに、今では肩口に頬が当たるのだ。
「
、名前を気に入ってくれた?」
、と呼ぶ
の声を一言一句聞き漏らさずに聞く。大事にしよう、
が紡ぐこの音を。
の掌が僕の背中をぽんと叩いた。僕の背中が広くなったから
の掌が小さく感じる。昔はあんなに大きな手だったのに。
「在学中は名前を変えられないだろうけど、我慢できるかい?
」
「
がそういうなら」
僕も
の背中に腕を回す。
が小さく感じる。それが、どこか嬉しいことのようで思わず頬が緩まる。
元々名前を口にしない
だから、べつに良かった。
「二人っきりのときは、
って呼んでね」
でも、誰も居ない時はなるべく僕の名前を呼んで欲しい。こうして、部屋に訪ねてくるたびに、よくきたね
って笑ってくれれば最高。
はまたふふふっと笑って僕の頭に頬を摺り寄せて頷いた。
「ん。いっぱい呼ぶ」
その言葉に胸が躍ったのは言うまでもないことだ。
この日から
の元を訪ねる僕の楽しみが倍増した。
2011-07-06