偽物のトム・リドルはこくこくと頷いた。散々好きではない呼び方をされ続け、不機嫌になっていた が一歩踏み出そうとしたのを止めた俺を、誰か褒めてくれても良いと思う。もしかしたら偽物の身体が吹っ飛んでいたかもしれないし、記憶を消されていたかもしれない。どんな目に遭うかは俺もあまり想像はできない。
だから を引き止めて、俺が言ったのだ。
「いま、何て言ってたの?」
「二度と……二度とその名を口にしないと誓え……と」
こそこそ、と谷山さんとブラウンさんが喋っているのが聞こえた。俺はそんなニュアンスで言ってない。直訳してくれればいいのに、気を使ったのかブラウンさんは脅し口調に訳した。そのまんまの意味なんだってば。
英語には慣れたと思ったけど、母国語ではないからか勘違いが生じやすい。
も同じニュアンスを受けているのだろうかと思いつつも、確かめる術は無い。言葉の壁は高く厚いんだな、とぼんやり考えながら、猫の様にすり寄る を撫でた。
デイヴィス博士やリドル氏が偽物だと判明してからは、霊能者として俺が頼られてしまった。五十嵐先生は華奢で皺くちゃな手に力を込めた。俺を見つめる眸は、恐怖と悲しみに溢れていた。
俺には死んだ人を連れ戻す事はできないし、多分鈴木さんを見つけるのは大変なことだろう。それよりも、まず俺たちがこの屋敷から出るべきなのだ。
俺はそもそもトム・リドルとデイヴィス博士を見物に来ていたのだ。そして途中から、鳴海さんがこの世界の中心かと考えて様子を見ていた。前者が消えた今興味は、彼だけにある。
俺が断る言葉に重ねて、鳴海さんの凛とした声が肯定した。皆この屋敷から出た方が良い、と。
ナルと呼ばれているから鳴海さんだとばかりに思っていた彼はどうやら本当は渋谷さんだったらしい。谷山さんがぷんすか怒りながら暴露していた。何故名前を隠しているのかは分からないけど、なにやら事情がありそうだ。
でも渋谷なのにナルっていうあだ名なのは珍しい。機会があったら聞いてみよう。
もう撤収作業に入っているため、もしかしたら会う事はないかもしれないけど、渋谷さんにはまた会うような気がする。おそらくそういう運命だ。
荷物をまとめ終え、使用人さんや大橋さんに挨拶や今後の話をしようと廊下を歩いていると、原さんがしずしずと歩いて来た。暗い廊下から日本人形のような少女が歩いてくるので少し怖かったけど、様子がおかしい事に気がつく。一人じゃ危ないだろうと声をかけても一切こちらを見ない。す、とすれ違おうとした所で俺は咄嗟に彼女の手を掴んだ。それでも反応しないところを見るとどうやら憑かれているようだ。
すぐに渋谷さんたちに知らせた方が良いと思ったけれど原さんを止められそうにないので、 に頼んだ。彼を一人にするのは忍びないけれど、化物は今原さんを連れて行こうとしているから大丈夫だろう。
『谷山さんたちの所に行きなさい、 』
そう言えば、 は心配気味に俺を見上げたけど、俺は手を離して原さんについて行った。
ならきっと迎えに来てくれる。また、あとでね、と心の中で呟いた。
「あ、あたくし……、」
「気がついた?」
真っ暗な空間を通り抜けたと思ったら見知らぬ場所に居た。血の匂いが濃く、化物の気配が大きく、恐怖の記憶が染み付いた部屋だ。タイル張りの床は血に塗れ、人を殺したのであろう台は禍々しい存在感を放っていた。
原さんの淀んでいた眸にようやく意志が灯る。震える可愛らしい声にほっとした。連れてこられてしまった事を瞬時に理解して、出来る限りの力で化物を寄せ付けないようにしている彼女の隣に俺は座った。着物が汚れてしまうのは仕方が無いけれど、勿体ないと思う。
