経歴は異常だが、人間としてできなくはない経歴だった。侘助よりもさらに頭のいい子供だったのだろう。天才、という奴だ。
健二くんが連れられて行った後に家族皆で、彼がやけに大人びている理由を納得してしまったが、俺にはモノクロ写真に写った彼としかいいようがない人物を見て、彼の存在に疑惑を抱かざるを得なかった。
うとうとと眠りかけていたとき、ぺたりぺたりと廊下を歩く音にうっすらと目を開ける。月明かりに照らされて真っ黒な人間が静かに廊下を横切ったことだけは分かった。誰と断定できるものはひとつもなかったけれど俺は頭のどこかで くんだろうか、しかしどこか幽霊を見たような気もする。
それからしばらくして、ハヤテの声と親戚一同の足音に飛び起きた。
14.朝顔の涙
ばあちゃんが死んだ。かわるがわるに心臓マッサージを施したが、治療も空しくばあちゃんの死亡は一族全員の見守る中で確認された。OZの所為なのか、寿命なのか、それはもうどっちだっていい。もうばあちゃんは戻ってこない。広い部屋で、皆ぼんやりと悲しみにくれた。
どんよりと縁側に座っていたら、ずぶずぶと悲しみの底に飲み込まれそうで立ち上がる。それでも一歩も踏み出す事ができず、腰に手をあてて力を抜いた。ざり、と誰かが土に降り立つ音がしてふと見やった。 くんだった。
誰もが俯いている中彼の姿を認めた者は俺とハヤテだけだ。ハヤテは鼻を鳴らしながら彼に近づき、 くんは少し身を屈めて耳をくすぐった。どこかへ行くようで、ハヤテと くんはまるで相棒のように連れ添って歩き出した。
俺はそれを少しだけ後から追いかける。
「綺麗だね、ハヤテ」
静かな声が朝露と一緒に垂れる。
朝顔の鉢ひとつひとつに丁寧に水をやっていた くんの後ろ姿があった。
静かに、静かに、水を上げ続ける背中は泣いているように見えた。
彼がばあちゃんと本当はどういう関係なのか、それはきっと一生分からないのだろう。ただ彼がばあちゃんの死を悼んでいることを感じた。
「さびしい……」
ぽつりと呟いた言葉は震えて、小さくて誰にも聞こえないくらいなのに距離を置いている俺の耳に届いた。悲痛な叫びのように思えたのだ。彼を支えてくれるものが何一つ、彼の手には無いような気がした。友達は居るのだろう、家族もきっといるのかもしれない、でも心の支えとなり涙を拭い悲しみを分けあってくれる存在は彼の傍に居ない。想像したら酷く落ち込みそうになる環境にいるのではないだろうか。
彼は泣いているのだろう。
そのときふと、ハヤテと目が合ってしまった。
俺にしっぽを振るハヤテにつられて、 くんがこちらに気がついて、あ、とお互い少しだけ口を開けて一度目線を外す。
「見ても、良いかな」
「どうぞ」
君の悲しい心を見ても良いだろうか、なんてことは口に出せなかったけれど。彼は朝顔の前に立ったまま手を少し広げた。
「ばあちゃんの為に泣いてくれてありがとう」
「……理一さんは泣かないんですか」
濡れた睫毛を見下ろしながらお礼を言うと、 くんはいつもより光を反射する潤んでキラキラした眸で俺を見上げた。
泣きたいとは思うけど、どうしても自制してしまう。泣いた後目が赤くなる事も、鼻水が引かないことも、睫毛がなかなか乾かないことも、分かっているからだ。そんな理由で泣かないでいる自分が馬鹿らしいと心のどこかで思った。素直に綺麗な滴を零している花を見たら尚更。
「友人の俺が泣いてるんだから、家族の理一さんが泣いても恥ずかしくなんかないですよ」
苦笑いで返事を濁した俺のシャツの裾をひっぱった くんはうっすらと笑った。何も言っていないのに、まるで俺の心を読んだような言葉。
「何年生きてても、大切な人の死は辛いから」
思わず顔を見下ろすと、あまり日に焼けていない、けれどパソコンを日々叩いているのであろう少し固い指先が俺の目前に迫って来た。ひんやりとした手に目隠しをされて、何も見えなくなる。
「見ないようにしますから」
子守唄の様に安心する声だった。
思わず肩を引き寄せて彼の後頭部をぐっと自分の方に押し付けた。見られたくない。そして、より近くに彼の声が聞こえるように。
柔らかい黒髪からは自分と同じシャンプーの香りがした。
「っ、……、……」
彼の未発達で薄い肩に顔を埋め、声を押し殺して少しだけ涙を流した。
ただただ、さびしかった。
2013-09-01