sakura-zensen
天降る春
02話
朦朧とした意識の中、視界に月が二つ。
一つは天高く輝く望月で、もう一つは胸の上で揺れる小さな望月───否、月の光を受けて輝く人の頭だった。
徐々に自分の意識が明確になっていくのに、靄がかかったようにわからないことは多すぎた。今の状況、頭の痛みや濡れた身体の理由、何より手放すまいとする月の存在。
「───……天女……、」
私は思わず、無意識に手を掴んだ白く輝く存在をそう呼んでいた。
はじめは、その人ならざる容姿に圧倒された。その次は私の手を掴み返して傍にいようとしたことに戸惑う。唯一のよすがと言ったのは、記憶を失う直前に共にいたからだろうと思っていたが、八方斎様から、彼女が天女であり私の妻だったことを言われて腑に落ちた。
引き離されたくないと無意識に渇望するのは、私が天女を手に入れたいという欲から来ているのではないかと。そう己の中では納得していたが、相手───は違った。
「まだ、受け止めきれなくて」
八方斎様の手前で言うことはなかったが、寝室で二人になった時はそう零す。並べられた布団を見れば、不安になるのも頷けた。
以前はどうだったかはわからないが、すぐに夫婦の営みをしようとは思っていない。そう言葉をかけようとした私はまた無意識にに手を伸ばしていた。
「、あの、……?」
触れたのは長い髪だった。
蝋燭の火に照らされている為やや赤みを帯びていると感じていたが、よく見れば髪色は白ではないことに気が付く。
指で掬い、絡めるように引き寄せ、肌に馴染ませるように擦った。
「───桜色?」
「!」
困った様子だったは、不思議な色合いの目を見開く。
わずかに笑った気がして、今度は私が驚いた。
「気味が悪くありませんか……?」
「いや。だが、目立つのはあまり良い事ではないな」
はどうやら周囲に狙われているようだと、八方斎様は言っていた。たしかにこの存在は手にしたくなる不思議な魅力を持っている。それを他者に奪われるなど、考えただけで胸のあたりに閊えを感じた。
夫婦とは思えない。しかし、私と引き離してくれるな───と、自身が望んだ。
今はそれで良いと思う。私自身もとどのように出会い、関係を結んだかを何一つ覚えていないのだ。
ただ、私も彼女と引き離されたくない。その思いが通じているのなら、もう一度夫婦となる時がくるはずだ。
それまではどうか、他者に奪われてくれるな。
月に、還ってくれるな。
朝、目を覚ました私は、隣で眠る姿を見て安堵した。
月ではなく太陽の光を浴びてもやはり眩しい頭に、手を這わせる。丸い頭の形と、滑らかな髪質を感じていると、寝返りを打つように身体は動き出した。
「……おはようございます」
振り返った途端に、緑色の瞳が私を見る。
「おはよう、起きていたのか」
「たった今です」
は無防備に身体を伸ばしながら捩り、掛け布団を蹴飛ばす。
「よく眠れましたか?記憶は?頭の痛みは?」
そして勢いよく身体を起こして、私の顔を覗き込んだ。
あいにくと頭はまだ腫れていたし、記憶は特に戻っていない。よく眠れたと言って良いかどうかも定かではない。口ごもりながら答える私に対して、は考え込むように自分の顎を撫でた。
そうしている間に私は布団を畳み、片づける。も気がそぞろではあったが、同じように身支度を整え始めた。
朝の訓練への参加を命じられた私は、身体が覚えていたのか難なく熟すことが出来た。
しかし不思議なことに、他の忍者たちは随分と水準が低いように感じられる。八方斎様の側近たちは別行動の為実力はしれないが、一般的な地位の忍者はこの程度なのだろうか。
だとすればあまりにも戦力に欠ける。
二日と経たずにそのことを指摘をするようになれば、訓練が終わるころには立っている者は私だけになっていた。
「あれ、今日は終わるの早いんじゃないですか?」
「───?」
三日目ですぐに音を上げて立てなくなった忍者たちへ、仕方なしにその日だけ早めに訓練を終わらせた後、訓練場から戻る所で声を掛けられて立ち止まる。
声の主に心当たりがあったので振り返ると、長い黒髪を携え、ドクタケ忍者たちと同じくサングラスをかけた少女の姿。
髪色が変わったくらいで見間違えはしないが、何故黒く染めたのか、そして何故部屋の外を歩き回っているのかに疑問を抱く。
「今日は厨のお手伝いを任されたんですよ」
私の疑問を察知したらしいは、手に持っていた籠をゆさぶって見せた。
恐らく背にしていた方向にある畑から、野菜などを収穫してきたのだろう。それを厨に持っていくのだと言われれば頷けた。
「私は一人で外に出るなど許した覚えはない」
「八方斎様が良いって」
「しかし」
「髪は染めて、顔はサングラスをかけていれば隠せるし、ドクタケ忍者の関係者だってわかるから、いいでしょう?───新鮮な野菜採ってきたので食べてくださいね」
はまるで私を言いくるめるように、視界いっぱいに野菜を押し付けた。
土や葉の匂いが鼻孔をくすぐる。
「医務室の整理を手伝うのは?」
「もう終わってしまいました」
手首を掴んで下げさせると、は肩をすくめて笑う。
対人関係や経歴の記憶がなくとも、忍者としての知識や技術が損なわれていなかった私と同様には医学や生活における知識が豊富だった。その為最初は室内に籠って事務の仕事や先ほど言ったとおり医務室の手伝いをしていたはずだが、どうやらもうやることがなくなったらしい。