「 さんも巻き込んでしまったのですわね……」
「大丈夫、なんとかなると思う」
「あたくし、少しほっとしてますの、 さんがいて。ごめんなさい」
「どうして謝るの?俺も一人じゃ心細いから、原さんがいて良かった」
あは、と笑うと原さんの暗い表情も少し和らいだ。袖で口元を隠しくすっと笑ってくれる。
「あ、誰か来た」
誰かの気配がした。 や谷山さんにしては早すぎるような気がしたけれど、音も無く現れた渋谷さんに俺と原さんは目を丸めた。ドアを入って来ただろうか、よく見ていなかったけれど。
ただ気配がしたから顔を上げればそこに居たのだ。
「ナル」
「大丈夫。すぐに、助けにくるから」
優しげな声色、手つき、表情。これは、あの渋谷さんだろうか。まるで別人だ。
「渋谷さん?」
問いかけても、笑い返すだけで答えない。肯定なのか否定なのか、俺にはわからない。でも渋谷さんじゃない気がする。たろ、だろうか。
瞬きをしたら、すぐに彼は消えていた。
すると、今度は谷山さんがやって来た。夢でも見ているのだろうかと、笑う。
原さんをしきりに励ました後、俺に安堵の表情を浮かべる谷山さん。 の様子を問えば、谷山さんはくすくすと笑って教えてくれた。いつもくるくる表情の変わる、おてんばで素直で優しい子。 は彼女の騒がしい所は苦手だろうけど、素直で優しいところはきっと邪険にはしないだろう。
滝川さんと喧嘩してないことだけを祈る。
何か物があった方が安心するだろうと、谷山さんは大切な鍵を渡してくれた。原さんがそっと受け取り、大事そうに握りしめれば谷山さんは遠ざかって行った。
原さんも疲れ始めて来ているので、早く来てくれれば良いなと思い谷山さんを見送った。
それから少し時間が経ってから、今度は本当に谷山さんが飛び込んで来た。入り口の傍には も居る。魔力を使いすぎたのだろう、眸が赤くなっており暗闇によく映えている。名前を呼びかけようとした途端、頭の中に直接垂れるような、ピチョンと言う音が響いた。
死ニタクナイ……、としゃがれた、声にもならない音がぞぞぞと駆け巡ってくる。
血の池みたいなバスタブから起き上がった化物は、谷山さんの咄嗟の九字に怯んだ。だけどそれだけでどうにかなる奴ではない。すぐに二人を立たせて の居るドア付近へ突き飛ばすように押した。半ば倒れ込むように部屋から半分程出る二人と、一歩部屋に入ってくる 。
「 」
嬉しそうな顔を浮かべた は手を差し伸べ、俺の手を握った。きゅっと優しい力のこもるそれは少し冷たい。
『目障りだな、あいつ』
が睨め付けたのは、部屋の奥に居る化物。
インセンディオ、と が呪文をはっきりと口にした瞬間、目の前から炎が上がる。ぶわ、と熱風が俺たちを襲うけれど火は何かを燃やし尽くしたように消えた。 気づけば化物の気配は消えてなくなっていた。気味の悪いねっとりと絡み付くようなそれが無いことに、気分が晴れる。血に濡れた薄暗い部屋だというのも忘れそうだ。
は、家を燃やせば良いのだと滝川さんが言っていたのを覚えていたのだろう。本体を焼き尽くすという発想はなかったけれど、まあいいだろう。
を見下ろせば、にこりと微笑まれる。そっと抱き寄せてお礼を言えば、ううん、と首を振った。
「今の、な、なに?」
「炎が、……?」
出入り口でぽかんとしている二人に、ああしまったと心の中でため息をつく。こういうのはあんまり見られない方が良いのだ。 は此処へ来る途中相当無理をして魔法をつかったようで、眸が赤い事に気がついたけど無理を承知で記憶を消す魔法をしてもらった。
オブリビエイト、と呟き、ぱんっと手を叩けば二人はぱちくりと瞬きをした。
