sakura-zensen
春の雪
06話
*沖田総司視点
微睡みの中に、音が聞こえる。
畳や座布団のにおいや、風の動き、葉擦れの音、遠くでする稽古の掛け声、土方さんが書きつけをしている気配など───様々な外の様子を感じていた。
ある時ふと、風が動いた。その風に乗って花の香りがするような、わずかな変化が訪れる。
私の耳に入るのは騒音ではなかった。まるで子守歌のように優しい音。警戒する必要はないだろう。きっと春野さんだと思いつく。
どうやら土方さんと話しているみたいだった。私が日中に子供たちと遊んでいた時、彼の注意を受けて逃げ出したから探していたのかも。
春野さんは私を叱り飛ばして起こすような人ではないけど、必要であれば物怖じすることなく役目を果たす人だ。そういう思いから無意識に耳を欹てていると、彼が私の昼寝を容認したのが分かった。私は夜に巡察に出る為、仮眠が必要だったからだ。
これ幸いと、私の意識は眠りという深い泥濘に沈んでいく。
「───あれ……?」
目を覚ました時、眠りにつく直前のままの意識が繋がった為、まったく時間の経過を感じなかった。しかし外の暗闇は私に事実を突きつけた。
土方さんは相変わらず部屋にいて、明かりをつけて書を読んでいる。私の目覚めに気が付いて、もう夕餉の時間だと口だけで叱った。そのわりに羽織をかけてくれてるところはやっぱり、"優しいンだから"……。
「春野さんは?」
「二度来たが、おめェの間抜け面を見るなり下がった」
「二度もですか?」
私の記憶にある彼の訪れは、いったいどちらだろう。そう思いつつも土方さんの小言を受け流す。
いつも土方さんの部屋で寝てしまうのは、私なりに土方さんの身も案じてのことでもあるのだからと。けれど彼はそれを私の軽口だとあしらった。
「それより、早く夕飯を済ませて来い。そのうち春野が膳まで持って俺の部屋に来ちまうだろうが」
「あはは」
私は土方さんの大げさな皮肉を、当たらずとも遠からずだと笑った。
春野さんの私に向ける献身は、並みの敬いなどとは違う。あからさまではないけれど、眼差しや言葉遣いから日々滲んでいる。そんな彼の一番優先することはおそらく、私が真っ当に隊務に励むこと。
従って夜の巡察にはきっちりと万全の準備をするのが望ましく、おそらく春野さんは私が起きてくるのを今か今かと待っているに違いない。
───と、思っていたのだけれど。夕食の席に、春野さんの姿はない。
永倉さんやほかの隊士のみなさんは、先に春野さんが夕食を済ませているのを見ていたそうだけど、私と会っていないのを不思議そうにしていた。彼は礼儀正しいから、先にとるにしてもきっと私を探すか、待っているはず。
ふとよぎるのは、何かがあったのかもしれない、という予感だった。
日中目についた光景が、やけに私の気分を揺らした。
春野さんが私を探していたのを、為三郎さんや勇之助さんと隠れて見ていたあの時、私たちとは別に春野さんのことを隠れて見ている人がいた。顔まではよく覚えていないけれど、新しく入った隊士の誰かだろう。
今、周囲を見回してみても、それらしき隊士はこの場にはいない。
私はすぐさま箸をおき、膳をそのままに部屋を出た。
僅かな物音を聞きつけて立ち止まったのは、蔵のそばを通りかかった時だった。蔵には鍵がかかっていたけれど、丁度この蔵に入り込む抜け道を教えてもらったばかりの私は、外から塀伝いに屋根裏に忍び込み、梁を伝って蔵を一望して見下ろせる場所に潜んだ。
中には微かな明りが付いており、人が三名いた。春野さんと、他二名のうち片方は春野さんのことをやたらと見ていた人だ。
「いったい何の真似だ? 俺の過去を利用してまでおびき寄せて」
蔵の中に、春野さんのいつもよりも低い声が落とされた。
