sakura-zensen
天降る春、月夜のうら
04話
長屋のドブ掃除に一年は組の皆が付き合ってくれた休日。なんて良い生徒たちだろうとその幸運を噛みしめていた帰り道、山々の間に日が落ちていく光景さえも感動的に思えた。
学園の塀の横を賑やかな声と共に歩き、やがて門が見えてくる。すると、丁度誰かが外に出てきた。
───久々知兵助だ。
私たちが遠くからぞろぞろと歩いてくるのを見て、跳ねるようにこちらへ駆け寄ってくる。
「土井先生ー!は組の皆!」
私たちの帰りを待っていたかのような口ぶりで、私や生徒たちは少し驚き足を止める。
「いったいどうしたんだ、久々知。そんなに慌てて」
今にも学園に帰るところだというのに、それすらも待てない久々知の様子に疑問を抱いた。だが彼はぱっと口を開いて、信じられない言葉を発した。
「春野さんが」
久しく誰も口にしなかった名だ。
無意識に手に力がこもる。
「帰って来たんです」
そして、胸が締め付けられるように痛んだ。
見送った寂寥を思い出すよりも、ただ歓喜してしまった。
泣く泣く手放したあの晩、消えてしまったサクラをやはり引き留めれば良かったと何度も後悔した。だが、サクラがいつも月を見上げて帰る日を確認していたのを思うと、そんなことを考えることすら許されないと思い堪えた。
だというのに、
「サクラが……帰ってきた」
かみしめるべく、呟く。
は組の皆も驚きに絶叫して、一目散に学園に入っていく。
小松田君の入門票に次々サインをして、それから「春野さんはどこだー!」と周囲に散らばって行ったので私も後を追う。
「あ、まってください、それが」
「春野さんならもうお帰りになりましたよ」
久々知が何かを言おうとしているのを他所に、小松田君が引き継いだように口にする言葉は、まるで打ち水のように私たちを消沈させた。
「だから学園に帰ってきたんでしょう!?」
「いやそうじゃなくて、学園から帰ったんだよ」
「ええ〜!?」
「それはもうずいぶん前の話じゃないですか!」
「小松田さん……出門票にサインもらえなかったの、まだ言ってるんですか!?」
「僕たちてっきり、春野さんが忍術学園に帰って来たと思ったのに!!」
「ぬか喜びさせないでくださいよ、もう!」
は組の皆が小松田君を取り囲みそんな話をしているが、果たしてそんなことで久々知が私に大慌てで知らせに来るだろうか。
そう思い久々知の顔を見ると、顔を思い切り横に振って否定する。
「違うんです、春野さんは本当に帰って来て……ああそうじゃなくて忍術学園に来て、それでまた家に帰ってしまったんです!」
「なんだよかった───って、えぇ!?帰った!?どうして!!」
突然足元がなくなったかのような絶望を味わった。私が居ない間に来て、また消えたというなら、あまりにも短すぎる滞在だ。
一目逢いたかった。出来れば言葉を交わして、そして触れて───ああ、際限なく湧き出す欲望め。
「お前たち、少し遅かったな」
結局サクラはいないのかと気力が失われた私、そして生徒たちの前に山田先生が現れた。なぜか一緒に大木先生も来ておられ、「どうした、みんなしてへたり込んで」と生徒たちを立たせている。
「山田先生、少し遅かったということはもしや、サクラに」
「ああ、会ったぞ。元気そうだった」
「っぅ、はぁ~~……」
ため息だけでは留められない、何とも言えない声が出た。
どうしてこんな日に私はドブ掃除など……。先ほどまで暢気に幸せをかみしめていた自分が恨めしくなる。こんなことを考えるなど罰当たりなのに。
「まあそう落ち込むな、そのうちまた会うだろうさ」
「そうだぞ。今度うちの村でお前たちは農村体験の授業があるからな」
「大木先生、いったい何の話をしておられるんです?」
は組の子供たちは農村体験という言葉に首を傾げて意識がそれたが、サクラといったい何の関係があるのか。というかそもそも、大木先生はサクラと面識がないはずなのだが。
「お前たちの言う春野サクラは今、俺の家に住んでいるからだ!」
大木先生が勢いよく言い放った後、収拾を付けるのは大変だった。
生徒たちを落ち着かせるには、私自身に余裕がなかったからだ。
大木先生の家がある杭瀬村へ行こう勇み、山田先生に窘められる始末。すぐに我に返ったがそれでも落ち着かず、一年は組を長屋に帰すのは、ほとんど大木先生と久々知に任せてしまった。
夜になり、私と山田先生の部屋には大木先生が訪ねてきていた。
サクラと出会った経緯と、おそらくの素性───此処より西の方の、とある城に仕える忍者だったそうだ───を聞き、私は少なからず驚く。
それは、彼に追手がかかっていたことだ。
「あんなに帰りたがっていたのに……なぜ追われる身になったのでしょう?」
「それなんだが半助、……春野はどうも、本当に記憶喪失だったようだ」
「それに、記憶を失う前はかなり過酷な環境に身を置き、感情を抑え込まされていた可能性がある」
私の疑問には、山田先生と大木先生が推測を話した。
大木先生が保護した日の晩、追手はサクラを甚振り追い詰めた。崖から落とされて、ほとんど殺す気だったようだが彼は生き延びた。だが結局サクラは翌日の夜、また同じ場所へと向かった。
最初は決死の覚悟で出て行ったのかと思い、大木先生は助太刀する機会をうかがったそうだ。しかし結局、一人で片づけた。
