sakura-zensen

春の蕾

後日談 06話
最後の試合が終わって、少しの"残念"を零した信介に対し、後輩や同輩は息をのんだ。
きっと自分が、こういうことを言うとは思わなかったのだろう。だが信介にとってそれは激励でもあった。仲間を誇らしく思い、これからもそうあってくれというもの。

もっと、なんて。
それが無理なことくらい、頭で理解していた。でも感情というものはままならない。薄曇りの空模様のような、幽かな落胆がある。
時間は止まってはくれないが、そのもどかしさを癒すのも、また時間だった。この曇りは、いずれ晴れると。
───も、こんな思いがあったんやろか。
ふと思い出されたのは、一足先に引退していたはとこのことだ。
受験が佳境な時期だが、信介の晴れ舞台だからといって祖母と一緒に兵庫から東京に来ている。なんなら、母校が出ない初日から観戦していたはずだ。
彼は信介を理由に始めたバレーを『血までは吐かない』と言っていたけれど、十分大事にしていた。その心の在り方はこういうところに滲み出ている。

「みんな!」

考えてた人物の声が聞こえて、音のする方を見る。
が一年生の部員に付き添われて、こちらにきた。本来なら部外者にあたるのかもしれないが、事情がなければきっとここに居たであろうを追いやる気にはなれず、皆和気藹々とした様子で彼を出迎えた。
さっきまで涙を流していた部員たちは、その名残を残しながらも笑みを浮かべる。

「良い試合だった、おつかれさま───大耳」

は言いながら大耳に抱き着いた。みごとに"きょとん"とした顔の彼は背中を摩られたあと解放され、次にが抱き着きに行く赤木を目で追う。赤木もまさか自分が抱き着かれると思わなかったのか驚いていたが、大耳にしていたことを見ていたので、の背中に腕を回した。
赤木の次はアラン。アランはやっぱり、と照れた笑いを浮かべながらも、その抱擁を慣れた動作で受け入れた。そうやって三年生の部員を順次労った最後、は信介の元へやってくる。

「たのしかった?」
「うん、たのしかった」

耳元でそう聞かれて、信介はの肩に小さな声でそう呟いた。

信介のバレーボールがある毎日は終わった。
でも、人生という毎日はまだまだ続いて行く。




三月は冬と春の境目の季節だ。
色々な花が開きはじめ、またつぼみを見せはじめる。日照時間は伸びて昼間が長くなる。乾燥しているというよりは、どこか埃っぽい風。だけど、冷たい空気が肌をさし、もうすぐ春だとは思えない厳しさを感じることもある。

その日は、信じられないことに雪が降っていた。朝は雨とみぞれだったものが、次第に白い粒となって土の上にたちまち積もり始めた。
窓の外に目をやるたび、雪降ってる、なんて感心してしまう物珍しさがある。
そんな信介の背後にはいつの間にかが立っていて、同じように外をしげしげと眺めていた。きっと考えていることも同じに違いない。
目が合うと、積もるかな、とどちらが良いのかわからない表情で言って部屋の奥へと戻っていく。
信介は雪から目をはなして、の背を追う。

「荷造り終わったんか」
「あらかたね」
は独り言ちるように「前々から整理はしてたし」と付け加える。

彼はこの家を出て行く。京都の大学に合格したからだ。
稲荷崎高校に進学すること、医学部を目指して医者になること。それらを決めた時のは兵庫の大学に進むつもりがあった。けれど、昨年の夏に彼の祖父が胃を悪くして手術をしてからは、京都に戻ることに決めていた。
信介も同じ状況であったなら、何かが出来るわけではなくとも、そばにいてやりたいと思うだろう。

六年間───それどころかもっと長い時間、がこの家に帰ってくることはないのかもしれない。それでも信介は不安も不満もなかった。
自分の心と、の心のことは出会ってからの約十年経った今では、かなり良くわかるようになったからだ。
寂しくないとか、一緒にいたい気持ちがないと言うわけではないが、心のままに生きる姿こそ、互いに好きになった姿。
手の繋げない距離にいたとして、それが本当に離れたことにはならないことを知っている。

ああ、でも───もっと。
滲む感情は制御できずに信介の腹の底から這いあがり始めた。
ユニフォームをもらった時の嬉しさ、と二度寝をした時の楽しさ、バレーを辞める時の寂しさ。が離れることの切なさは、それらとよく似ていた。




が家を出る前の晩、彼は初めて北の家に来た時みたいに信介の部屋で眠った。
信介は同じく、朝起こしてくれるように頼んだけれど、実際は朝起きても信介が自然に目を覚ますまで、声をかけてくることはなかった。

