sakura-zensen
春の雪
07話
心に巣食う苦悩を、口に出すのをおそれていた。自分がみじめであると認め、一層その姿をさらけ出すことになるから。どうにもならない過去を悔やむ弱さを、突きつけられるから。
でも、父と兄が死んだのは俺のせいではないと───わかっていたのに意地張って認めないでいた。それを人に言われることで、ましてや沖田先生が口にしたことで、その事実はあっけなく俺の体の隅々にまで行き届く。
炎の中に取り残されていた俺は、空の下へと連れ戻されてしまった。
俺を手籠めにしようとした隊士とその子分が、持病の癪が悪化したという理由で消えてから数日。芹沢局長の巡察という名の女遊びに巻き込まれた俺は、西新屋敷、俗にいう島原へと向かって歩いていた。
沖田先生も勿論一緒。先生は昨夜取り逃がした脱藩浪士を探すため、今回ばかりは局長の行動を嗜めていたのだが、西新屋敷へ行くと言うと顔色を変えた。目立つのは行けないと、羽織まで脱ぐものだから本気で遊ぶのか、何か考えがあるのか、と思案する。
───とん。
「きゃあ」
肩に何かがぶつかる衝撃と、微かな悲鳴がすぐそばでした。さっきまで、道中怪しい動きをしている者や、妙な視線などは感じないかとそれとなく周囲を見回していた為、傍を通り過ぎようとした女にぶつかり転ばせたようだった。
「申し訳ありません、不注意でした」
遠くに気を配りすぎて近くを見ていないなど、なんたる不覚。反省しながら転ばせた人の顔を覗き込んだ。
「大事おへん。うちこそ不注意どした、堪忍え」
「───さと乃さん?」
「え……」
見覚えのある顔に思わず名を呼ぶと、彼女は返事ともとれぬ声を漏らす。
さと乃さんはかつて祇園で芸妓をしていたひとで、診療所の元患者だ。そして兄とは恋人関係にあった人。
正式に紹介されたわけではなかったが、兄と共にいるところを度々目撃して話に少しだけ聞いていた。俺の顔も知っているはずだが、覚えているだろうか。
「すまんすまん、そこな妓。この者は廓はこれが初めてでな。つい気が昂ったらしい」
芹沢局長が調子よく俺のことを揶揄いながら笑うのを、ニコリと受け流しながらさと乃さんを立たせる。
「うち花屋の天神で明里、申します。御用がおありの節はどうぞよろしゅうに」
彼女はさと乃ではなく明里と名乗り、俺達から離れていく。
これから行こうとしていた店だけれど、この場で俺が個人の用件で引き留めるわけにはいかずに見送った。
しかし芹沢局長が、中々良い妓だったと鼻の下を伸ばして、今日の敵娼は彼女にすると言うのはさすがに聞き捨てならなかった。亡き兄の元カノを上司に寝取られるのは、なんか、ヤ……。
「局長、あの人はいけません」
「む? なんじゃ春野」
すかさず俺が異を唱えると、芹沢局長は一瞬眉を顰めた。俺がたてつくのは初めてなので、驚きと不快感の混じったような顔つきだ。
それをいかに和ませていくかは、常日頃沖田先生の行動を見ていたので心得ているつもりだ。よって、
「だってわたし、あの方に一目惚れしてしまったんです……♡」と、調子よくぬかしてみた。
「なに!? そうかそうか、そう言うことなら一向に構わん! わしが上手い事取り計らってやろう♡」
「ありがとうございまぁす♡ 芹沢局長大好きです♡」
「ふはははは! うい奴め♡」
たしか俺の想像上の沖田先生はこんな感じだったな、とやってみたが、なんとかうまくいった。ありがとう、沖田先生。
なお当の沖田先生はぽかんとしてしまっていた。
花屋へ行くと、芹沢局長が本当に話を通してくれて、沖田先生の馴染みだという小花さんと明里さん、そして数名の妓女が俺達を出迎えた。
