sakura-zensen
春の蕾
後日談 05話
ある日の放課後、治は偶然会ったと共に手芸屋に来ていた。
なんでも「ばあちゃんがセーターを編んでくれるから、好きな毛糸買っておいでって言われた」らしい。セーターって編めるものなのか、と当たり前のことに感心した時は、に笑われてしまった。
ワゴンの中にたっぷりと詰め込まれた毛糸を前にしているの後姿を眺めたり、色とりどりの毛糸に目を奪われたり。はたまた、今日の夕食はなんだろう、とよそ事を考えながら店内に立つ。
「つまんない?」
は唐突に治を振り返った。
ついて行きたいと言ったのは治なのに、上の空だった。にそう指摘された途端、叱られた時のように身を縮こまらせる。これは部活で扱かれていた時の反射だった。
しかしは怒りもせず、言葉を続けず、口ごもる治から視線を外し、また毛糸選びの為に背を向けた。
治が彼の買いものについて来たのは、手芸に興味があるわけでもなく、ただ、一緒に過ごす機会を前にしたらついて行かない選択肢はなかったから。
が治の部活の先輩であった期間はたったの一年で、彼が引退して時々しか顔を合わせなくなってからは更に一年が経とうとしていた。それが寂しいのではなくて、少しだけ惜しく思えた。
「春野さんがバレーやめるって決めたんはいつやったんですか」
なにげなく口にしたつもりだったが、治は言ってから少しだけ後悔した。
こんなところで、こんな風に聞くことじゃない気がして。
だけどは特に気を悪くした様子はなく、毛糸の山をかき分けながら笑う。
「ええ~?俺はお前らみたいに長い事バレーだけをやってたわけじゃないんだけど」
「でも、聞きたいです」
「……バレー部入る時から、二年で引退しよう思てた」
「え、早っ」
「だから参考にならんって」
は苦笑して頭を掻いた。
彼の場合はそもそもバレーを始めたのも遅く、ほとんど独学だと聞いている。
それ以前に将来は医者になろうと考えていて、家庭の事情で進学に金をかけたくないという理由から綿密な将来計画は立てていたそうだ。
八歳の時に親が死んだ、親戚の家に住んでいた、今もまた別の親戚───北の家に世話になっている、と聞いて治は喉の奥底が窄まるのを感じた。
親戚の北の家に住んでいることは知っていた。だけど両親の死については初めて聞いた。
それをあえて口にしたのは、身を切るように、治に人生を教えてくれたのだ。
(逃げるな、───逃がすな)
自然と心が距離をとってしまいそうになる濁流が押し寄せて、流されまいと唾を飲み込んだ。
「途中、やっぱり三年でも続けようとか思わんかったですか」
は一度手に持っていた毛糸に目をやった後、それをワゴンの中に戻して、もう一度治を見た。
「まだ、みんなと一緒にやりたかったよ」
言葉を紡ぐ、唇の動きに目を奪われた。そして耳に入ってくる言葉を理解するのに、少しだけ時間が要った。
聞いた癖に、治はがそれを惜しんでいたとは思っていなかった。否、素直に口にするとは思っていなかったのかもしれない。
なにより、今のは『それ』を選んでいない。どれほどの感情をのみ込んだのだろう。
この時、治の中にあった『終わり』への実感がゆっくりと芽吹いた。
稲荷崎高校は春高には二日目からの参戦となった。
が観戦に来るというのはなんとなく部員の皆が知るところで、そわそわと彼の所在を気にしていた。
「え!春野さんて昨日から観戦しとるんですか!?」
「らしいで、なあ信介」
「おお。こっちに知り合いおって、会いに来たついでに泊まったらしいわ」
試合前のざわめきの中で、銀島の声はよく通り周囲に伝わった。
赤木と北が肯定しているということは、それは事実であると誰もが分かる。
曰く、今日は北の祖母と一緒に観戦しているらしいので、大耳が応援団のあたりだろうと言った。その会話を聞いていた者たちは自然と、視線が稲荷崎の応援客席へと集まっていく。
吹奏楽部やチアリーディング部、そしてOBや後援会、部員やその他応援者の群れの中に、は居た。
応援席の周囲にいた部員や学生たちは稲荷崎の選手たちにとってのという存在をわかっていて、視線が集まる。
