いきなり大きな衝撃と、めまいがした。すぐに、痛みが身体を襲う。ぼんやりとした視界の中で、車とそこから降りて来た足元が見える。女性だということしかわからない。
その人はすぐに、車に乗り込んで、思い切りアクセルを踏んだ音がした。キュイイ、という高い音が道路越しに伝わってくる。それから僕は何も分からなくなった。
真っ暗な中にいて、僕は誰かの生活をぼんやりと見送っていた。少し意識がはっきりしたときは、少女に助言をしていたように思う。当たり前のように全て知っていた。彼女の名前も、危険も、誰かの思いも、すべて。
でも、またすぐに分からなくなるんだ。
夢の中に入ってくる少女が僕をみて、誰かの名前を呼んだ時だけは、僕は彼女の名前を思い出せるのだ。
「たろくん?」
「……、」
また目覚めた。いつものぼんやりとした世界ではなくて、眩しいくらい白い天井を視界に入れた。やけにリアルだ。そう思ったら体中の感覚が全てダイレクトに伝わってくる。本当に目が覚めたのだと気付いた。
女性が、僕を見下ろしていてぽつりと名前を呟く。女性はナース服を着ていた。ここは病院、だろうか。そう思いながら瞬きをした。
「今すぐ先生を呼びますね、待っていてください」
言い捨てるようにすぐ部屋を出ていった看護婦さんに、はい、と言おうとしたけれど声が咄嗟に出ない。長らく眠っていたようだった。身体がぷるぷると震える。
「太郎さんですね、わかりますか?」
「、ぁ」
白髪で眼鏡の男性が、複数人の看護婦さんをつれて病室に入ってきて、僕の目を見たり、胸に聴診器をあてたりと具合を見る。はきはきと尋ねられ、なんとか声を出そうとすれば今度は少し声が出た。僕は、太郎というのだろうか。
自分が誰なのか、わからなくてその疑問を伝えれば、先生は一瞬目を見張った。そして別の先生が来て様々な質問を僕にする。算数の問題や、物の名前を答える問題、時計を読んだり、渡されたシャープペンの芯を出す等の動作をしていく。言われた事は理解できて、何をしたら良いか分かるのに、自分が誰で何をしていたのかだけが分からない。
事故に遭ったことさえ、聞かされてようやく理解した。
次の日の夕方頃、三人の人物が病室を尋ねて来た。一人は四十代くらいの男性、一人は僕と同じ年頃の少年、もう一人は十歳くらいの男の子。家族だろうか、と思いながらぼんやりと見ると、四十代くらいの男性は刑事だと自己紹介をした。僕はぺこりと頭を下げる。後ろについて来た二人はさすがに刑事ではなさそうで、もしかしたら二人は僕の家族かもしれない。
ただ二人は互いにも、僕にも、似ていなかった。家族とは違うような気がした。
話してみて分かったのはみんな他人だということ。とと名乗った二人は僕を見つけてくれた人たちだった。危うく死ぬ所だったのを必死に心肺蘇生を行い、いち早く通報してくれたのだそうだ。
看護婦さんに後から聞いた話では、頻繁に花を持って病室に訪ねてきてくれていたらしい。
目が覚めてぼうっとしているときに見た綺麗な花は、いつ僕が目覚めても良いようにこまめに届けてくれていたものだったのだろう。小さな白い花は、優しい想いに溢れていた。
二人のひだまりのようなあたたかさに、胸がフワフワと浮かぶ。
に、家においでと言われた時ほっとした。誰も何もわからなくてこれからどうしたら良いかも考えられない中、道を照らしてくれた。
次の日の朝から、とは僕の病室へ訪れた。
「昨日はよく眠れた?」
「うん、今までずっと眠っていたのにぐっすり」
「そう。身体は辛くない?」
「平気だよ」
は昨日英語で少し話した後からは、一向に口を開こうとはしなかったけれど、がしきりに僕の具合を尋ねて、会話をしてくれるのが嬉しかった。
今日は髪を切って頭を洗ってくれるらしい。シャワーを浴びる許可も貰ってあるからとタオルを何枚か鞄から取り出した。入院中は身体をこまめに拭いてくれていたようだけど、やっぱり洗い流せるというのが嬉しい。