何度か芹沢局長の酒席に参じたことはあるけれど、例にもれずこの日もどんちゃん騒ぎが瞬く間に始まる。
「春野はんいわはるんどすか、どうぞお楽に」
騒ぎの中、明里さんは俺の隣に座って小首をかしげた。
皆が俺をやれ初恋、やれ男になれ、とはやし立てるので若干恥ずかしいのだがそれを逆手にとるしかなかった。
「……春野、です」
「───……、え」
じい、と明里さんの方を見て名を紡ぐと、彼女はまじまじと俺の顔を見た。
「ちゃん……?」
「ん」
俺が彼女と対面したのは一年以上前だったのと、この場にいるはずがないと言う意識からすぐにはわからなかったようだが、今度こそ俺に気づいたらしい。
小さく頷くと、明里さんはほんの一瞬何かを考えるように視線を落とした。そしてすぐ、俺を部屋に誘いながらしなだれかかる。
「ええどすやろ? うち早よ、春野はんと二人きりになりとおす」
「おお、行け行け春野! 男冥利に尽きるではないか!」
明里さんの演技に、芹沢局長がまんまと乗せられた。
そんな訳で俺は大手を振って彼女と二人になることに成功。沖田先生には後で事情を話そうと、目礼だけでその場を辞す。
やや動揺があったが、表立って俺の行動を制することもなかった。
部屋について二人になった途端、明里さんは感極まったように俺に抱きついて来た。そこにあるのは妓女の醸す熱ではなく、姉のようなぬくもりだ。事実、兄が嫁にと考えていた人だもの、俺の義姉なのだ。
「ちゃん、ほんに、ちゃんなんやね……」
「はい。どうして、こんなところに」
俺は彼女の細い身体に腕を回して、背を優しく撫でた。
彼女は俺の問いに対して、お互い様だと苦笑した。続いて、女子が身売りするなど、金の為以外にはあり得ないだろうと。
故郷のお父上が倒れて、芸妓の稼ぎだけではどうにもならなくなってしまったそうだ。
「ちゃんこそ、刀なんてもってはって……どないして」
「兄上のことはお聞きですか?」
「───聞いてます。お父上と一緒に、長州浪士に殺されはったて……」
「俺は壬生浪士組で、二人の無念を晴らしたいんです」
「壬生浪!? そんな、ちゃんはお医者にならはるって、祐馬はん誇らしげにゆうてはったんよ……?」
「医者の道を諦めたわけじゃありません。壬生浪士組で武士として戦い、傷ついた隊士を医者としてお助けしたいんです」
明里さんは、兄が俺に武士になって欲しくないと言う思いを聞いていたかもしれない。けれど最終的には、俺が武士になること、医者としても生きていける道を応援してくれた。
もう、誰も俺たちを引き留める人はいないのだ。
漢になれたのう、めでたいのう、とあけすけに祝われながら帰る道中、沖田先生が俺の隣に並んで肩をぶつける。間合いを誤ることのない人なので、わざとぶつかり俺の気を引いたのだろう。
隣を見れば丁度、背を丸めて俺を覗き込んでくるところだった。
「明里さんとは、お知り合いだったのですか?」
先ほどまで、廓に潜んでいた下手人を捕まえる乱闘が行われていたので、沖田先生からの問いかけに若干拍子抜けした。
「何も、今聞かんでも」
「だって春野さん、時間が経つと改めて話す雰囲気じゃなくなるじゃないですか」
「あぁ~」
俺は思わず大口を開けて笑った。
沖田先生はあまり人の内情に踏み込まないので、こんな風に距離を詰めてくるのは珍しい事だと思う。でも俺の場合は聞かれなければ答えないことが多いので、自分から聞くことにしたらしい。
「明里さんは診療所で手伝いをしていたころの、患者さんなんですよ」
兄の恋人だった事実はあるが、生前既に別れていた為に、何とも言い難い。彼女の今後の仕事に響くかどうかも判断できかねて、その話はしなかった。
