sakura-zensen
天降る春、月夜のうら
08話
やっと会えた土井先生は半子さんの姿だった。
脱出するのに丁度良かったので抱え上げて連れ出したのだが、まさかこんなところで俺と再会すると思わなかったようで、ぽかんとした顔で俺を見上げていた。おお、別嬪さんで。
「やっとあえた」
言いながらヘニャと顔がにやけたのを自覚した。
だってほんと、あまりにも会えなかったから。
土井先生はまだ思考が追い付いてないのか、抱えられた状態のまま、首に回していた手をゆるゆると動かし俺のサングラスを外す。
俺が俺である何よりの証拠はこの瞳なのかもしれないな、と顔を寄せた時、既視感が過る。……ああ、あの時は天鬼だった。俺に顔を近づけてきて、───もしかしてあれってあのままキスするところだったのでは。
そう思った時にはもう、俺の目の前には土井先生の顔があり、彼の唇によって口を塞がれていた。
戸惑ってもごもご声を出そうとしたのだが、全部阻むように吸われ、食まれ、声を出すのが億劫になる。
身を乗り出し、首に抱き着き、頭巾まで奪われるのも、されるがまま。でも身体を落とさないように強く抱きしめてしまう。
一瞬だけ唇が離れた時に、はふりと漏れ出た吐息が二人の間に漂い、熱っぽい目と目が合った。
鼻先が擦り合わさる距離で、少し動けばまた唇がくっついてしまいそう。無意識に俺は自分から顔を近づけて、ふに、と感触を確かめる程度の強さで押し返し、ちゅっと音を立てて離す。
あ……つい、俺もしちゃった。
戸惑って腕の力を緩めると、土井先生は地面に足をつく。だけど腕は俺にしがみついたまま。
「いやだ───はなさないでくれ」
耳元でそう囁かれて、びくりと身体が跳ねた。
降参するかのように手を開いていたので、言われるがままに背中に手を回し直す。
すると再び俺の唇に熱が重なって、ちゅうちゅう音を立てて吸われた。
甘えるような、縋るようないじらしさに、応えずにはいられなくて、どこか必死に吸い付いてくるその唇をあやすように甘噛み、上唇を舐め上げる。
その拍子に少し口が開いたから、土井先生は反射的に自分の舌でその隙間を濡らしてこじ開けた。次はどんな風に触れよう───、互いにそんなことばかり考えていたはずだ。
だけどそこに、人の気配が複数近づいてくるのに気が付く。
土井先生も俺もすぐ身体を離した。そのとき一言、約束をとりつけて。
「「「土井先生~!!さぁん!!」」」
相手が山田先生と乱太郎ときり丸しんべヱであったことで、さっきまでのおかしな雰囲気は霧散する。……顔、赤くなってないかだけが気掛かりだけど。
「よかったあ、無事逃げられてる」
「ここにいたんすねー!」
「大丈夫でしたか?」
子供たちは一目散に土井先生にかけより、山田先生は少しゆっくりとした足取りで近づいてくる。
「利吉がおそらくこちらだろうと言っていたが、上手いことやったか」
土井先生は子供たちの頭をかわるがわる撫でており、その顔はすっかり先生の顔に戻っていた。……俺も今は仕事に戻ろうと山田先生に向き合う。
「ええ。その利吉君は?」
「仕事に戻った」
「では私もそのようにしますね」
「助太刀感謝する───ああ、待て」
背を向けて何歩か歩いたところで引き留められ、振り返る。
なんだろ、と足踏みをしていると、
「紅がついてるぞ」
「え、うそ」
そう言われて思わず口を覆った。
半子さんの紅が、と土井先生の顔も見る。が、真っ赤な顔して固まってる彼は紅をさしていなかった。
「ああ、うそだ」
山田先生はそう言って俺に背を向けて、手をひらひらと振る。
……子供たち三人に意味がわかってないのが幸いだ。
利吉君と合流した時に、ようやく土井先生と会えたってことを指摘されると、少し返答に困った。この親子揃いも揃って……と思ったが、お互い一緒に仕事をしている身なので関心があるのは変な事ではない。
ただこっちが勝手に後ろめたさを感じただけである。
仕事中にあんな……あんな……。後になって恥ずかしくなってきた。
「ご心配ありがとう」
「とはいえ、一瞬だったので積もる話はできなかったんじゃないか?」
「うん……」
俺はさりげなく利吉君から目を離した。まるで遠くにいる人に思いをはせているように見せたが、ただ単純に顔を見られたくないだけである。
「今晩、逢いに行くと言っておいた」
「忍術学園に?」
「いや───」
それきり言葉を飲み込むのを、利吉君はさすがに聞いてはこなかった。
依頼内容は、とある城主より「ドクタケに奪われた巻物を奪還してほしい」というもので、利吉君が騒ぎに乗じてそれをこなした。
その巻物には秘薬の作り方が書かれているのだが、秘薬というのが空を飛べるようになる薬らしい。しかしこれは結局強力な下剤だったということまで突きとめたので、俺たちの仕事は完了。利吉君は巻物をもって城主の元へ行く際に、良い報告が出来ると笑って去って行った。
俺はしばらくドクタケが慌ただしいのを身を潜めて眺めていたが、いい加減帰ろうかと思い立つ。
座っていた、背の高い樹の細い枝の上からゆらりと身体を倒して、回転しながら下の太い枝に降りると近くで気配がして動きを止めた。
この、思わせぶりに視線を寄越して来るのは───「タソガレドキの」と思い当たる名前を呟く。
案の定わざと俺に気配と気づかせたであろう人物は、静かに俺の前に姿を現した。