彼の隣には北の祖母らしき女性がたしかにいて、に声をかけたようだった。そしては注目されていることに気づいて、立ち上がる。
その時に見えた、の着ているセーターには、『信介頑張れ』の文字が編みこまれていた。おそらく治が以前一緒に選んだ毛糸で編まれたものだろう。
「!? なんで北さんだけ頑張れなんですか!?」
「そこは『稲荷崎頑張れ』ちゃいますか!?」
侑がすかさずセーターの文字に物申し、治も不満を吐露した。
はその野次が聞こえたのか、応援席でクスクス笑って、セーターを堂々と見せて回る。
当の北は一見すると感情がほとんど表情にないまま、こくりと頷いた。
この二人の間にある絆とかノリは独特過ぎて、いまだに周囲はついていけてないことが多々ある。
ふと、はひらひら振っていた手を、口元に持ってきて筒のようにする。
皆が自然と激励を期待して、静かになった。
「───みてるからな」
(すぐそばにいるみたいに言うんやな……)
『みてる』という言い方に、漠然と治はそう思った。そして悪い気はしない、とも。
はいつも治たち選手をみていてくれた。コートの中でも、ベンチからでも、体育館の隅からでも。
それが何よりの応援であり、一緒に戦うということだ。
治は身体の内側が温まるのを感じて、この熱よ冷めるなと拳を握った。
───だけど、稲荷崎は負けた。
北からほんの少しだけ見えた小さな喪失感も、の選択に対しても、治にできることはない。
ただ、自分が出来るときに、精いっぱいバレーをするしかないのだ。
試合後に労いに来たが三年生ひとりひとりと抱き合っているのを、まだそちら側へはいけないと、ただ眺めた。
今日が最後の試合だった人も、そうではない人もいたが、きっとの最後の試合は今日だった。
兵庫へ帰ってきて学校に行きだすと、当たり前の毎日が再開して、あっという間に冬が終わろうとしていた。
あまりにも短く感じたその日々の中で、治はひとつのことを決めた。バレーを高校生いっぱいで辞めて、食に関する仕事に就くと。
侑が拗ねたあまりに治の夢に不満そうだったが、治なりにバレーとも自分とも食とも誠実に向き合った結果の夢だったので負ける気はなかった。
それをすぐに分かり合えるなんてことはなく、いつも通り喧嘩して、啖呵切って、この選んだ道の価値を生涯通して競い合うと決めた。
「───なんか、すごい喧嘩したらしいな」
「!?」
卒業まで残りわずかとなり三年生は自由登校となったはずだが、治の前にが現れた。
外練の後に熱くなった身体を冷やす為、芝生の上に寝転がって身体を伸ばしていたところを見下ろされる。
そして、先日した侑との大喧嘩のことを思いだして、居たたまれなくなった。
「な……!!」
「なんで知ってるかと言うと、倫太郎から聞いた」
よいしょー、とのんびり笑いながらが治の頭の横に座る。
思わず起き上がろうとすると、汗の滲んだ額をものともせず、の掌がそこを覆って地面に押し戻した。
「ええ喧嘩したみたいで、安心した」
一瞬身体がこわばった治のことは気にせず、は静かに言葉を続ける。
「侑と治の喧嘩はな、かわいいわ」
向けられた、思わぬ破顔に治はキュンッと胸を弾ませた。
の目は朗らかで、慈しみに溢れているように見えた。
双子の喧嘩は日常茶飯事のことだから、たくさんの人に呆れられたり、後で怒られたり、なんなら見世物にもなったりするが、こんな風に見てくるのはきっとくらいだ。でもふいに───あの子を思いだした。
「これからもたくさん喧嘩しな」
「……」
脳裏には髪の長い晴れ着姿の女の子がいて、「喧嘩しないでな」と笑う。
言っていることは違うし、なぜか今より幼くしたの顔つきをしているので───多分、記憶が薄れてすっかり交じり合ってしまったのだろう。
「あとこれ、治、おぼえてる?」
「───え」
頭の中に描いたの顔を振り切っている最中、目の前に差し出されたものを見て、治は寝転がったまま身体を硬直させた。
は小さな紙きれを指に挟んでいた。
それは治の顔に四角い影を落とした。
寝転がって天を仰ぐ治の視界には、その白い紙にうっすらと透ける桜の花びらが見える。
今度こそ、治はの制止を受けずに身体を起こした。