ああでも、沖田先生の馴染みの小花さんが同じ店で働いているから───
「今後、お店でよく会うようになるかもしれませんね」
「え……私と春野さんがってことですよね?」
「はい。わたしもあの店に通うようになるので」
そう報告しておくと、沖田先生は心なし、顔が白くなった気がする。ほけっとした顔で立ち止まってしまった。けれどすぐにテチテチと歩き始めたので、さほど気にするほどの動揺でもない。
もしかしたら、同じ店で女を買うのが気まずいのかもしれない。いやでも、浪士組の皆さんのあけすけ加減からして、そんな慎ましいわけがあるめえ。
「……沖田先生が行く日は避けましょうか?」
まさかと思うけど一応聞いておく。しかし沖田先生は慌てて否定したのち、うーんと頭を捻って俺を置いてすたすたと歩いていってしまった。
それから何度か、俺は花屋に出入りをした。明里さんは援助のつもりならよして欲しいと遠慮したが、懐かしい顔と昔話をしたいのだと願えば、困ったように笑って受け入れてくれた。
そのうち俺は明里さんから、客人から聞く噂を流してもらえるよう取り計らう。こういう場所は様々な身分の人が出入りをするからだ。
妓は床で得た内情を他者に漏らさないのが規則だとしても、俺と彼女は心の奥底にある絆を共にする同志というものだった。
ほかにも、町に繰り出しては人と話をして、噂にはよく耳を傾けるようにした。近頃大阪で壬生浪士組の押し借りが横行している、という噂を聞いたのも、小物売りの店主からだった。
「もっと詳しく知りませんか? 叔父が大阪に住んでいるんです……心配だな」
俺は心配するふりをして、店主と話しに応じていた客人に問う。
壬生浪士組は、以前ならまだしも今は困窮してないし、大阪までは少々距離がある。そこまでする理由も暇もない。しかし町人からすれば刀を手にして壬生浪士組と名乗られてしまえば、そう思ってしまうものなんだろう。
「詳しくゆうてもなあ、あたしらも話に聞いただけやさかい」
「壬生狼もここいらやと鼻つまみモンやろ、大阪くんだりまで金策に走るなんてなあ」
このように、店主と客はあまり多くの情報を知ってるわけではなさそうだった。彼らはかつて壬生浪士組が支払いを滞らせた反物屋から聞き知った話らしい。その不漁に首を傾け、やや項垂れる。
その時ふと、傍に立つ足音がした。
「───、買い物は済んだのか」
声色や佇まいから、振り向きざまに相手がわかった。
「兄上!」
今日ばかりは、間違いではなく大手を振って呼び掛ける。兄弟のふりをした方が人の目には角がなく映りやすい。
兄上もとい斎藤先生は、勿論壬生浪士組の羽織など着ておらず、俺が兄と呼んでも表情を変えずに小さく頷いた。
「……団子でも買って帰ろう」
「兄上の用事はよろしいのですか?」
「ああ、済ませたよ」
斎藤先生がくるりと踵を返すその背を、せっせと追いかける。元々一緒に来たわけではなかったが、こうして声を掛けられたと言うことは、付いて来いと言うことだろう。
店主や客に会釈をすると、気を悪くした様子もなく手を振ってくれた。
斎藤先生は黙々と宿所に帰りつき、先ほどのことは局長に報告してくると言って踵を返した。その口数の少なさからして、俺の知っている情報以上のことを彼は承知しているようで、これ以上深入りする必要はないと言うことだ。
しかし俺は大阪という場所に少し気掛かりなことがあったので、沖田先生の姿を探すことにした。
明里とデキてるという、さして問題のない勘違いを作ったけど、今後生かせるかどうかは不明です。
沖田さんはなんというか、主人公に性の薄さみたいなのを感じていたので、ちょっと驚いちゃった。
July 2025