その時の追手とサクラのやり取りで、大木先生は察した。
故郷では、その見目が奇異であることから鬼子と呼ばれ、忍者隊にはまるで飼われるように酷使されていたらしい。そして人格も、臆病で人の言いなりになると思われていた。
きっと、ずっと虐げられ、けして逆らえぬよう上下関係を叩きこまれ、命令には従うように躾けられたのだろう。───そう考えたら、私は知らず知らずのうちに、自分の膝を掴む手に力がこもっていた。
かつて、帰る場所があると信じていたひたむきな姿の裏に、恐ろしい実態が隠されていたのかもしれない。
「なんでも、任務を失敗して逃げていた所だったそうだ。その時にどういう訳か半助と共に渓流に落ちて記憶を失い、……あれはきっと抑制されていない、本来の姿だったのだろうよ」
山田先生は低い声で唸るように絞り出した。
あの望月の晩───私が穏やかで心安らぐ時間を失ったのとは逆で、サクラは壮絶で辛い時間を失ったのだ。
考えるのは、もし彼が生まれた時に、鬼だと誹る者がいなかったら。私みたいに見惚れる人間がいれば、きっと違う暮らしがあったはずだ。
「───"連中"は、何らかの合図を送って、をおびき寄せたんじゃないかと。それがあの月のない妙な晩だったのでは」
続く、大木先生の言葉にはっとする。
最後の日、月のない空を見て呟いたのは───「かえれる……」だった。幼い子供のように舌ったらずで、切なげで。
それが少しずつ思い出されていく記憶の中で植え付けられていただけの感情を、希望とはき違えていたのだとしたら。また抑えつけられるような日々に戻る兆候を、私は見逃した。
もしや、消える間際に振り返って私に謝ったのは、かつての記憶と私たちと過ごした記憶の狭間にいながら、自分の意志で去ると決めたからなのか。
それとも、私に助けを求めていただろうか───否、きっとそれはないだろうな。
「私は、帰すべきではなかったのですね。てっきり、故郷で愛されていて、故郷を愛しているものだと……」
「まあ、誰もそんなことはわからなかったさ。して、保護した時の春野は既に今の感じだったのか」
「崖から落ちた直後は随分混乱していたようでしたが、目を覚ましてからは今の通りですよ。きっと過去に打ち勝ったのだと思います。自分が鬼と呼ばれる心理を逆手にとって相手を脅していましたからな」
「なるほど。───半助、我々が知っている春野はやはり強いぞ。憐れむことも、お前が後悔する必要もあるまい」
「……はい、そうでしたね」
記憶が無い時分に私の帰る場所を見つけてきて、自分は恐ろしい故郷へと帰って、それでもやはり自分の生きる道をつかみ取る。敵わないなあ、といっそのこと笑えてしまって仕方がない。
あの人は、私がどう足掻こうとも好きに生き、美しく輝くのだろう。
翌日以降、私は授業があったのでさすがに杭瀬村へ行くことは叶わず、次の休みの日がきてようやく大木先生の家を訪ねられた。
「ん?ならいないぞ」
だが、いらっしゃったのは大木先生だけ。一緒に来た乱太郎ときり丸、しんべヱも顎が外れそうになるほど口を開いている。
「山を越えた向こうの村で産気づいた妊婦さんがいてな!昨日から出かけている」
「ああ~」
「そりゃ~」
「たいへんだ~」
「げ、元気な赤ちゃんが生まれることを祈ろう!お前たち!」
力が抜けてしまった三人を何とか立たせ、山の向こうを拝んだ。
「それよりお前たち、もうすぐうちの村に来る予定だったじゃないか。それをなんだって先んじてきたんだ?は組の他の連中も連れてこず」
「そりゃあ、私たちもそのつもりでいたんですよぉ?」
「でも土井先生が抜け駆けしてぇ」
「春野さんに会いに行こうとしているからぁ」
「そこについて来たというわけか」
「「「じと~~」」」
「うぅっ!だ、だって、農村体験に私は引率に来られないんだぞ!?そうしたらいつサクラに会えるんだ!」
私は必死で言い募る。三人は私が会いに来られないことを理解しながらも、口を尖らせた。理解はしても、気持ちがついて来ない、という話だろう。
「まあいい。そういえば、お前たち、いつまであいつのことを春野サクラって呼ぶんだ?」
大木先生が不意に私たちに投げかけ話題を変えた。
私はサクラ、三人は春野さんと呼び続けていたが、彼は今『』と名乗り生活していることは聞いている。
そして春野サクラというのが偽名なのは、前からわかっていた。おそらく、自分の容姿から連想して付けたのだろう。
「会ったら本人の口から聞こうと思ってるんです」
そこには、サクラと人として出逢いたいという想いがある。天女でもなく、ましてや鬼などでもなく。
大木先生は短く「そうか」と言って頷き、私たちに泊っていくかと聞いた。それはきっとサクラに会えるかもしれないとの配慮だったが、明日は授業がある為その提案は断って忍術学園へと戻った。
きっと近いうちに会える───。彼は月でも、遠くのどこか知らない城でもなく、同じ世界の続く道の先に在るのだからと、希望を抱いて。
重ための過去は事実だけど、記憶全部思い出して一気に心の容量がデカくなったのでわかりにくい。
別人とまで思わないけど、あまりに情緒が発達してなかったので客観視している部分もある。
Jan.2025