「それに、外に出ないのはどうにも息が詰まってしまって」
「……」
私も、おそらく八方斎様も本当はを外に出したくはなかった。
しかし閉じ込めておいては心を病んでしまう可能性も考えて、八方斎様は詰所内では外に出ることをお許しになったのだろう。
それ以降、は昼間は女中たちに交じって仕事を手伝うことが増えた。時折医務室で怪我人の手当もすれば、病人の相談にも乗っている。薬草についても知識は豊富であり、場内につとめる医者も感心していた。
そうすることで、彼女はこの詰所内での信頼や羨望を集め始め、掛値なしに『天女のようだ』と言われることもあった。
一方で私も、忍者隊の下層で訓練していたところから、軍師という地位を与えられ戦術を考え領地を広げる機会を手に入れた。
八方斎様は夫婦揃っての恩返しに喜色を浮かべ、城主の竹高様も満足げに私たちを褒めた。
そうすることで、私たちはまだ共にいることが有用であると信じられるのだ。
───ある晩、いつもすぐに床についているは私が部屋に来た時にも起きていた。
その後ろ姿は、高窓から覗く月を眺めている。
月の形は下弦。私たちが記憶を失った晩が望月の夜であったから八日程が経ったということになる。これから徐々に月の形が失われて、夜は深く暗い闇へと包まれていくだろう。
「眠らないのか」
「……」
蝋燭も付けてない部屋の中で振り返ったの顔は、よく見えない。
だが私を見ていることだけは感じる。そう、月ではなく、私。
手を伸ばせばそっと頬が擦り寄ってきたので、耳に指をかけた。私がこうして触れるのを許すのはまだ地上にいて、私の手の中にあるという意思のように感じられて胸がすく。
「故郷はあるのか」
記憶はなくとも、故郷に思いをはせる感情が残っているかと問う。
はゆっくりと息を吸ったあとに、小さな声で呟いた。
「あると思います」
自分で聞いておきながら酷い後悔や不安に襲われる。
「でも、誰にでも故郷はあるんじゃないですか」
「私にはない。記憶が無くとも、どこかへ行きたいという感情がそもそも」
は首をかしげた拍子に、私の手から逃れた。
暗闇の中、宙を切るその手は行き場を失くし、膝の上に落ちる。
どこにも行きたいと思わないからこそ、唯一手にしていたを、放したくないのかもしれない。
「そう悲観しないで」
ふと、肩をひと撫でされた。その後は布団の上に寝転がる。
誘われるように私も自分の布団に横になり、うっすらと影だけで感じると向き合った。
「家族がいなくても、一人きりだったかはわかりません。帰る家くらいはあったかも」
声の聞こえ方からして、向き合っているのだろう。
の励ましともとれる言葉は、あまり私の胸には響かないどころか、自身を妻とも思っていない事実が透けて見えて、少し深いな気分になる。
「記憶が戻るまで一人にしません」
今私の心にいるのはお前ひとりだと言うのに、なんて酷い事を言うのだろう。
だというのに優しい声色は不思議と私の身体に熱を与えた。
「行きたい所が見つかったら、連れていってあげる」
仮に、行きたい所があるとすれば、それは月のように遠い国だ。
それでも連れて行ってくれるのだろうか。
言い返したいのに言い返せないまま、私は薬草の匂いの残る指先に頭を梳かれ、まどろみの中へと落ちていく。
夢の中では、赤ん坊の泣き声がした。
それから、揺らめく火の熱に目を焼かれそうになりながらさまよう。
破けた着物、壊れた家具、擲たれた武器を後目に、外へ出ると赤い花が目の前に広がる。
私は一人だった。空には月もなかった。それでも走るしかなかった。
「───き、……天鬼?」
「は、は……っ!」
声を頼りに縋りつくと、額に人の肌が触れた。
忘れていた呼吸を取り戻すかのように息をすると、やっと夢から逃れられる。
光に目が滲み、腕に閉じ込めた人間の形を感じ、呼ばれた名に理性を取り戻した。
ここは暗闇でも、一人でもなく、私は天鬼。そして私を救うのは妻の。
「ここのところ、よく魘されてます」
「……大事ない」
強く抱きしめていたらしいを離すと、身体が少しだけ冷える。それは自分が汗をかいていたからだと察する。
「いやな夢を見たなら、話してみては?」
「よく、覚えていないのだ」
「そう」
布団を片付けながら、が引き下がる気配を背に感じる。
彼女は私に記憶を取り戻すことを勧めていた。だが、私としては失った記憶はもうどうでもよかった。八方斎様は私を使ってくださり、が傍にいる。その生活だけで充分だからだ。
しかし、その暮らしは長く続くことはなかった。
敵である忍術学園の手の者が、ドクタケ領に侵入した日───は忽然と姿を消した。
その日のは八方斎様に我儘を言って町に出ていたのだそうだ。護衛も一人付けていたが、途中ではぐれてその者だけが無様に帰って来た。
後に調査してみれば、同じ年ごろくらいの少年たちと連れだって歩いて町を出て行ったのだそう。───おそらく忍術学園の者がを連れ去ったのだ。
すぐにでも取り返したいところだったが、八方斎様は私に身を隠すよう命じた。
は手荒な真似はされないだろうが、私たちがすぐに忍術学園へと攻め込むには戦力が足りない為、少しでも領地を広げて勢力を付ける必要があると。
致し方なく言う通りにして、と暮らしていた部屋を後にした。
チャミダレアミタケ領に面する砦の一つに出立する晩───それは奇しくも、月のない夜だった。
今回主人公は天女だと思われてるので魅了ぱぅわ~が増し増しです。
Jan.2025