sakura-zensen

春の蕾

08話
信ちゃんがおじいちゃんと二人で話をしているのを、部屋の外で待っていた。

稲荷崎高校への進学にあたって、北の家に住む許可はあっさりと下りた。それは綾小路でも、北の家でもほとんど同じ温度感で。けれど長期的に子供を預かるということで、北のお父さんとお母さん、そして信ちゃんがある日綾小路の家に挨拶に来た。
俺が世話になる立場なので、普通逆ではないか。そう思いつつも、俺の育った家を見る、そして遠出のできないおじいちゃんに会う、といった理由があるらしかった。

顔合わせは滞りなく済んだけれど、おじいちゃんは信ちゃんに話があると言って部屋に残した。
大人たちはなにやら分かったような顔で、一足先に居間でお茶でも……と話しているではないか。なんでだ。
俺もお茶に誘われていたが、話が終わった後の信ちゃんを案内すると言って、廊下で待つことにした。

「そう言えば今日、お兄さんは?」

ものの五分で部屋を出てきた信ちゃんは、拍子抜けしていた俺にそう問う。
何の話をしていたのかと聞く暇もない。いや、わざわざ残したのだから、聞くのはマナー違反だけれど。
信ちゃんが文麿くんの不在を聞くのは、今日顔合わせの場にはいなかったからだろう。信ちゃんが来ると文麿くんはジイと見つめてくるのでよく会う気がしているだろうが、彼は多忙な警察官である。
仕事で不在だと言えば、ようやく彼の職業を思いだしたように頷いた。


ちなみに本日の彼は、「お嫁さんにはまだならんといてください」と言い残して出勤していきました。
これ、いつから結婚前の顔合わせに……?




俺と信ちゃんが居間でお茶をしている大人たちの元へいくと、今度は大人だけで色々と話すことがあるからといって俺たち二人して外に放り出された。遊んで来いとのことだ。
外で駆け回る歳でもないけど、その扱いには慣れたので言う通りにして家を出る。
近くにお寺さんがたくさんあって、見るには困らない街だけれど、俺も信ちゃんも小さい頃から歩き倒してるので新鮮味はほとんど無かった。
まあ、新鮮なものを求めているわけでもないので、散歩をするのも苦ではないけれど。

すっかり秋めいて、紅く色づく木々の葉を見上げた信ちゃんの横顔を眺める。
以前会った時は夏の大会だったけれど、季節が移ろうのはあっという間だとしみじみ思う。
歩きながら話したのは、受験の進捗はどうとか、風邪ひかないようにとか、あたりさわりない話題。信ちゃんと俺の間にそんな心配事が浮上することはこれまでになかったけれど、どういう風の吹き回しだろう。
と思いつつも、いちいち上げ足をとるでもなく、俺は返答した。

「───じいちゃん、言うてはったで」
「え?」
が結婚するまでは死ねんて」

脈絡があったのかなかったのかわからない。なぜなら直前の会話の内容が吹き飛んだからだ。
まさか、二人で話したのって、ソレ……?
信ちゃんは、落ちた紅葉を拾い上げ、葉柄をつまんでくるくると回している。

「ばあちゃんも、今から俺たちの結婚式楽しみにしとんねん」
「気……気が早~……」

続く言葉に震えた。じいちゃんばあちゃんって、そうなんだよなって。
信ちゃんの伏せていた瞼が、ゆっくりと折りたたまれて開く。そして紅葉越しに、少し動物みたいな目が俺を射抜いた。
なにか責めるような、探るような目つきに思えた。失言をしただろうか、と戸惑ったほど。思わず「し、信介?」と狼狽えた声を出す。

が誰かと結婚するん、想像できん」

言ってることはおかしなことではない、と思う。だけどそこに含まれる意図がわからずに困惑した。
信ちゃんは、ゆっくりと俺との距離を詰める。
涼しい風が吹いて、紅葉が信ちゃんの指から抜けて飛んでいった。それを視界の端に捉えながらも、信ちゃんの眼差しから目を逸らすことができなかった。