自分が一番若年の隊士だからと、新しく入った人達にも敬語を使う彼の、むきだしの言葉遣い。礼儀をもって接するのを辞めたという、春野さんの心情が手に取るように分かった。
「そんなん、わかりきったことですやろ? あんさんを俺のモンにしたろう思て」
「あいにく俺は、誰かのモンになる気はない」
春野さんは相手に両腕を掴まれているが、少しも怯んだ様子はなかった。彼は柔術が何よりの特技だ。あの程度は自分でどうにかできるだろう。
「ハ! そんなこと言うて、あんさん沖田のモンなんやろ?」
私の名が出た時、一瞬首を傾げた。けれど、そういえば春野さんは私に操を立てていることになっているのだった、と思い出す。
親しい人たちはそれを冗談または、私を盾に使っていると分かり切っていることだけれど。
それにしたって、この状況には困ったものだ。春野さんは女子にも見える中性的な顔立ちで、愛嬌のある人柄だから衆道の相手にと望まれることも少なくなかった。それを、春野さんの言う通りならあの人は、過去を利用しておびき寄せたと言うことになる。
春野さんの家族は少し前に、尊攘派の浪士たちによって殺され、下手人を取り逃がした状況だ。春野さんがその相手を探しているのは隊内でも隠されていないことで、───きっとその情報があるとでも言って、春野さんの気を引いたのだろう。嘆かわしい事態に自然と眉を顰める。
「それだけの理由で俺を───壬生浪士組、春野を騙したんだな?」
「はぁ?」
春野さんの静かな声は何も変わらないのに、空気が変わった。
殺気とも言えない、ささやかな緊張が走る。どうしてその変化が分かったのかは、ただ、彼が『壬生浪士組』と名乗ったからだ。
争いごとを好まず、腹を立てるところなど見せたことのない、自分をとても控えめに扱う彼がわざわざ、身分を───"武士"を、宣言したことになる。
その覚悟を察するまでもなく、私はほとんど無意識に梁から飛び降りていた。
春野さんが男に掴まれていた腕を容易く解いて、刀に手をかけたのと同時だった。しかしその白刃が薄闇に光るよりも早く、私は地面に着地する。すかさず男と春野さんの間に入り、男の頸に刀を突きつけた。
「ひ、ひぃいいっ!! ど……どこから!?カ……カギ」
「───どちらにしますか」
狼狽える男と、連れの男両方の青い顔を見据えて問う。この場で武士として腹を切るか、たった今京の地を去り我が隊でのことは一切生涯口にせぬと誓うかを。
「あ……あ……」
「やっ、約束しますっ!! なんでもしまっさかい許したってください!!」
腰を抜かして徐々に立っていられなくなっていく男を、連れの男が横で支えながら代わりに叫ぶ。
彼は先ほどまで顔を押さえて距離をとっていたので、いったいなぜかと思っていたが顔が血濡れだ。おそらく春野さんの反撃に遭っていたのだろう。
「頼んます!!根っからの悪い奴やないんです!!」
「……そうかもしれませんね。でも───武士でもありません」
そう言い捨てながら刀をどけると、二人は慌ただしく蔵から去って行った。
その音が徐々に遠ざかっていくと、静寂が下りる。春野さんのいる私の背後からは、泣きも、憤りも、動揺も、疲れも感じられない。
振り向けば、逃げていく二人が闇の中に消えていくのを、ただじっと見ている姿があった。
ややあって徐に動き出したかと思えば、さっきまで手にかけようとしていた自身の刀ではなく着物の袂に探り出す。
「───沖田先生、夕餉は済まされました? 握り飯準備したんですけど」
そう言いながら差し出すのは、小さな包みだった。
どうやら彼は私に握し飯を渡そうとしていたらしい。手に乗せられたぬくみも、仄かに漂う米の香りも、蔵の中の埃や骨とう品の香りを一瞬だけ打ち消して、この空気も妙なものにしてしまった。
このまま、何事もなかったかのように振舞えば良いのかもしれない。彼は少しも気にしていない。こんなことで怯えもしない。なんなら、一人で対処が出来たはずだったから。