足をベッドからおろして少しだけ地面に素足が触れた。久々の地面の感覚に、ぶるりと皮膚の表面が震えている。
は僕を前から抱きしめ、背中に腕をがっちりと回し、僕の身体を持ち上げた。
軽く方向転換されて、すとんとおろされたのは車いすの上だ。は僕の足をひょいと持ち上げて足置きの上に置いてくれた。
「行くよー」
「うん」
が頭の上で声をかければ車いすはゆっくりと進んだ。しかし、病室から出てすれ違った患者さんらしきおじいさんにが呼び止められた。
「くん、たろくん目が覚めたんだねえ」
「ええ、少し前に」
「よかったなあ、よかったよ……一年半、よう世話したよ」
涙ぐんでいる様子に、とがどれだけ僕のお世話をしに此処へ来てくれていたのかわかる。おじいさんにも、とにも、ありがとうと伝えた。
それから、病院内にある美容院へ行き軽く髪の毛を切ってもらった。さっぱりとしてからすぐにシャワー室へ移動した。シャワー室には普段見る風呂用とは違う、高さのある椅子が備えてあった。座ったままシャワーを浴びれるようにとの配慮だろう。僕は一度そこへ服を着たまま座った。脱がそうかと提案されたけどリハビリにと自分でなんとか服を脱ぐ。前を隠してから脱衣所にいるに声をかければ彼はひょっこりと入ってきた。
『、洗濯お願いね』
『うん』
僕の脱いだ服を回収して一度はシャワー室からでた。に声をかけているのが聞こえる。それからが脱衣所を出て行く音がして、は少し何か物音をさせてからシャワー室へ戻って来た。
「濡れそうだから脱いだ。よし、洗おうか」
Tシャツ一枚で素足姿の。さすがに足首まであるデニムでは濡れるからだろう。
「あ、うん」
シャー、とシャワーから水が出る。足の先に水が少しだけ触れた。まだ冷たいなあと、ぼんやり思いながら、が温度を指で確認しているのを見下ろしていた。
生暖かく優しい水圧のシャワーに、身体を濡らされた。頭のてっぺんから足の先まで流れて行くお湯が気持ち良い。背中や腕を擦ってもらって身体が綺麗になって行くのが分かる。胸や腹はなかなか力を入れられないけれど自分で洗っている最中はは僕の頭を洗っていた。がしゃがみ足の先まで優しく擦ってくれて、最後にシャワーでまた全部洗い流す。生まれ変わったような気分だ。
記憶が無いからか、余計に僕は新しい何かになったように思えた。
「たろ、先生がさ。記憶はきっと一時的なものできっといずれ思い出せるって言ってたから」
「……うん」
僕の思っていたことがわかるのか、はシャワーの音の向こう側から話しかけた。
「それでさ、たろの家族はきっと俺が連れて来てあげるから」
「ん」
「心配しなくていいからね。流し足りない所ない?」
「ないよ」
記憶が無い今僕はの子だって言ってくれた。今から僕は太郎に生まれ変わったのだ。本当の名前と本当の家族が来るまで、どのくらい時間がかかるかそれは神様しか知らないことだけど、僕はその時まではの家族だ。
にドライヤーで頭を乾かしてもらって病室へ戻れば、お昼ご飯が配膳された。僕が食べている途中でが洗濯物を乾燥機にかけて来たと一度病室にやってきた。
午後からはさっそくリハビリをするようで、とは一度食事をしに病室をでた。十分くらいしてからお弁当を持って戻って来て、一緒に食べてくれた。食事を終えて暫くゆったりと休憩していると、看護婦さんとリハビリの先生が病室へやって来た。初めてのリハビリだったので迎えに来てくれたらしい。
またに車いすに乗せてもらって、リハビリ室へ行く。途中では洗濯物をとりに行く為に僕らから離れた。
一年半身体を動かしていなかったことは、身体が一番分かっていた。ぎこちない間接を和らげるための柔軟が主で、リハビリ師の先生が僕の足を押したり引っ張ったりするのを、病室や家でもできるようにとが習っていた。
それからなんとか掴まり立ちをしてみたり、どのくらい動けるか確かめる。
先生の話では一週間程で立って少し歩く程度は出来るらしいけれど、なんだか一週間先が遠くに思えた。
2013-12-28