sakura-zensen
春の雪
11話
空が白んで月の輝きが失われていくまで、そう時間がかかることはなかった。
斎藤先生も沖田先生も、周囲に気配を配りながらも休息をとることには慣れていて、寝息ともとれる深い呼吸の音をさせていた。
ここでひとたび、誰かの足音でもすれば刀に手をかけて起き上がるのだろう。
───……、
林の中に鳥のさえずりではない、物音が聞こえ始めた。
俺の予想通り、沖田先生と斎藤先生はゆらりと身体を起こした。
「迎えかな」
「そのようですね」
斎藤先生は立ち上がり、沖田先生はすぐに警戒を解く。
朝もやの影の中から、共に大阪に下ってきた隊士が数名と、山城の姿があった。山城は俺を見つけると飛びついてくる。
「春野はんっ」
逃げそびれた俺はすてーんっと地面に転がされた。こいつめ、調子に乗りやがって。
ぎゅうぎゅう抱きしめられている俺は、昨日の乱闘と徹夜のおかげで、引き剥がす気力がない。
「……くるちい」
沖田先生と斎藤先生は隊士たちに指示をしているので、俺たちは放っておかれていた。
隊士たちが堂に行く時になってようやく、沖田先生が俺を呼びよせた。さすがの山城も離れたので、汚れた着物を軽く叩く。
「春野さんにはまだやることがありますから」
「はぁい」
手招かれるまま、沖田先生と斎藤先生名前にノコノコと近づいて行く。
二人が手をそっと伸ばしてきたので、なんだろうと眺めていると両方の頬をぐにっと掴まれた。左右にほっぺたを引っ張られ、悲鳴を上げる。
「や"ーっ」
「あの、な、なにをしておいでで?」
山城はぎょっとして驚くが、両先生を止めることはできない。
一応理由を聞くまではしているが、二人が声を揃えて躾と言うので、なおさら手を出すことはできなくなった。
こうして、大阪での隊務は俺の頬負傷によって幕を閉じた。
京に戻り大阪での出来事を報告する場には、俺と沖田先生と斎藤先生が並んだ。
近藤局長と、土方山南両副長が向かい合って座り、その報告を聞いた。
「───そうか。春野くんが無事仇討ちを果たし、手柄も上げたと! これはめでたい!」
近藤局長は素直に感じ入った顔で笑い、なあトシ、と土方副長を見やる。
しかし仇討ちと言ったって、向こうは自決したので俺が討ったというわけではない。まあ報告は全て先生たちがし、俺は聞かれたことに答えるべくこの場にいるので口を挟むことはないのだが。
「それで、指導者については桂の名が出たと?」
「あ、はい───」
山南副長が話を戻したので、ようやく俺の出番がやってきて口を開く。
桂小五郎は現在京に潜伏しながら尊王攘夷派活動の扇動をしている者の一人だ。知略、指導力、剣術どれをおいても優れているのがもっぱらの噂。
出来うる限りで調べた動向を報告していると、皆さんは真面目に聞き入りあれこれと考えを巡らせた。
桂は逃げの小五郎と呼ばれるほど、その身柄の確保が難しい男だ。俺も現状顔がわからないので捕まえるということができないが───いずれ、会うことにはなるのだろう。
壬生浪士組では、俺は手柄を挙げたことと、仇討ちを果たしたことが周知となった。なぜだか沖田先生と斎藤先生と並んで戦ったとも思われており、稽古ではそんな俺を相手にしようという隊士が次々やってくるものだから、目が回りそうにもなった。
「春野、お望み通り"構って"やるぞ」
「───!」
入り乱れての鍛錬の中で、土方副長までもが俺の前に立った。
副長は新入隊士の見極めや新しい采配などで忙しくしてたので、その貴重な姿に一瞬茫然としたほどだ。
いい加減つかれたと尻餅をついていたが、反射的に飛び上がって立つ。
「やったあ!」
思い切り距離を詰めて笑った。面食らった土方局長は、俺の少し汗ばんだ額にべちっと手をついて距離をとる。
「落ち着けってんだ、犬かお前は」
隊内でも怖い方である土方副長だが、案外俺のこういう失礼な態度は許されつつある。いつぞや「総司に似てきやがったな」といわれたけど、親近感を抱かれたのかもしれない。しかし、果たして俺は沖田先生に似てるだろうか。沖田先生当人は俺を「斎藤さんに似てる」っていうし、今度斎藤先生に俺が誰に似てるか聞いてみるか。……いや誰にも似てないだろ。
土方副長は相変わらず、俺を全力で打ちのめしにかかってくる。
天然理心流というのはかなり実践的な流派であり、攻撃においても個人差はあれど皆、『真剣で相手を斬れたか』までを想定して一本とするので、こういった打ち合いでも他の流派の者より気合の入り方が違った。
つまり土方副長は殺気の様なものまで感じる。なんというか、喧嘩好きの血が騒ぐ、みたいな。
俺も人と戦う時に高揚感を感じるが、土方局長はもっと野生的、原始的、刹那的、とか言ってみたりして。
「ま、参りましたーッ!」
当分の間は喜んで相手をしてた俺だが、いい加減体力が限界になってくる。だってこれまで十三名と打ち合ってたんだもんね。
そう思って土方副長に終わらせてもらおうと合図を出したが、怒涛の打ち込みは続いた。
「そんな言葉が通用するかっ」
「ぎゃ、なんで!?」
もうやだ~~~! 疲れた~~~!!
