sakura-zensen

春の蕾

19話
春高の決勝戦、あと一歩のところでボールが取れなかった。
床が急に滑って、踏ん張れなくて、身体が前に出なくて。手がちぎれそうなくらい伸ばしてみたけど、ダメだった。
そのせいで顔面で床に着地して、鼻がじんじん痛む。同時に涙腺が刺激されて涙が滲む。
床に弾かれて転がったボールが、ぼやけて見えた。

「とれなかった、ごめんなあ」

鼻血が出ないか心配して、鼻の付け根をおさえながら言うと、アランがぶわっと泣き出した。謝るなと怒られ、ド突かれたと思ったら、ハグだった。
身体の内側はあついのに、互いに汗で濡れた肌は一瞬ひやっとつめたく感じる。

「春野にはえらい無理させたし、汗かなんかで滑ったんやろ」
「はいぃ」

三年生にも背中や肩、頭をわしわし撫でられながら、真っ赤であろう鼻を今度はぐっとつまむ。多分鼻血は出てないはず。
今度は汗だくで茫然としてる一年生の顔が目に入り、指をはなした。

「おつかれさん」

一年生は、負けをどう表現したらいいかわからない顔してたから、とにかく励ましたかった。三年生は最後だし、二年だから悔しくないてわけでもないし、一年だって同じこと。
とはいえ、悲しみに暮れる暇はなく、対戦相手と挨拶するためにネット越しに向き合う。
握手をするとき、自分の前に立っていた選手が「来年、またやりたいです」と言ってくれたんだけど「え?ぁんがと……」という変な返事しかできなかった。
ひょろりと背の高い子で、最後何度も彼のクセのあるスパイクを拾うために苦労したっけ。
ほかにも何人かが握手しに来てくれたし、また来年と当たり前みたいに言われたが、チームメイトのところへ行ったりと大忙しだったので、上手く返すことはできなかった。
まあ、わざわざ追いかけてもうバレーを辞めるだなんて言うこともなかろう。


稲荷崎は強豪校で全国大会にも常連ということで、これまでも試合後はやたらとインタビューされていた。そしてやっぱり、この試合の後もインタビュアーが会場の外で待ち構えていた。
ニュースにでたり、スポーツ応援系の番組で特集されたり、雑誌とか新聞にも載ったりするだろう。
誰がどのメディアの人かわからないが、呼ばれるがままにふらふらついてく。腕章やスタッフ証みれば身元わかるけどさ。

俺にやや興奮気味で駆け寄って来たのは、若い男性のインタビュアーだった。
何度か話したことある。なんなら、この前の試合に勝った時も、一番に来てくれたはず。
そう思ってつい慣れた感じに話してしまう。

まず試合への労いや、褒められたことにお礼を言った。負けたことに関しては相手チームへの賞賛。そして、次の目標や自分の反省点を聞かれるのがセオリーだった。
きっと彼は来年のインターハイでは優勝するとか、もっとチームに貢献したい、というようなことを想像してるんじゃないだろうか。
しかし、さすがにここで嘘の目標を言うのも変だったので、真実を言った。───二年生いっぱいで部活動は引退し、来年は受験勉強に専念したいと。
お兄さんは俺の突然の回答にびっくりしたらしく、大学では続けないのかと聞いてくるがやらないと答えた。そして、バレーボールをやっていての感想を、絞り出すように尋ねてきた。
わあ、すごい。急な引退宣言にもかかわらず、話を広げてくれるんだ。
逆に俺は、感想なんて考えてもみなかったので一瞬言葉に詰まる。

俺にとってバレーは、信介ありきで始めたものだ。生半可な気持ちでやっていたわけではないが、試合だとか勝利だとか、自分がどんな事が出来るかというよりも、信介や仲間とやるのが『バレー』だった。
もちろん強豪校のレギュラーに選ばれて、全国大会で優勝を目指して戦うというのは、意気込む理由にもなるけれど、バレーをやっていての感想を聞かれたら、やっぱり皆と過ごした、ただの毎日が思い浮かぶ。

「楽しい毎日でした、───ありがとう」

お兄さんは俺の短い感想に一瞬、ポカンとしていた。
しかし俺のお礼につられるようにしてお礼を返してくれた。
それを勝手にインタビュー終了の合図ということにして、カメラと撮影者、そしてお兄さんにも会釈して去った。



兵庫に帰ってから、生活が少しずつ変わった。
朝練のための早起きは、普通の早起きにかわり、一人だけでランニングをしてから登校する。放課後は図書館や自習室で勉強しながら信介が部活終わるのを待ってたり、先に帰ったりと様々だ。

そんな生活を続けるとすぐに三年生になる。
ある日、監督から部活に来てくれと声をかけられたので、久しぶりに体育館へ行った。
引退は三年生の先輩とともに盛大に送り出されたので、さすがにもうサプライズはないだろうと思っていたが、なんと別のサプライズが待っていた。
新しいレギュラーメンバーにユニフォーム渡す係に任命されたのだ。
そんな大役を仰せつかっていいのだろうか、と思いつつ監督とコーチの間でスタンバイしていた俺は、1番で呼ばれた信介と監督と、ユニフォームを見比べた。