そしての手から受け取った『破けた便箋』と、の顔を見比べる。
───これは、いつか治が失くした物。否、その片割れではないかと。
つまりそれを持っているのは『あの子』しかいないはずだ。
「卒業したら京都戻るんで荷物整理してたんだけど、そしたら出てきたんだ」
「え、な、は? 京都『戻る』!? えっ京都の人やったんですか!?」
「あれ、知らなかったっけ? でも俺の中学知ってたよな」
治は、ア、と口を開いた。
確かにそれは、考えればわかることだ。中学時代の合宿で会った時、たしか京都の強豪校を呼んだと聞いた。そしてその強豪校で部員を扱いていたのが春野"師範"であったことは知っていた。だが、知っていて気にしていなかった。
元々、お稲荷様をやっていたにあの子の姿を重ねて惹かれたこともあり、正体を知ったことへの驚きや戸惑いはさほどない。
だが目の前に当時の物があるのが、大きく治の心をかき乱した。───こんなシチュエーション、えぐいて。
「何で言うてくれへんかったのぉ」
「うはははは。だって、夢壊れるじゃん?かわいそぉで」
「せやけど、じゃあなんで、いまっ」
「なんでやろ。思い出の品みつけたから、言いたくなったわ」
「!!」
いたずらっぽい笑みを浮かべるに、治は口を噤む。
たしかにこの切れ端を見つけて、そして分けあった相手がいたのなら、言いたくなる気持ちは分かった。だけど治は、この思い出の片割れをどこにやったのだか、いまだにわからない。
それは別に、人生において必要なものではないはずだ。失くしたからこそ、そう思えたのに。
治はまた、すり抜けていく春を、見送るのか。
「───ください、これ」
「え?」
「今度こそ、ちゃんと思い出にします」
「ええよ。あげようと思うてたし」
便箋を持つ手ごと、治は掴んだ。
そして緩んだ指先から、便箋をとる。
「あのこが、春野さんでよかった」
小さく呟いた声は、誰にも、にすら聞こえなかっただろう。
手の中にある春の思い出を潰さないように持ちながら、治は苦笑した。
こんなに待ち遠しくない春は初めてだと。
なんでも「ばあちゃんがセーターを編んでくれるから、好きな毛糸買っておいでって言われた」らしい。セーターって編めるものなのか、と当たり前のことに感心した時は、に笑われてしまった。
ワゴンの中にたっぷりと詰め込まれた毛糸を前にしているの後姿を眺めたり、色とりどりの毛糸に目を奪われたり。はたまた、今日の夕食はなんだろう、とよそ事を考えながら店内に立つ。
「つまんない?」
は唐突に治を振り返った。
ついて行きたいと言ったのは治なのに、上の空だった。にそう指摘された途端、叱られた時のように身を縮こまらせる。これは部活で扱かれていた時の反射だった。
しかしは怒りもせず、言葉を続けず、口ごもる治から視線を外し、また毛糸選びの為に背を向けた。
治が彼の買いものについて来たのは、手芸に興味があるわけでもなく、ただ、一緒に過ごす機会を前にしたらついて行かない選択肢はなかったから。
が治の部活の先輩であった期間はたったの一年で、彼が引退して時々しか顔を合わせなくなってからは更に一年が経とうとしていた。それが寂しいのではなくて、少しだけ惜しく思えた。
「春野さんがバレーやめるって決めたんはいつやったんですか」
なにげなく口にしたつもりだったが、治は言ってから少しだけ後悔した。
こんなところで、こんな風に聞くことじゃない気がして。
だけどは特に気を悪くした様子はなく、毛糸の山をかき分けながら笑う。
「ええ~?俺はお前らみたいに長い事バレーだけをやってたわけじゃないんだけど」
「でも、聞きたいです」
「……バレー部入る時から、二年で引退しよう思てた」
「え、早っ」
「だから参考にならんって」
は苦笑して頭を掻いた。
彼の場合はそもそもバレーを始めたのも遅く、ほとんど独学だと聞いている。
それ以前に将来は医者になろうと考えていて、家庭の事情で進学に金をかけたくないという理由から綿密な将来計画は立てていたそうだ。
八歳の時に親が死んだ、親戚の家に住んでいた、今もまた別の親戚───北の家に世話になっている、と聞いて治は喉の奥底が窄まるのを感じた。
