sakura-zensen

天降る春

07話

赤ん坊の泣き声がした。
ぱちぱち、と燃える何かが弾ける火の音。
怒号に、うめき声、刀と刀がぶつかる音。

喉が焼けるような荒々しい息が、徐々に大きくなっていく。それは私の呼吸だった。
気づいた時に目に入ったのは白い布団。
血や煙などの匂いとは程遠い、明け方の空気を吸い込む。

また、冷や汗をかいていた。額をにじり、その後布団に手を押し付けて拭う。
少し前までは共に敷かれていたもう一組の布団はなく、私の不調を察知するとすぐにこちらを覗き込んでくる美しい緑をした瞳もない。

───。私の妻だといい渡されて信じた女。
その実、妻でも女でもないというのはすぐにわかった。
脱がせたわけでも、言わせたわけでもないが、触れた時に知った身体つきは女人にしては固く、骨は太かった。
最後の朝、悪夢にうなされて抱きしめた時にそれは決定的となった。
だが、妻でなくとも女でなくともよかった。
あの存在が私の手の中にあることが何より大事なことだった。
月に還ったでも、ひとり記憶を思い出して逃げたでもないのが、唯一の救いだ。───取り戻せば良いのだから。

しかし私が迎えに行かずとも、は再び私の前に現れた。
月が形を取り戻すように姿を見せ始めたころ、高窓に嵌まる格子越しに。
無性に、抱き寄せてこの胸にしまい込んでおきたくなる衝動のままに手を伸ばした。格子が身体に食い込むのも構わず強く絡めとる。
戸惑い身じろぎながらも、私の背を撫でるその手は布越しでも不思議と温かく、胸に打ち寄せる不快感をいつも消してしまう。

この手が、この温度が、この存在が、欲しいと強い渇望を抱いた。
天降る月を手に入れたいと思うのは身に余る欲だと知りながら、手の届く範囲にいれば伸ばさずにはいられないというもの。
「どこへも行くな」
願うように囁いた。だがは私をあやすように揺らす。
「大丈夫ですよ。あなたの帰る場所を見つけてきましたから」
「帰る場所……」
そんなものは、私の望みではないのに。
ないはずなのに、なぜ、に触れられる時のような安堵が胸を熱くするのだろう。

ふと、脳裏に浮かぶのは望月だった。
絹糸のように白く光る髪が夜空を踊り、落下していく。私はそれに手を伸ばした。───それが、おそらく渓流に落ちる直前の記憶だ。
私はやはり、記憶を失う前でも、これに手を伸ばさずにはいられなかった。
髪に指を絡めるのも、逃がしたくないからだ。

抱きしめていた腕を緩めて、後頭部を引き寄せる。目を隠すサングラスをどけて、もっと近づいた。
共に過ごす間、私が起きれば自分も起きるほどに気配に敏くありながら、私が触れるときは無防備でいることが、どれだけ心をかき乱すのか、知らしめたい。

だがそれは叶うことなく、背後から人の気配や足音がして、胸を押された。
勢いよく部屋に飛び込んできたのは八方斎様と、他の忍者たち。それから、縛られた三人の子供によって、私たちの逢瀬は終わった。

「このガキ共を斬れ、天鬼」
「……こんな子供を斬ると?」

八方斎様の言葉に一瞬躊躇う。忍者として非情にならねばならない時と場合はある。子供とて、斬る覚悟はもてる───だが、身体の中で拒絶反応のようなものが出た。
次第にその拒絶反応は、具体的な、胃の痛みに変貌する。
余りにも目の前の子供たちが頓珍漢な事をいうからか、一人がしきりに「帰ろう」と口にするからか。

私に、帰りたい場所などないはずだった。がもし私の故郷を見つけてきたのだとしても、そんなものは無意味だと言うほどに希望を失っていた。
むしろ、帰ると言う言葉を忌避すらしていたのに。

「半助!」
「土井先生~!」
「先生……帰ろう……」

どうしてこんな時に、胃が痛むのか。
視界とは裏腹に、勝手に誰かの顔が思い浮かぶのか。
私にはしかいないはずだったのに───様々な人が、私を呼ぶ。
の手の温かさよりも、この胃痛が懐かしいなんて……。

───「帰る場所を見つけてきましたから」
───ああ、私のことを、たくさんの人が待っていたのか。



記憶を思い出した私は、目の前のきり丸、乱太郎、しんべヱへ謝った。山田先生にも、駆け込んできた他のは組の生徒達にも、心配してくれていた利吉くんにも。そして怪我をさせちゃった六年生にもだ。
だが皆、私が帰ってくるならと、喜んでくれた。
帰る場所などないと思っていた時の自分が、嘘みたいに満たされる。
あとから飛び込んできたは組の皆の頭をかわるがわる撫でながら、この光景を心に刻んだ。

