いくら川をさらっても誰の身体も出てこず、親戚のおじさんも見当たらない。朝顔は一年草で夏を過ぎたら枯れてしまった。種だけは大事に持っているけれど、もうあの人が居た証拠はどこにもない。私の胸と、種の中にしかないのだ。
それから十年が経って、近所の写真屋さんが閉店するときに偶然外で撮った写真に私が写っていたと、その写真を送ってくれた。
朝顔畑で水をやっている私と、あの人の姿。
白と黒の写真なのにす朝顔が凄く鮮やかで綺麗に見えて、柔らかい微笑みを携えたお兄ちゃんと、無邪気に笑う私の姿がそこにはあった。
ふと気づけばもう一枚、あの人だけの写真があって、ただぼうっとどこかを見ている写真だった。真っ黒な眸と髪の毛は白黒の所為か暗い面持ちに見えて、少しだけ怖い。暗闇に消えて行く前優しく笑っていた記憶は、だんだんとこの無表情に掻き消されて行くように思って、その写真はしまい込んだ。
05.恋々
朝顔を背に微笑んでいるその少年はあの写真の彼とそっくりで、私は目を見開いた。あの人は八十年も前に私の目の前で闇に攫われてしまったというのに、変わらない姿をしている。
きっと、幻なのだろう。
こんにちはと返事をすると、にこりと笑みが帰ってくる。私の方がもう年上なのに、彼は酷く大人びて見えた。
と名乗った少年は、飼い犬のハヤテの所為で怪我をしたようだが、叱らないでやってくれと苦笑いを浮かべる。うちの忠犬は理由もなしに飛びかかったりはしないし、 さんが何かしたようには見えない。きっと何か違う理由があるのだろう。そう思って私もハヤテを叱るのはよした。
理香を散歩に行かせ、肘の手当をしようとしたところでふと気がついたのは さんが足を庇って歩いている事。
問いつめたらあっさりと、捻ったことを白状した。
ため息を吐いて、万里子を呼んだ。氷水を持って来てもらい、暫く冷やさせる。
理香が帰って来たときには既に さんの足には湿布をはり包帯を巻いていた。
この足ではどこか宿を探すのも、上田をあちこち見て回るのも大変だろう。大きな荷物を持っているからきっと数日ほど滞在するのだと判断して さんにうちで寝泊まりする事を提案した。
幸い部屋はたくさんあるのだ。大丈夫だろう。
最初は遠慮していた さんだったけれど、これも何かの縁なのだからと言うと困ったように肩をすくめてからお願いしますと行儀よく頭を下げた。
親戚達が明日から集まり始め、誕生日会を開いてくれるのを、夕食の時に説明すると さんは箸をとめた。
「あ、おめでとうございます。……俺は、明日宿を探しに行きますね」
「ありがとうよ。何を言っているんだいその足じゃこの坂道を下るのも難しいだろう」
「いやでも」
「縁あってこうなったんだ、私の誕生日会にも参加しておくれよ」
人がたくさん居て迷惑をかけるかもしれないがね。と付け加えると さんはそう言うの好きですと笑った。
「こんなに美味しい家庭の味も、たくさんの家族も、うらやましい」
満面の笑みで料理を褒められた万里子は気を良くしてご飯のおかわりを促し、 さんは照れたようにお茶碗を差し出した。おかわりをするのは何年ぶりだろうと言った笑顔は子供らしさを残していた。
夕食を終えてから さんを部屋へ呼んだ。
花札を知っているかと尋ねるとうろ覚えだけどと苦笑したので一勝負することにした。
「こいこい」
「栄さん強い……」
さんはうろ覚えと言うけれどルールは忘れていなかったようだ。
「東京から来たんだってね、上田へはどうして?」
「見物と…………、かな」
見物までは聞こえたがその後何を言っているのか聞き取れず、聞き返そうとしたが さんがこいこいと続けるので機会を逃してしまった。
「あんた、いい人はいるのかい」
「え、な、何ですか急に」
「いやね……寂しそうにしているもんだから」
「俺の周りにはいい人ばかりですよ」
はぐらかすように、けれど本当の事のように さんは言った。
「賭けをしようか」
「え?」
「私が勝ったら さん、あんたの話をしておくれ」
「俺が勝ったら?」
「私の話をしよう」
「いいね。乗った」
栄さんの話、聞きたいな。と さんがにっこり笑って、私は昔に戻ったように無邪気に笑い返した。
最終的に、私は負けてしまった。花札では負けなしだったというのに。
驚いて、目を丸めて さんをみるといたずらに成功したように笑っていた。その顔をみて私もあははと大きな声で笑ってしまう。
「俺の勝ち。何の話をしてくれますか?」
「そうさねえ、私の初恋の話でもしようか」
「素敵」
恋というにはまだ未熟な、けれどきっとあれは私が初めて好きになった男の人だった。
誕生日に朝顔の苗をくれて、優しく笑ってお兄ちゃん。
きっと、私の事を恨んでいるのではないかと、心のどこかで思っていた。
「そんなことないよ」
「あるんだ、あるんだよ、私が子供染みたわがままで、あの人を引き止めようとしたら、」
あの人は、違う世界へ攫われてしまったんだよ。
そう言うと さんは困り気味にきっとそんなことないよと励ましてくれた。お兄ちゃんにそっくりなあなたに言われたら私は救われるきがして、だからこそこんな話をしてしまったのかもしれない。
「そっくりでねえ。あんたに。私に、会いに来てくれたのかと思ったんだ」
「覚えてるんですか?」
「一枚だけ、あの人の写真があるんだ。見るかい」
本の隙間に入れた、古ぼけた写真を取り出す。私と二人の写真だけを見せた。
端はぼろぼろになっているが写真自体はよく見え、実物と写真を比べると本当にそっくりなことが分かる。
「本当に、儚い恋だったよ」
さんはただ静かに、その写真を見ていた。
2013-08-06