親戚の北の家に住んでいることは知っていた。だけど両親の死については初めて聞いた。
それをあえて口にしたのは、身を切るように、治に人生を教えてくれたのだ。
(逃げるな、───逃がすな)
自然と心が距離をとってしまいそうになる濁流が押し寄せて、流されまいと唾を飲み込んだ。
「途中、やっぱり三年でも続けようとか思わんかったですか」
は一度手に持っていた毛糸に目をやった後、それをワゴンの中に戻して、もう一度治を見た。
「まだ、みんなと一緒にやりたかったよ」
言葉を紡ぐ、唇の動きに目を奪われた。そして耳に入ってくる言葉を理解するのに、少しだけ時間が要った。
聞いた癖に、治はがそれを惜しんでいたとは思っていなかった。否、素直に口にするとは思っていなかったのかもしれない。
なにより、今のは『それ』を選んでいない。どれほどの感情をのみ込んだのだろう。
この時、治の中にあった『終わり』への実感がゆっくりと芽吹いた。
稲荷崎高校は春高には二日目からの参戦となった。
が観戦に来るというのはなんとなく部員の皆が知るところで、そわそわと彼の所在を気にしていた。
「え!春野さんて昨日から観戦しとるんですか!?」
「らしいで、なあ信介」
「おお。こっちに知り合いおって、会いに来たついでに泊まったらしいわ」
試合前のざわめきの中で、銀島の声はよく通り周囲に伝わった。
赤木と北が肯定しているということは、それは事実であると誰もが分かる。
曰く、今日は北の祖母と一緒に観戦しているらしいので、大耳が応援団のあたりだろうと言った。その会話を聞いていた者たちは自然と、視線が稲荷崎の応援客席へと集まっていく。
吹奏楽部やチアリーディング部、そしてOBや後援会、部員やその他応援者の群れの中に、は居た。
応援席の周囲にいた部員や学生たちは稲荷崎の選手たちにとってのという存在をわかっていて、視線が集まる。
彼の隣には北の祖母らしき女性がたしかにいて、に声をかけたようだった。そしては注目されていることに気づいて、立ち上がる。
その時に見えた、の着ているセーターには、『信介頑張れ』の文字が編みこまれていた。おそらく治が以前一緒に選んだ毛糸で編まれたものだろう。
「!? なんで北さんだけ頑張れなんですか!?」
「そこは『稲荷崎頑張れ』ちゃいますか!?」
侑がすかさずセーターの文字に物申し、治も不満を吐露した。
はその野次が聞こえたのか、応援席でクスクス笑って、セーターを堂々と見せて回る。
当の北は一見すると感情がほとんど表情にないまま、こくりと頷いた。
この二人の間にある絆とかノリは独特過ぎて、いまだに周囲はついていけてないことが多々ある。
ふと、はひらひら振っていた手を、口元に持ってきて筒のようにする。
皆が自然と激励を期待して、静かになった。
「───みてるからな」
(すぐそばにいるみたいに言うんやな……)
『みてる』という言い方に、漠然と治はそう思った。そして悪い気はしない、とも。
はいつも治たち選手をみていてくれた。コートの中でも、ベンチからでも、体育館の隅からでも。
それが何よりの応援であり、一緒に戦うということだ。
治は身体の内側が温まるのを感じて、この熱よ冷めるなと拳を握った。
───だけど、稲荷崎は負けた。
北からほんの少しだけ見えた小さな喪失感も、の選択に対しても、治にできることはない。
ただ、自分が出来るときに、精いっぱいバレーをするしかないのだ。
試合後に労いに来たが三年生ひとりひとりと抱き合っているのを、まだそちら側へはいけないと、ただ眺めた。
今日が最後の試合だった人も、そうではない人もいたが、きっとの最後の試合は今日だった。
兵庫へ帰ってきて学校に行きだすと、当たり前の毎日が再開して、あっという間に冬が終わろうとしていた。
あまりにも短く感じたその日々の中で、治はひとつのことを決めた。バレーを高校生いっぱいで辞めて、食に関する仕事に就くと。
侑が拗ねたあまりに治の夢に不満そうだったが、治なりにバレーとも自分とも食とも誠実に向き合った結果の夢だったので負ける気はなかった。