けれど、その中にの姿はない。
先ほど高窓の格子から覗き込んでいたはずだが、そこはもう六年生が飛び込んでくるのに壊され、ぽっかりと開いた穴から夜空と三日月しか見えなかった。
はどうした?」
「あ、さっきまで我々と窓の外にいたのですが」
私の彷徨う視線をうけてか、山田先生が口にする。答えたのは立花だったが、利吉くんが反応してこちらに寄って来た。
「そう言えば彼には礼を言わなければなりません」
「礼?」
「先ほど土井先生が子供たちに刀を振り上げた時、雑渡は先生を狙っていました。私もなんとか腕を掴めましたが、丁度彼が投げつけたサングラスが雑渡の顔に当たったので助太刀の礼を」
「ほう……」
山田親子が話しているのを私は黙って聞いていた。
───ということは、は今サングラスをしていないのだろう。髪は染めてあるが目は隠しようがない。まじまじと見られなければ気づかれないかもしれないが、しばらく顔を合わせていれば目につく程鮮やかな緑だ。
もしかしたらその所為で、姿を隠しているのかもしれない。この事態を収束させたら探しにいってやらなければと思った。



「なあ半助、はいったい何者なんだ」

天鬼としてドクタケ軍の前に立ち、戦の準備を解くと宣言した後、きり丸の発言によって降りだした大雨の中に隠れるよう、山田先生が声を落として私に問う。
記憶を思い出したからには、がどうして一緒に居たのかが分かるはずだと思ったようだけど、私にもよくわからない事だらけで首を振る。
「本当に一緒に川に落ちたのか?先に流れていたとか?」
「いえ、そうではありません」
山田先生につられて、私も声を落とした。
が現れたのは、私が崖を下っている最中だった。あの谷底へ落ちるには、ススキ野原以外から降りる方法はないだろう。だけど野原では直前まで私と尊奈門くんが果し合いをしていたので、野原に人は誰もいなかったはずだ。
つまり、本当に天から降ってきたかのように現れたのだ。
「───天女だと、思ったんです」
「……半助……」
やや呆れたような視線が私を襲う。
「あの子犬みたいに懐っこいのが好みなら、まあ文句は言わん。だが嫁に向いてるとは思えんぞ……案外食えない男だし……そうだそもそも男だ」
「違うんですっ!そう言う意味ではなく!」
「まあいい、天女だろうが子犬だろうが、素性がしれん男だが気に入ったなら拾ってこい」
「、」
思わず言葉に詰まる。
なんだか、自分が山田先生拾っていただいたことを少し思い出した。
私もそのようにして、を迎え入れてやれたら、どんなにうれしいだろう。
「記憶喪失なのかもわからん、忍びなのかもわからん。だが、あれは半助に恩と負い目があると言っていた」
「恩と、負い目?」
「私には何のことだかさっぱりわからなかったが、出会ったばかりのお前にそう感じて、結果こうなってるわけだから悪い奴ではなかろう」
「はい……きっと」
大雨の中で消えてしまいそうな小さな声だけど、決意は確かに頷いた。



程なくして雨は止んだ。朝には炊き出しを行うために、この日は砦内で各々隠れて待機することにしていたが、気づけば一年は組の皆がごっそりと姿を消していたことに気づいて慌てる。
だけど案外早くに見つかった。
遠くからかたまりになってこっちに駆け寄ってくる。
「お前たち、いったいどこに───」
小さい子供たちの中に一人背の高い人が居たのはすぐに目についた。
だ。しかも、黒髪ではなくて、桜色に輝く髪も、緑色の瞳もそのままにしている。

「あ、土井先生!さんを見つけましたよ」
「大雨で、ずぶぬれになってたんです」
「それで、髪の毛の色が抜けちゃったみたい」
「だから僕たち拭いてあげたんです」
「見てください、綺麗になりました」

山田親子や六年生、一部の五年生たちはの容姿に言葉を失った。
私だって初めて見るわけではないが、改めて見ても見惚れるほどの美しさだと認識した。
この姿を、人に見せたくなかったなんて、どこまでも身勝手な思いを自覚しながらも堪える。
「こりゃ、天女と見紛うのも無理はないな」
おずおずと近づいて来たを見て、山田先生は隣の私にだけ聞こえるように呟いた。そして、と目を合わせると「なるほど、目立つ」と苦笑した。
「驚かせてすみません、姿を見せないで行くつもりだったんですけど」
「え」
「何を寂しいことを。半助を取り戻すための尽力や、は組を一時的に保護してくれたこと、礼を言いたかったんだぞ」
「いえ、大したことはできでないです。それに、そちらの先生を怪我させたのは私の方で」
「怪我なんて!頭を打ったのも記憶を失ったのも私の不注意だ」
あわや泡沫のように消えゆくつもりでいたことに肝を冷やしていた私は、山田先生との会話の中に遅れて加わる。
「巻き込んでしまったのは私の方だ。ドクタケは記憶を失った私を利用するために、たまたま一緒にいただけの君を妻に仕立て上げて、いざという時は人質にしようとしていた」
「あ、そうだった……八方斎め、一発殴ってくればよかった」
一年は組をはじめ、周りにいた人たちはの言葉に賛成し、夜の闇の中、笑い声が響いた。
今はこんなに人がまわりにいるから、すぐに消えることはないよな……。
そういった不安を、なんとか胸にしまいこんだ。


サクラチャンの時の主人公の美しさ()って髪色と瞳が大いに作用していると思っている。とくにこの世界の人にはそう。
Jan.2025