sakura-zensen
春の雪
03話
緑と土の匂いのする地面に蹲り、内臓が蠢いてせりあがってきた胃液を、喉から絞り出す。
吐いて染みのできた場所を見下ろして、周囲の土をかけて埋めながら口の周りを強く拭う。
情けなさと、遣る瀬無さ飲み込むと、吐いたばかりの喉に刺激が走った。
この吐き気は、土方副長の怒涛の打ちこみによって催したものだった。
いくら前世の俺が鍛えていようと、この身体は赤ん坊から始まり十五年───江戸ではよちよち兄と剣術の稽古に通っていたが、京都に移り住んでからは開業医の父の手伝いをすることが多かった。こっちでも兄の通う道場についていって何度か顔を出したことはあれど、勘が鈍らないようにする程度。経験の記憶はあっても、まず体力や筋力がなかった。
壬生浪士組で毎日のように行われる剣術の稽古は厳しく、気合の入り方も道場にいた連中とは比べ物にならない。
普段バカ騒ぎをしている様子からは想像もできない気迫。お調子者の原田先生さえ、得意の長物を持てば目つきが変わった。
これが、時代を生きる武士の佇まいだろう。常に己の死を見据え、いつその時が来ても良いように今を生きていた。早く、俺もそんな生き方が出来るようにならないと、あっけなく死ぬ。ここはそんな場所だった。
「───出て行きっ!!」
思考を切り裂くような声がした。外の植え込みで吐き終わった後のことだった。
バシッと黒い何かが投げつけられる。咄嗟に目に当たるのは避けたが、顔にべちょりと当たって、泥臭さをふりまいた。
「え、なに……?」
顔を拭うと、手には泥がついた。困惑しながら声がした方を見ると、幼い男児が二人いた。
彼らは水戸藩の芹沢局長一派が宿している八木家の兄弟で、兄が為三郎、弟が勇之助だ。手にはなおも泥の塊をもっていて、それを振りかぶる。今度は、胸や肩に当たる軌道だった。
「江戸へ去ね! 狼どもっ!!」
「去ね!」
至近距離まで駆け寄って来た子供たちは、真っ赤な顔で俺に泥を投げ続ける。精いっぱいの力を振り絞るその姿は、どこか憐れにも思えた。
狼というのは一般的に、あまり良い意味ではない。壬生浪士の浪を狼と言い換えて俺達を蔑む時に使われる。俺は狼って格好良くて好きだけどな。
とにかく、京の人たちにとって壬生浪士は、ならず者の人斬り集団と言われているのだ。
そんな町の大人の声を聞きながら暮らす子供たちが、俺たちを快く思うはずがない。それどころか八木家は芹沢局長一派と同居している為、町人たちからも白い目で見られているのは察する。
自分の立場が理解を得られないもどかしさよりも、その余波によって罪なき子供や家族の立場が脅かされていることの方が、よほど身につまされた。
だから俺は、泥くらい甘んじて受け入れたけれど、
「この悪タレどもが、何をしとるかぁっ!!」
俺への狼藉に気づいた、通りすがりの芹沢局長が怒鳴りながら駆け寄った来た。扇子を振りかぶった手に籠る力は強そうで、その怒りの滲んだ声も顔も、決して嘘ではない。そもそも芹沢鴨という男は、かなり気性が荒い。俺は咄嗟に子供たち二人を引っ張り、後ろに投げた。
そして振りかぶった芹沢局長の扇子は、同じく騒ぎに気づいて駆け寄ってきた沖田先生によって防がれる。
木刀に当たった音からして、扇はかなりの強さで叩きつけられていた。───これで子供をブッ叩いていたら、と思うと肝が冷える。しかし武士に粗相をすれば無礼打ちをされることもある。坊やたちは、そのことにはまだ気づいていなかった。
沖田先生は憤慨している芹沢局長の気を上手い事そらして、機嫌を取った。傍から見ていると阿呆にすら見える姿なのだが、何かお考えがあるのあかもしれない。
此処に来た初日も、昼間から酒を飲む彼らの宴会に交じっていたが、あれは間者の目を誤魔化す為だったみたいだし。
……いやでも、この能天気な感じ、本性かもしれない。
憧れの沖田総司像に亀裂が入る予感がしたが、何とか押しとどめた。
ある日の昼下がり、俺は廊下に一枚の紙が落ちていることに気づいた。見れば組所の出納が記載されている。会計帳簿だろう、と近辺の部屋を見ればまたもう一枚、開け放たれた部屋からひらりと廊下に滑り出す。
それを拾ってヒョイと部屋を覗き見れば、背を丸めて書面を睨みつけるような山南副長の姿があった。
「ああ、春野くん」
声をかけようとした時、丁度彼はぱっと顔を上げて俺に気が付く。
「随分熱心に眺めておられましたね。こちら恥じらって廊下まで逃げてまいりましたよ」
「あはは……すまない、ありがとう」
山南副長は俺の様な下っ端隊士にも礼儀正しく、優しく声をかけてくれる。そして気さくでもあるので、隊費の帳簿の数字が合わないのだという悩みの種も話してくれた。
「お手伝いしましょうか? わたしも父の仕事の関係で、帳簿を付けることもありましたから」
「いいのかい? 助かるよ」
俺が手伝いを申し出たら、山南副長は嬉しそうに微笑んだ。そして紙の束と算盤を手渡す。
「春野くんの御父上は何をされていたんだい」
「医者です。蘭方医学の勉強をして開業医をしておりました」
