EndlessSeventeen


夏色のくじら(理香視点)

仕事が終わり帰宅してまずするのはハヤテの散歩。
リードを付けて家の前の大きな坂道をくだり、さらに緩やかな坂道へさしかかったところで、ハヤテが逃げ出した。うちの忠犬であり老犬のハヤテは普段こんな事はしない。一瞬あっけにとられてから慌てて追いかけた。
車にでも轢かれたらどうするのよ、と焦りながら坂道を駆け下りる。

ようやく追いついたと思ったら、ハヤテは少年にちょっかいを掛けていたようだ。地面にべたりと座り込み、ハヤテに苦笑いを浮かべている。ハヤテは私が怒って声を発するとわんわんと鳴いて、少年は私に気づいたように視線を上げた。
近づいてみると彼は肘を擦りむいて血を流していてすごく痛そう。赤い血はシャツに少しついてしまっていて、大変申し訳ない。

謝れば、彼はにこにこと余裕のある笑顔を浮かべてハヤテを撫でている。

噛んでいないだけマシだけど、この肘は地味に痛いだろうと思い家での手当を申し出て、ハヤテにひとまずリードを付けた。



04.不思議な少年



旅行に来ているようで、ボストンバッグを肩に提げている。名前を聞くと東京から来ました ですとシンプルに自己紹介をしてくれた。高校生が夏休みにこちらに遊びに来たのだろう。私もそれに倣って市役所に勤務しているのだと自己紹介をした。会話をしていると、あれ高校生ってこんなに大人っぽくて静かだったかしらと親戚の子供達に思いを馳せたけれど人それぞれという言葉もあるし比べがたい。 くんは大人っぽいのね、と笑うと良く言われますよと苦笑いをしていた。

家につくと、大きな家ですねえとのんびりと驚かれ、水道のある庭に案内すると立派な苗ですねと褒められる。ここ数分の出来事で、 くんがマイペースだということがわかった。

「お客さんかい」

水道で傷口を漱いでもらおうと思ったところで、凛とした声が響く。
縁側をおばあちゃんがゆっくりと歩いて来た。すぐに事情を説明しようとしたけれど、その前に くんが口を開いた。

「こんにちは、お邪魔しています」
「――――、こんにちは、理香の知り合いかい?」

風が吹いて、朝顔の苗がざわりと揺れ動く音がやけに大きく聞こえた。おばあちゃんは くんをみて一瞬だけ目を開いてから目を細めて微笑んだ。

「ハヤテが飛びついてしまって、転ばせちゃったの」
「おやまあ、すまないねえ。お前さん、名前は?」
「たいしたことありませんよ。俺は、 といいます」

あまりハヤテを叱らないであげてくださいね、と微笑んだ くん。
おばあちゃんは薬箱を持ってくるから、傷口を洗ったら縁側に掛けなさいといって、部屋の奥へ行ってしまった。

水道で傷口を漱ぎ、ティッシュで水分を拭うとじわりと赤いシミが出来る。

「いてて、ありがとうございます」
「本当にごめんなさいね」
「こんなに素敵なお家に来られたから、役得ですよ」

現代に珍しいくらいの大きい立派なお宅ですねと見上げた。

「待たせたねえ、どれ、傷口を見せてごらん」
「お願いします」

そこへ、おばあちゃんが薬箱を持って傍へやって来た。
理香は散歩へ行きなさいと言われたので、おばあちゃんに くんを任せる事にして、私はハヤテを連れて家を出た。




十五分ほど散歩をして、家に帰ってくると、 くんはまだうちに居た。
ふと気づいたのは、彼の足に包帯が巻かれていること。どうしたのかと思って母さんに聞いてみると、足を捻挫していたとのことだった。迷惑をかけまいと黙っていたようだけど、足の腫れにおばあちゃんが気づいたのだそうだ。
「まったく、ハヤテも困った物だわ」
「何か理由があるんだろうね」
普段こんな無茶をすることがないハヤテに不安を覚えて母さんが頬に手を当てると、おばあちゃんは真剣な顔つきで、縁側でハヤテを撫でている くんをちらりと見やった。
理由、と母さんと私は首を傾げるけれど、おばあちゃんは一人だけ全部わかったかのような顔をしていた。どこか寂しげで、嬉しそうな横顔だった。

「万理子、理香、 さんをしばらく泊めてあげなさい」
「そ、それは構わないけれど」
「でもあの子、旅行に来ているみたいだし、ホテル予約してるんじゃないかしら」
もしくは親戚の家にでも行くんじゃないのかしら。そう思っていたけれどおばあちゃんはすっと くんに声をかけた。


さん、あんた泊まる宛はあるのかい」
「いえ、特には。どこかビジネスホテルに泊めてもらおうと思ってます」
「そうかい、じゃあうちに泊まりなさい」


そもそも彼は、何を目的にどのくらいの日にちこちらに居るのだろう。名前と、東京から来たことしか分からない。
怪しい人ではないのだろうけど、知らないというのはどこか不安だった。


「そんな……悪いですよ」
「あんたのその足は、うちの犬の所為だ。けが人をほっぽりだしたとあっちゃ、陣内の名が廃る」

これも何かの縁だ。と笑うおばあちゃんの顔を少しだけ見つめて、 くんは折れたように肩をすくめて微笑み返した。

「ありがとうございます、お邪魔します」
「ああ、あとで部屋に案内させよう」

こうして、不思議な少年はうちに泊まる事になった。


2013-08-06