「起こす約束したやんか」
「俺早く起き過ぎちゃって。信介だっていつもより早いよ」
「そうやったかな」

不満を感じつつも、布団から起き上がった信介は寝ぐせが付いていないかを手探りに、頭を撫でつけながら部屋の時計を見る。の言う通り、いつも起きるより一時間程早かった。
けれど外はもう日が高く感じるほどに、窓から差し込む光が明るい。起きても良いのだが、今日はがいる最後の日だからと布団に逆戻りした。

「なら、二度寝できるわ」
「信介からそんな言葉が飛び出して来るとは……俺の影響か」
の影響やなあ」

二組の布団を並べていたが、信介はあえて自分の掛け布団を広げた。
は何のためらいもなく信介の懐に滑り込んできたので、布団をかけ直してくるまる。
枕まで一緒に使っていたので、信介の唇にの髪が当たって少しむず痒い。髪を梳かすようにしてそれをどけていると、撫でられていると思ったらしいは、ちょっと変な声で笑った。
そのまま本当に少しだけ撫でて、との時間にまどろむ。

迎えが来るのは何時になるのかと問えば、は自分の背後に手を伸ばし探るように動かす。そしてスマートフォンを持ってきて、何かを確認するように操作をし出した。
今日は、の従兄の文麿が休みをとって車でを迎えにくる手はずとなっている。
回答は、午後休をとれたとのこと。こちらに来るのは二時や三時頃となるだろう。

まだ小学生だった夏休み、が北の家で何日か暮らしたことがある。その時も文麿が車で迎えに来ていた。
最後の日はお互いになんとなく口数が少なくなった覚えがある。そして別れ際も妙にぎこちない雰囲気だった。
しかし今日はさほど、そのぎこちなさを感じない。と信介は普段通りに一日を過ごした。それが勿体ないとは思わない。ただ同じ空間にいる時間の味わい方を知っている。そしてまた、がいない時間の味わいかただって、知っている。



昼過ぎになると、の荷物は玄関のところまで運び下ろされ、信介の隣の部屋はほとんど空になる。
たくさんあった砂が落ちていくみたいな、時間の進みを感じた。

「こないだ、雪降ってたとは思えないなあ」
「そうやな」

は自分が過ごした部屋ではなく、信介の部屋にきて、外を見ながらひとりごとみたいに言った。
腰高にある窓の桟に座って、外の柵に手をかける。
の目線は遠くに見える山の峰やその手前の田んぼ辺りに向けられていた。けれど徐々に視線が下がってきて庭先へと移ろう。
上から見下ろす睫毛や頬の輪郭が、光に照らされて淡くぼやけていた。

「いつかまた、こっち来るから」
「うん」

ぽつりと零されたその言葉を、かしこまって受け取ることはしなかった。
ただその言葉を、その通りに受け止めて信じればいい。がまた来るというなら、ちゃんとそうするはずだから。
振り返ったの顔はほど近かった。信介が後ろから一緒になって窓の外を覗き込む振りをしていたからだが、その実、信介が見ていたのはの睫毛の先だった。

息がかかりそうなくらいだけど、驚くことなく普通に目線を合わせた。明るい場所だと、こげ茶色の瞳が少し緑がかって見えるのは、きっと信介しか知らないことだろう。
その目を覗き込むようにして近づくと、はゆっくりと顔を傾けた。鼻先がすれ違って、口の横をぬくい吐息がくすぐる。同時に、柔らかく唇を重ね合わせた。

ほんの数秒間の音もなく言葉もない出来事は、離れてしまえば一瞬にしてそれがなかったことになりそうだった。
胸がこんなに高なり、唇にはまだ感触が残っているのに、それをとどめておく術がない。
声を出したら夢から覚めてしまいそうで、魔法が解けてしまいそうで、ただ無言のままもう一度に触れる。
さっきよりも少しだけ長く、その感触を忘れることのないように、丁寧に。

がぴくりと身じろぎしたのが伝わってきた。信介が唇を離すのは同時だったけれど、それを追いかけるようにが窓際から腰を上げる。
信介の腕を掴んで、なだれ込むように床に引きずりおろした。そして膝の上にのったが呟く。

「外から見えちゃう」
「……うん」

信介はのその言葉に頷くしかできなかった。
本当はもう終わりにしようと思っていたけれど、がそう言うならと。
そっと近づいてきて、さっきみたいに唇が重なる。
程なくして家の前で駐車をする音が聞こえてきた。彼の従兄の車は走行音がかなり静かだが、バックをすると独特の音がするのだ。

窓から離れていて、正解だった。

窓際でするのも、窓から隠れてするのも、どっちのシチュエーションも好きです。(広く主張)
以前五話分の後日談を書いた時、北信介夢にしては物足りないと感じたので、改稿時の勢いにのって二話程増やしました。
Mar 2025