壬生浪士組に入るにあたって、春野と姓を改め家族は皆死んだということで、特に身分を問われることはなかった。だからここで父の話をするのは今が初めてだった。
この時代の医学において、蘭学を取り入れた医術はかなり新しい分野にあたる。今までの日本の医療は漢方医学が主流だった。しかしオランダからの知識の流入により主に外科的な施術が出来るようになる。医学の大々的な発展の原点に近いところが今なのだと思う。
「父の手伝いをする傍ら、わたしも少し医学を嗜んでおりますので山南先生も何か不調がありましたら声をかけてくださいね」
「ああ、ありがとう。しかし、そんな君がどうして壬生浪士組に?」
「……父は元は武士で江戸幕府の直参でした。故あって医師となったことを後悔してはいないようでしたが、兄が父の果たせなかった役目を果たそうと武士を目指しておりました」
「うん」
山南副長は優しい目で、俺の言葉を促す。
二人きりであること、ただ上司から聞かれたこと、それに答える形で起きた告白だが、俺は胸の内を開くように、精一杯素直な言葉を探した。
壬生浪士組の志願書に記した熱意や堅苦しさなどは取り払う。
「二人とも志半ばで逝ってしまった───だから壬生浪士組で武士として剣を奮い、同志を助けることが遺されたわたしの役目だと思っているのです」
山南先生は穏やかに「そうか」と頷いてくれて、微笑みながら下を見る。そのまま俺たちは静かに、帳簿付けの作業に戻った。
沖田先生のことは話さなかったけれど、父と兄のことをただ聞いてくれたことが、なんだか少し俺の心を軽くしてくれた。
山南副長は帳簿付けが終わった後、盛大な感謝と共に俺を送り出した。
宿所内を歩いていると、賑わいの声が聞こえて耳を澄ませる。ここには若い男たちばかりだが、甲高い声がするということは、為三郎と勇之介のものだろう。
十中八九、沖田先生と遊んでいる気がして声の方へ行くと、高い樹の上に登った三人を見つけた。
「沖田先生、為三郎さん、勇之助さん」
下から呼びかけると、三人はきゃあきゃあと手を振る。一番はしゃいでいるのは年長者である沖田先生である。まったくもう。
「落ちないようにしてくださいね!」
「春野はんも登ってきいや!」
「こっち、こっちぃ!」
「そうですよ、春野さんもいらっしゃい」
八木兄弟は最初こそ俺達を嫌っていたが、町で浪士に斬り捨てられそうになったところを沖田先生と芹沢先生に助けられてからは、態度が軟化して今ではすっかり懐いている。俺にも泥をぶつけて堪忍と謝って来た。
この懐っこい子供たちを無下にはできまい。
俺は少し考え、そして周囲を確認した。俺が悪くなくても、土方副長が見つけたら叱り飛ばされそうで。
「「はーやーくぅ~」」
「今いきまーす」
ま、土方副長が俺にだけやたら厳しいのは今に始まったことではないから、いっか。
諦めて俺は子供たちの誘いにのって、助走をつけた。樹の幹を駆けあがり、太い枝に手をかけ、勢いをつけて飛び上がった。
時間はかかったが三人のいるところまでたどり着くと、子供たちともども沖田先生が驚いている。
「ひゃあ、春野さん、あなた身軽ですね」
「身軽ですか……?」
本当なら手など使わずに歩いて登れた俺にとって、これを身軽とは言わない。だがよく考えればそうだと気づく。
「なあなあ! 今のどうやってやるん!?」
「おしえてえな!」
目をキラキラさせる八木兄弟にゆさゆさと揺さぶられながら、自分の出来ると他人の出来るが違うことを理解した。
「沖田先生、わたしの剣術の腕はいかがでしょうか」
「え?」
兄弟は家の人が呼びに来たので先に樹を下りてゆき、俺と沖田先生だけがその場に残った。
暮れゆく日に照らされる先生の横顔に尋ねれば、不思議そうにその瞳が俺へと向く。
聞き返されたが、聞こえていなかったわけではないだろうと、黙ってその答えを待った。
沖田先生は逡巡するように、一度口を閉ざしたあとに開く。
「その年齢であれだけ出来れば、上出来です」
「年齢を考慮せずに仰ってください」
沖田先生に再び訪れた沈黙は長かった。
彼に限って、忖度はないだろう。弱ければズバリ言ってくれる。反対に例え腕を認めても俺が驕ると思わないはずだ。
「───まだ、判断しかねます」
結局沖田先生の結論はこうだった。俺はそれを聞いて、それもそうか、と苦笑が浮かぶ。芹沢先生のように言うわけではないが、木刀で行う鍛錬と真剣で行う実践ではどうしても発揮できる力が変わってくる。良くも、悪くもだ。
「春野さん、あなたの立ち振る舞いは年齢以上の落ち着きや、経験が垣間見えます」
でも、と沖田先生は言葉を濁した。
言いたいことはわかる。
「身体が小さいですよね」
引き継ぐように続きを口にした。彼は肯定するように小さく頷く。
俺は手を伸ばして沈みかける太陽を覆った。
黒い影になったてのひらは小さく、手首は細く、肉付きは悪い。同じように目の前に伸びてきた沖田先生の手は少し日に焼けていて、骨や筋肉を纏った腕で、当然俺よりも長かった。
俺が大きくなるのを、敵は、時代は、先生は待ってはくれない。早く、その隙間を埋める力を付けなければと思った。
最近燃えよ剣読み始めました。余談。
June 2025