それをすぐに分かり合えるなんてことはなく、いつも通り喧嘩して、啖呵切って、この選んだ道の価値を生涯通して競い合うと決めた。
「───なんか、すごい喧嘩したらしいな」
「!?」
卒業まで残りわずかとなり三年生は自由登校となったはずだが、治の前にが現れた。
外練の後に熱くなった身体を冷やす為、芝生の上に寝転がって身体を伸ばしていたところを見下ろされる。
そして、先日した侑との大喧嘩のことを思いだして、居たたまれなくなった。
「な……!!」
「なんで知ってるかと言うと、倫太郎から聞いた」
よいしょー、とのんびり笑いながらが治の頭の横に座る。
思わず起き上がろうとすると、汗の滲んだ額をものともせず、の掌がそこを覆って地面に押し戻した。
「ええ喧嘩したみたいで、安心した」
一瞬身体がこわばった治のことは気にせず、は静かに言葉を続ける。
「侑と治の喧嘩はな、かわいいわ」
向けられた、思わぬ破顔に治はキュンッと胸を弾ませた。
の目は朗らかで、慈しみに溢れているように見えた。
双子の喧嘩は日常茶飯事のことだから、たくさんの人に呆れられたり、後で怒られたり、なんなら見世物にもなったりするが、こんな風に見てくるのはきっとくらいだ。でもふいに───あの子を思いだした。
「これからもたくさん喧嘩しな」
「……」
脳裏には髪の長い晴れ着姿の女の子がいて、「喧嘩しないでな」と笑う。
言っていることは違うし、なぜか今より幼くしたの顔つきをしているので───多分、記憶が薄れてすっかり交じり合ってしまったのだろう。
「あとこれ、治、おぼえてる?」
「───え」
頭の中に描いたの顔を振り切っている最中、目の前に差し出されたものを見て、治は寝転がったまま身体を硬直させた。
は小さな紙きれを指に挟んでいた。
それは治の顔に四角い影を落とした。
寝転がって天を仰ぐ治の視界には、その白い紙にうっすらと透ける桜の花びらが見える。
今度こそ、治はの制止を受けずに身体を起こした。
そしての手から受け取った『破けた便箋』と、の顔を見比べる。
───これは、いつか治が失くした物。否、その片割れではないかと。
つまりそれを持っているのは『あの子』しかいないはずだ。
「卒業したら京都戻るんで荷物整理してたんだけど、そしたら出てきたんだ」
「え、な、は? 京都『戻る』!? えっ京都の人やったんですか!?」
「あれ、知らなかったっけ? でも俺の中学知ってたよな」
治は、ア、と口を開いた。
確かにそれは、考えればわかることだ。中学時代の合宿で会った時、たしか京都の強豪校を呼んだと聞いた。そしてその強豪校で部員を扱いていたのが春野"師範"であったことは知っていた。だが、知っていて気にしていなかった。
元々、お稲荷様をやっていたにあの子の姿を重ねて惹かれたこともあり、正体を知ったことへの驚きや戸惑いはさほどない。
だが目の前に当時の物があるのが、大きく治の心をかき乱した。───こんなシチュエーション、えぐいて。
「何で言うてくれへんかったのぉ」
「うはははは。だって、夢壊れるじゃん?かわいそぉで」
「せやけど、じゃあなんで、いまっ」
「なんでやろ。思い出の品みつけたから、言いたくなったわ」
「!!」
いたずらっぽい笑みを浮かべるに、治は口を噤む。
たしかにこの切れ端を見つけて、そして分けあった相手がいたのなら、言いたくなる気持ちは分かった。だけど治は、この思い出の片割れをどこにやったのだか、いまだにわからない。
それは別に、人生において必要なものではないはずだ。失くしたからこそ、そう思えたのに。
治はまた、すり抜けていく春を、見送るのか。
「───ください、これ」
「え?」
「今度こそ、ちゃんと思い出にします」
「ええよ。あげようと思うてたし」
便箋を持つ手ごと、治は掴んだ。
そして緩んだ指先から、便箋をとる。
「あのこが、春野さんでよかった」
小さく呟いた声は、誰にも、にすら聞こえなかっただろう。
手の中にある春の思い出を潰さないように持ちながら、治は苦笑した。
こんなに待ち遠しくない春は初めてだと。
恋になっちゃいそう。
Oct 2023
Mar 2025 改稿
Oct 2023
Mar 2025 改稿