だけど私は、拍子抜けした余りに余計な一言を零していた。
「私が助けて、何も言わないのですね」
あ、と思った時には、もう春野さんの目は見開かれていた。
「え!? あー! ありがとうございますっ! お礼を言い忘れておりました!」
「……そうじゃありません」
「ん?」
「勝手に彼らを見逃しました……あなたは無礼を働いた者を斬ろうとしていたのに」
芹沢先生が子供や町人に刀を振るおうとするのを、止めたことは何度としてある。けれど春野さんがあれを斬るのは、本来別に止めなくともよかった。人の尊厳を奪おうとしたのだから、返り討ちにあっても文句はいえまい。
いったいどうして止めてしまったのかは、自分でもわからなかった。
「───沖田先生が見逃すのであれば、それに従います」
あまりにも淡々とした春野さんの姿に、私は胸が痛んだ。
私がしたことに、春野さんはこういうしかない。
「申し訳ありません」
「謝らないでください、別にいいんです」
「いいんですか?」
「いや、良くはないのかもしれませんが、本心では別にそこまで怒ってないんです。ああいう連中は珍しくありません」
春野さんは言いながら着物の乱れを直した。
そして蔵から出ようとして戸の前に立ち、止まる。
「ただ二度と───下手を打ちたくなかった……」
え、と聞き返した私の声は、蔵の戸が軋む音によってかき消された。
春野さんはそんな私に気づかずに夜へと一歩踏み出していく。思わずその肩を引き、振り向かせると、春野さんと至近距離で目が合った。蔵の重い戸に、後頭部をぶつけさせてしまう。
「あ、すみません」
「いえ」
春野さんは続きを話す気があるのか、ないのか。私には少しもわからなくて、尋ねて良いものかを考えた。彼の袂を割り開いて、火傷の痕を露わにするような真似をしたくはない。
そんな私の無言が、結局春野さんに苦笑いを滲ませた。
「すみません、気を引くような言い方をしてしまいました」
「無理に話せと言うつもりはありません」
「いいえ。ずっと言うのが恐ろしかった、後悔があります」
そんな風に彼は話し始めた。
春野さんは父上と兄上が亡くなる襲撃の三日程前、一人で道を歩いていた時、男二人に囲まれたという。患者に薬を届けに行った帰りのことだそうだ。
「今思えばあれはうちを襲う前触れでした。奴らは父と兄のことを調べていたでしょうし、当然わたしのことも。人質にでも取るつもりだったのか、順に殺すつもりだったのかは定かではありませんが」
「……囲まれて、その後お逃げになれたんですね?」
「ええまあ。刀を抜かれると面倒だったので、柔術で」
それは、容易く想像がつく。春野さんは剣術よりも柔術に優れていた。
きっと本人としては穏便に済ませたかったのだろうけれど───数日後、彼らはまたしても、春野さんが一人でいるところ狙った。
最初は報復かと思ったそうだ。でも、そこまでして個人的に狙われる理由が思いつかないと考えた時、本来の狙いが自分以外ではないかと気づいた。
「俺が家にいると厄介だと知られた」
吐き捨てるような言葉だった。
「"足止め"も兼ねていたんです。その通り、俺が家にいたら、父と兄は死ななかったかもしれない。ううん、初めて囲まれた時、俺が"ちゃんと殺して"いれば───」
私はその荒々しい本音を、引き寄せて肩で押し止める。
泣きもせずただ悔やむ小さな頭を撫でると、彼はゆっくりと呼吸を繰り返して落ち着きを取り戻そうとした。
「ご家族の死は、あなたのせいではありませんよ」
我ながら芸のない、当たり前の事実とありきたりな慰めを口にしたと思う。
けれど春野さんはそのことを、自分で言うことはできない。
私がそう言ってあげないと、認められないのだ。
沖田総司の感情を描くの難しい。
July 2025