───信介が、1番。

これまで一度も公式試合に出なかった信介が、初めてとった番号が、1番。
得も言われぬ感動が胸に打ち寄せる。
正直、自分がレギュラージャージもらった時より断然嬉しい。でも、多分それだけじゃない何かがあって、それを理解するまでは、この瞬間には至らない。

監督の発表する声はいつも通りで、信介も普通に返事をして歩いてくる。
でも、表情はぽやんとしている。あ、これは驚いてる顔だ。

「信介、おめでとお」
「うん」

小さい声で返事をした信介は、そのまま集団のところに戻り床に座り───突然、ぼろぼろと大粒の涙をこぼした。

次は大耳の名が呼ばれている。でも、コーチが俺に渡そうとする2番のユニフォームを受け取らず、歩いてくる大耳の横を通って、信介に抱き着いた。
下級生たちは普段隙のない信介の涙と、俺の突然の行動に驚きビクッとしているけど、そんなの無視だ。
信介の膝に跨って座り、泣き顔を隠すように肩に頭を押し付けて隠した。

「くぉら、春野! イチャイチャさすために呼んだんちゃうぞ!」
「さしてくださぁい!!!」

俺は信介の頭を抱いたまま、監督に言い返す。
信介は注目を浴びてしまったのが恥ずかしいのか、俺の背中に回っていた腕が緩む。そして「あとでな」と言われたので仕方なく離れ、すごすごと元の定位置にもどった。

2番のユニフォームをコーチから受け取り、大耳を改めて向き合う。
大耳は俺と信介の仲が良いことを知っているので、笑っている。

は信介ばっかりやなあ」
「ごめんごめん。大耳、2番おめでと」
「おお、ありがとな」

さすがにいい加減な渡し方はしたくないので、気を取り直して激励しながらユニフォームを渡す。その後も、レギュラーメンバーを順に鼓舞するのが俺の役目となり、アランや赤木のこともバシバシと腕を叩いて応援した。
実際に試合の時にこうやって送り出すことができないだろうから、今のうちにだ。
下級生たちも、みんな毎日一緒に鍛えてきた頑張り屋さんだったので、わしわし撫でてやることにする。宮兄弟だけは調子乗ってハグ待機の姿勢だったので、それは無視した。



せっかくだから、今日は信介の部活が終わるのを待って一緒に帰ろうと、体育館の上に行こうとした。
そしたら監督に呼ばれ、こいこいと手招きをされたので自然な動作で並んだパイプ椅子の隣に腰を下ろす。
今はゲーム形式にしていて、部員は俺と監督の前で接戦を繰り広げていた。
───こうしていると、試合中に呼ばれて、出るまでの間一緒に観戦するときのことを思い出す。束の間の既視感だ。
まだ懐かしいとまでは思えないけれど、何気ないこんなシチュエーションさえ、きっともうないのだろうと思うと、……せつないな、青春って。

「どや、勉強ははかどっとるか」
「それはもお。部活がないと暇で暇で、勉強しかやることがのおて」
「ンなアホな。お前がじっとしてられるわけないやろ」
「あは。気晴らしに走ったりはしてますよ」

俺が受験勉強のために退部したいと相談した時、監督もコーチもかなり動揺した。
チームに必要だと、そして才能があるから、それを伸ばせばいいところまで行けると言ってくれた。せめて来年度のIHまで、と引き留められた。
でも俺は医者になると決めていたし、予備校に通うつもりはなかったので引退の意志は覆さなかった。
監督とコーチはその受験の過酷さを理解して、俺を応援してくれた。バレーを選ばなかった俺に、一緒に練習してきた仲間へユニフォームを渡す大役も任せてくれた。そんな優しさや粋な計らいをしてくれる、"俺達"をよく見てくれる大人の存在というのは、とても貴重だと知っている。

「春高の最後インタビュー受けたやろ、あれな、テレビ局の人が映像送ってくれたわ」

ふいに出てきたインタビューの話題に、俺はぎょえっと変な声を出した。
咄嗟に抹消を頼んだが、笑って拒否される。
一部は放送されていたんだから恥ずかしがることはない、と言われた。そうは言っても、実際放送されたシーンは相手選手についての感想であって、かなり当たり障りのない言葉たちだ。
それ以外に話したことと言えば、次回への意気込みを聞かれて、バレー引退宣言をかました覚えしかない。……その映像を、なぜ監督に送ったのか……。

「───ありがとう、バレーボールを選んでくれて」

返ってきた思わぬ『返事』に俺は口を噤んだ。
今の俺はバレーボールではないものを選んでいる。だから監督が言いたいのはもっと原点の、俺がバレーを始めたことだろう。
俺が人生の中でバレーをした期間は、ほんのわずかな時間だ。でもその時間をとるに足らない事とは思わない。
それを俺だけではなく、監督や、皆がそう思ってくれるのか……。

「あのコートにいられないのが、ちょっと惜しいです」

バレーを辞める選択を後悔しているわけではないが、感情は一つには絞れなかった。その一粒を零せば、監督は「そら、嬉しいわ」と声を弾ませた。


監督と主人公には、犬派と犬みたいな相性の良さがあってぇ。
Mar 2025