「俺もまだ想像ついとらんけど」
「え」

ふいに目をそらされたことで、俺の金縛りは解けた。
そのまま信ちゃんは歩き出す。俺の足は追いつくが、頭は追いついていなかった。今のやりとりは、いったい、なんだったのか。

「昔、おばさんがゆうてたの、ええなあって思てた。せやけど、それが叶うことないんはわかっとった」

信ちゃんが言ってるのは昔、大人たちが冗談のように零した、俺と信ちゃんを「お婿さんとお嫁さんみたい」と例えた言葉だろう。本来なら忘れるような些細な出来事だったが、妙に覚えている。
文麿くんがずっと根に持っているから、というだけではなく。
信ちゃんが前向きな言葉を返したからかも。

「俺、女の子みたいだったもんね」
「俺が結婚したい思たは、やろ」

夢物語じみたことを泡沫のように消そうとしたのを、信ちゃんは決定的な言葉にした。だけど、それ以上の言及はない。

「俺達はまだ、これから高校生になるだけや。それから三年間は勉強して、バレー部入って、───卒業したら、俺との進路はまた別れる。俺は俺の、の人生がある」

信ちゃんはちゃんと今の俺達を見ている。
結婚だとか夫婦という関係性の名前ではなく、信介とという人間のこれからの未来を考えようとして、まだ考えられずにいる。だって人生はまだ長い。
言葉にするにも、何かを決めるにも、俺たちはまだ早かった。

「俺が何をしてても、が何をしててもそれは当人の問題やし、好きにしたらええと思う。それをが一番わかっとる───せやから、そんなが俺と同じ高校選んだって聞いて、嬉しかったんや」

……何を言うかと思えば、そんなことか。
頭ではそう片づけながらも、身体の中心に熱が灯って胸を這い上がる。頬にその色を映してしまいそう。
でも隠すこともできず、ちょっと誤魔化すために笑った。

「信ちゃん、そういうの嫌いそうなのに?」
「誰かがおるのを理由だけに、進路決めるんは嫌いやな」
「ズバっと言うなあ」
「せやけど、はちゃうやろ」
「まあそうなんだけど」

言いながら、信ちゃんの手を掴んだ。
着物姿で歩くときでも、急かしてるんでも、疲れてるんでもなく、寂しくて甘えてるんでもない。
ただ立ち止まったまま繋ぐ手は、今までのどんな触り方よりも切なかった。
ほどけないように指を絡めて、それでももどかしいとさえ感じる。

信ちゃんの言う通り、俺は高校を選ぶのに妥協したわけではないけれど、稲荷崎にしたのは信ちゃんがいるからだった。
選ぶ理由にするくらいには、信ちゃんは俺の人生にいて当たり前の存在といっていいだろう。
改めてそんな自分の心の動きを振り返るのとか、人に言われて関係性を決めるのとか、そういうのは俺達二人には重い枷になりそうだけれど、信ちゃんが不確かで広い未来を前にして少し寂しそうにしているような気がして、留めたくなってしまった。

「この手が振りほどかれない限り、俺、信ちゃんと一緒にいる自信ある」

信ちゃんの目が大きく見開かれた。ぱち、と。
繋いだ手を軽く引き寄せると、軽くよろめきながら近づいてきた信ちゃんの肩が俺にぶつかった。
それから小さな声が聞こえる。

「俺が、の手ふりほどくわけないやろ」





紅葉から雪の季節を経て桜のつぼみが見られる頃、俺は京都の綾小路家を出て兵庫の北家に移り住んだ。

「おばーあちゃん、元気してた?」
くんよう来たねえ、元気やったよ~。合格おめでとうなあ」
「ありがとう」
おばあちゃんはうんしょ、うんしょ、と玄関から出て来て俺を迎えた。
ちっちゃくなった気がするが、俺もでかくなったんだろうな。
「大きくなったなあ〜信ちゃんとどっちが大きいんやろ」
「俺じゃない?」
「いや俺のが大きいやろ」
はわーと見上げるおばあちゃんの前で、俺と信ちゃんは背比べをした。
目線ほぼおんなじだし、わからないな。身体測定での結果まちだな。まあその頃になったらこんな話したのも忘れていそうな気もするけど。
「制服っていつ届くん。俺15日って聞いとるけど」
「俺もその辺の日だった。でも京都の家に届くからさ、入学式の前に取りに帰る」
「そうなん」
「送ってもらおうかなーと思ったけど、一度向こうで着て見せんの」
「じいちゃん喜びそうやな」
「ん」
とたとた、と廊下を歩きながら荷物の届いてる部屋へ向かう。
いつも泊まるときは信ちゃんの部屋だったけど、移住となるとまた違うわけで、多分居間の隣の空いてる部屋かなーという予想に反して信ちゃんは階段を上がっていく。