「あれ?ウラドは?」
「……もう、ありませんわ……、ウラドの気配も、この屋敷の霊たちも」
俺が除霊したということは変わらないようだ。 の今の力では俺たちが何かをしたという詳細をうやむやにすることだけが精一杯のようだ。そして今はもう立っているのも辛そうだった。
『がんばってくれたね、 』
『ん』
しゃがんで、ぎゅうっと力強く抱きしめて、そのまま立って抱き上げる。はあ、と疲労困憊の息を吐く の背中をさすって、二人を見下ろした。
「さ、帰ろう。手を貸せないんだけど、立てるかな?」
「え、ええ」
原さんと谷山さんが二人で手を取り合って立ち上がった。
「谷山さん!」
「麻衣!」
「真砂子!!」
ばたばた、と駆け寄ってくる渋谷サイキック・リサーチの皆。滝川さんが真っ先に谷山さんの頭を軽くはたき、先にいったら危ないだろうが、と嗜める。
「ウラドは?」
「ここには居ません……除霊、したのですね」
渋谷さんが怪訝そうに眉をしかめて尋ねたのに対し、リンさんがふとあたりを見渡してから俺をちろりと見た。なんと答えていいのやら、と思いつつさっき渋谷さんが使った技法を使おうと思ってただ笑った。
「お前さん、どうやってあんなもん祓ったんだ?」
滝川さんが俺の頭をわし、と掴んで顔を寄せる。 が燃やしたとか、俺の運命様が勝手にやりましたとも言えない。
「企業秘密です」
「麻衣、原さん、見ていなかったのか」
渋谷さんも興味を示したのか、二人を見る。でも彼女たちの記憶は曖昧なものに書き換えられているので、きっとわからないだろう。
よいしょ、とずり落ちそうな を抱き直す。
「大丈夫でっか? さん」
「ありがとう、ブラウンさん、大丈夫だよ」
隣で見ていたブラウンさんがそっと俺と を支えるように手を伸ばした。 は眠るように目を瞑って、俺の肩に頭を預けたままだ。
「 さん、えろお頑張ってはったです」
「そう……だからこんなに疲れちゃったんだね」
すり、と顔を寄せると も反応してきゅっと手に力を込めた。
皆が来た道を一緒に戻りながら、ブラウンさんの隣を歩く。
「 、結構大きい力使ったでしょう」
の疲労具合からみて、連発したのだろう。全てが全て気づかずに終わっているとは思えなくて、誰に言うでも無く呟いた。隣に居たブラウンさんも、前を歩いていた皆もはっとして俺を振り返る。
「凄かったのよ、分厚い壁ぶち抜いたんだから」
松崎さんが頭を掻く。俺も苦笑いを浮かべた。
結構な大技をかましたようだ。でも、だからこそ皆が早く迎えに来てくれたのだろう。
「あらら。当分はゆっくりさせてあげないとね」
よいしょ、とまた を持ち上げる。
「少年、変わってやろうか?気疲れしてるだろ」
滝川さんが言ってくれたけど、実の所俺は全く疲れてない。原さんがかわりに寄せ付けないでいてくれたし、 が退治してくれたから、ずっと座っていただけだ。
強いて言うならお腹が減ったくらい。
「大丈夫、ありがと、ぼーさん」
親しみを込めて、半ばふざけて谷山さんの真似をして首を傾げた。なっ、と滝川さんが声を漏らす。谷山さんや渋谷さんがぼーさんと呼んでいるのが、なんだかんだ仲良さげな雰囲気で気に入っていた。
「滝川さんはお坊さんなの?」
「そ、あたしは巫女で、ジョンはエクソシスト」
松崎さんがついでにと自分を指差してからブラウンさんも紹介してくれた。
「へえ、渋谷さんはなんでナル?」
一番気になってたのはナルというあだ名だ。
「ナルは、ナルシストのナルちゃん」
谷山さんがにこっと笑うので、俺はぶっと吹き出した。俺もそう呼ぼう。
2013-12-19