顔を奇妙な絵の描かれた紙で隠す忍者で、俺に組頭から書状を預かって来たと文を渡して来る。目の前で開いて読むと書かれた内容に思わず感嘆の声が出る。
「滅びた───ツキヨが」
「先達て、隣接するサク城に攻め込まれ、ツキヨ城城主竹取定月公は捕らえられたのち斬首、嫡子は、───して───となり……村は……───」
つらつらと語られる、兄上そして故郷の最期をほとんど聞き流していた。
だが、不思議と人生を強く思いおこすのだから、郷愁というものはあったのだろう。
「教えてくれてありがとうございます。雑渡さんは満足していただけたかな?」
だがその哀愁は見せずに、遣いの忍びに問いかける。
鬼という戦力を持ったツキヨは最後、ただ鬼と呼ばれる乱暴な城主が退治をされたという物語として終わったのだから、雑渡さんが俺を見逃した甲斐もあったというものだろう。俺自身は未だに脅威と言えば脅威だろうが、戻って国を興すにはかなりの手間を要すし、俺にその意思はないと分かってもらえただろう。
問いかけに対しては何も答えはもらえなかったが、その沈黙を肯定と見なして手を振ると、彼は静かに一礼して後ずさる。やがて薄闇の中に姿も気配もかき消した。
一人になり、日が暮れて徐々に夜が来るにつれて、反対に月は明るくその姿を見せ始める。
俺は、無性に駆けだしたい衝動にかられていた。
故郷が滅びたと聞いて否応なしに思い起こされた、かつての自分の記憶がより鮮明になった今、一つだけ分かったことがある。
いつぞや雑渡さんにも同じようなことを問われた。彼は俺がいつ記憶を思い出したのかまではわからないだろうから誤魔化したが、木の葉にいたころ、それから、かつてこの世で天女と呼ばれて大切にしてもらった記憶を思い出すよりも前に───どうして俺は城から逃げる意思を持ったのか。
ツキヨ城に居た当時、牢のような部屋から見える月だけは美しかった。
心が動かず何も変わらぬ毎日で、月の満ち欠けだけが日々の変化だった。
だけどある望月の晩、俺は衝動を抱いたのだ。月にはそう言う力がある。
誰かに会いたいとか、希望があるとか、逃げたいとか、そんな明確なものではなかったが、一番強い感情は未練だったのではないかと思う。
それこそが俺にすべてを捨てさせ、後に記憶を思い起こさせた───そしてその未練の正体が何だったのか、あの時点ではまだ本当に定まってはいなかったが、今となってはこれしかないと言ってしまえる。
「土井先生」
まばらに開花したススキが揺れる、野原に立つ後姿に呼び掛けた。
彼が振り返るよりも前に、背後からその身体に両腕を伸ばす。
「サクラ……」
抱き着いた俺の腕をなぞる土井先生は少しも驚かない。
肩ごしにやっと顔を合わせて「だよ」と改めて名前を告げると、優しい声色が俺の名を呼び直す。
「……私は、先生じゃないんだが」
「半助?」
ここで土井さんと呼ぶほど俺は野暮ではないので、顎を肩に乗せて呼びかける。
天鬼のことは天鬼だったしな。
「ここを待ち合わせの場所にしたのは、どうしてだ?」
腕を緩めた後、大きな岩に寄りかかるように二人並んで腰掛ける。
ここは初めて俺たちが出逢った場所でもあり、別れた場所でもあった。忍術学園に夜遅くに訪ねるのも迷惑だろう。そしてその忍術学園から少しの距離であるここはうってつけの場所だと思ったのだが。
「一番の理由は、やり直したかったからかな」
「やり直し……?」
「半助が俺を引き留めたいと思ってくれてたこと、堪えた姿を覚えてるから。ちゃんとここに帰って来たかった」
言いながら、半助が自分の手首を握るその手に触れた。
俺がそうするとすぐに解いて、指を絡めてくる。
この手つきはそういえば、天鬼がよく俺の手や身体や髪を掴むのと似ているなと思ったが、『土井先生』だったころはきっとあえてそうしないようにしていただろう。
天鬼が俺を求めるのは、記憶を失って唯一手の中にあるのが俺だったからだと思っていたけど、誤解していた。───ずっと、俺自身のことを求めてくれていたのだなと。
「ありがとう。でも私は今後もを引き留めたりはしないから、そんな風に思わなくても良いんだ」
「え?」
思わず聞き返す。俺の指をするすると撫でつつも、すぐに解ける程に優しい手つきはそのせいだろうか。
「お前には好きな場所で好きに生きてほしい───私はそれを追いかけて、傍にいる」
最早俺の心の故郷も身体の故郷もないに等しいが、半助はきっと今俺が生きている環境のことも言っているのだろう。雅さんの村で暮らし、忍者をしたり、医者をしたり、農家をやったりしていること全部を尊重してくれていた。
相変わらず心が広いと思うが。
「い、良いの?それで」
「が私に聞くことではないだろう、むしろが私に嫌だと言う方で……ああ、言われたら困るんだが……駄目か?」
健気なんだか押しが強いんだかわからんな。
半助もそれを自覚しているのかいないのか、困った顔を崩さない。引く気がないらしいことは分かった。
以前は俺に帰る場所として選んでほしいと言ってた半助は、どんな心境の変化があったのか、自ら俺を追う方に意志を変えたらしい。そういえば───はなさないでくれ、とも言っていたなと思い出す。
あれはかなりの口説き文句だと思ってたし、事実俺はそんな半助に絆されたので、こんな形になるのも然もありなん。
「いいよ、一生俺についてきな」
今度は俺が、半助にプロポーズする番だった。
Jan.2025