「───信ちゃんと俺、一緒の部屋?」
「え」

上は信ちゃんのお父さんお母さんの寝室と、信ちゃんの部屋とトイレだったはず。
問いかけると、信ちゃんは階段の途中で振り向いて止まる。

「い、や……、隣の部屋、あけた」
「そうなんか、悪いねえ」
「お、同じ部屋はまだ、……早いやろ」
「! そ、そう言う意味じゃ……ない」

ぎこちなく背を向けた信ちゃんを、俺もぎこちなく追いかける。
今まで泊まるときに寝るのは信ちゃんの部屋だったから、まさかって思って確認しただけだし……。



信ちゃんの部屋と隣の部屋は襖で繋がっていて、廊下を出なくても、互いの部屋には出入りが出来る。今は襖二枚分が開けられて、両側に退けられた状態になっていた。

「部屋片付くまでは、こっちの部屋で寝たら、ええよ」
「ウン……」

なんだろう、そんなのいつものことなのに、ドキドキしてしまうのは。
まあ正直、荷ほどきなんて一日で終わるんだけどな。

信ちゃんの部屋の窓から下を見ると、おばあちゃんが干しておいてくれてる俺の布団らしいものが見える。
腰高窓の桟に座り、ガラスを開けて胸程まの高さの柵に肘をついた。
遠くに広がる山並みのシルエット、ローカル線の小高くなった線路、それから広い田んぼ。この家の、この部屋に来るたびに見ていたのどかな景色がこれから、自分の部屋からも見られるのだと思うと、新しい生活に胸がいきいきするのを感じる。

「ああ───明日からまた、こっからが見えるんやな」

そんな俺をよそに、信ちゃんが頭の横にある壁に手をついた。少し身を乗り出して見下ろしているのは家の庭だ。
一瞬何のことだかわからず、その横顔を見つめる。

「夏、泊まっとった時、あすこおったやろ」
「見とったんかい」
「うん、見とった」

多分庭で運動してた時のことなんだけど、そんな何年も前のことを急に言われるとドキッとする。しかも今後、また見られるということになる。
俺はやや照れ臭くなりながら、信ちゃんがそっと離れたのを見送り、また庭の風景を見下ろした。

信ちゃんの目に俺はどんなふうに映っていただろう、と気になった。




荷物をあらかた片付けてから、日が暮れる前に布団を運び入れる。
俺は敷布団、信ちゃんは後ろから掛け布団を持って階段を上がった。

「なあ、部屋片付いたけど……今日は一緒に寝ていい?信介」

自分の部屋に入るか、信ちゃん───基、信介の部屋に入るか考えて、布団を持ったまま振り向く。
同じように布団を持ってた信介は目を丸めて、その顔のまんまで頷いた。
呼び方を変えたのも、同じ部屋で眠るのも、特に理由もなくだから、なんでと聞かれると困るんだけど、尋ねられることはなかった。

「なら明日、朝起こしてくれん?」

ただ、妙な提案をされて、不思議に思う。
いつもそれぞれ早起きだ。どちらかが起きて身支度を整えて、その間にどちらかが目を覚ますという感じだった。部屋から居なくなった後でも、結局早い時間に起きてきてたし、寝坊とかとは無縁のはずだけど。

「いいけど、俺が早く起きなくても怒んないでよ」
「怒らんし、いつも早いやん」
「俺はな、年に数回だけ、寝坊する日がある……それが明日かも」

半ば脅すような予防線を張ったけれど、信介はそれならそれでいい、見てみたいと言って笑った。
明日の朝の、妙な楽しみが増えた。

進展はじわっとだけど、同棲()オメデト
Mar 2025