俺は土方副長のギラギラした視線から、全力で逃げ出す。
「逃げるな! 男なら戦いやがれ!」
周囲の隊士たちがギャハギャハ笑っている群れに飛び込んで、身を隠した。最終的には近藤局長の後ろに逃げ込む。
「トシ、もう十分だろう? 春野くんもいい加減体力が限界のようだ。身体を壊しては元も子もない」
「近藤さん、どいてくれ。そいつはもっと叩いたところで、壊れやしねえよ」
俺は近藤局長の背で、熱烈な土方副長の声を聞いてヒンッと鳴いた。
それから隊内ではこまごまと、荒事だの心配事だのお国事だのがあったが、俺の日常はさして変わらず。
八月十八日には天子様の警護に当たるという大仕事に参加。最速で駆けつけてはほとんど出番がないという結末に終わった。一方では尊攘派の公卿と長州勢が京を追われており、壬生浪士組はその拍子に『新撰組』という名を賜った。
壬生浪士組宿所の看板が新撰組という名の物に代わり、近藤局長が感涙を零している姿、みっともないと諫める土方副長、笑っている隊士の顔ぶれを見ながら俺は、ひそかに違う感動を抱く。
歴史が刻まれる瞬間だ。
───「最強の組に育てる」
そう土方副長が口にしたこともあり、壬生浪士組は新撰組として一層の精進を誓った。目に余る行動を起こす隊士は粛清すべし、だ。
手始めは芹沢先生の側近でもあり、副長の地位にいた新見先生だった。
芹沢先生の名をつかって放蕩、押し借り、職務怠慢の咎がおよび詮議され、切腹。その実抵抗したので沖田先生が斬ったが、本人の名誉と芹沢先生の顔を立てて、真相は闇の中だ。
次なるは、だれかしら。と考える間もなく、新見先生追悼と称した宴会で、芹沢先生と配下三名の水戸派が悉く酔わされる姿を目撃した。
俺がお花のように可憐な顔して芹沢先生に酒を注ぐのはいつものことだが、近藤局長、山南副長、土方副長まで続けばそれはもう天変地異の前触れである。
「今宵は槍でも降るのか……?」
芹沢先生とて、さすがに酔いが醒めそうになっている。
瞬間三人の顔つきが若干強張ったのを俺は見逃さなかった。
酩酊した四名は籠で八木邸へと送られ、残る者たちは外泊自由を言い渡されめいめいに店を後にした。妓を買いに行くものや、宿に帰る者など様々だ。
俺と沖田先生も前川邸に戻り、何食わぬ顔して部屋に戻される。
外はしとしとと雨が降り続けており、微かに誰かが外を歩く足音がした。
「九つでござーい」
深夜0時を回る時報が聞こえ、ふと起きだす。
同室の者たちは不穏な気配も露知らず、深い眠りの中に居た。
上の者が内密にことに及ぼうとするとき、下の者が出る幕はない。知らん顔で眠るのが正解だろう。───しかし、俺はどうにも身体が落ち着かなかった。
火傷の痕が疼くような熱を寄越すので、雨の冷気を求めるように部屋を出た。
しばらくして、前川邸を出た通りの前を沖田先生が歩いてくるのを見つけた。
傘もささず、黒い着物姿で雨にうたれている。
「春野さん?」
先生は俺に気づいて足をとめた。傘をさしている俺はこの薄闇の中で顔などはよく見えないはずだが、どうしてわかったんだろう。そう思って尋ねると、沖田先生はあっと自分でも驚いたような顔をする。
「……なんでだろう」
「?」
近づいて傘を掲げながら、沖田先生を中に誘い入れる。
既にびしょぬれだけど、無いよりはましだ。
「……、春野さんなら」
言いかけた時、遠くで悲鳴が上がる。
八木邸の方からだ。芹沢先生が奸賊に押し入られて斬られた、と叫んでいるのが聞こえた。
ふと沖田先生の顔を見ると、八木邸の方を一瞥してから俺を見て、何事もなかったかのように、途切れた言葉を続けた。
「春野さんなら私を迎えに来てしまう気がして」
俺が気づいていることに、沖田先生も気づいていたようだ。
自然と手を広げると、さっきよりももっと近づいてくる。雨の匂いにまみれていて、血の匂いはしなかった。そもそも、血を浴びないように斬ったのだろう。
でも、沖田先生自身はずっと血の匂いを感じてるような気がして、抱きしめてから頭をそっと俺の肩に押し付ける。
俺が火の中から救い出されたように、雨をしのげる傘の中で、せめて少しの安らぎを感じられたらいいと思った。
沖田先生は別に泣きもせず、震えもせず、ただ静かに息をしているのが触れた背中からわかった。
「芹沢先生に、桜を見に行きましょうと、いったんです」
肩で声がした。ん、と聞き返しても同じ言葉はない。ただ、沖田先生は雨の中に隠れてしまいそうなひそやかな声で続ける。
「わたしは、なんであんなことを言ったんでしょうね」
「そんなの、見に行きたかったからじゃないんですか、芹沢先生と」
感傷に浸るのならそれでもいいが、沖田先生はそうではない気がして俺は軽く返した。
そっと顔を起こした先生の顔は暗くてよく見えなかったが、息遣いでふっと笑みをこぼしたのが感じられた。
「そうです。私は、芹沢先生と桜を見に行きたかったんです。本当に」
言いながら沖田先生は俺の手から傘を取り上げた。屈んでいるのが疲れたのだろう。すみませんねえ、小さくて。
帰る足取りは泥濘をきにしてか静かで、歩幅は狭かった。
いつもなら勝手に追いついてくると思って歩く速度を変えない沖田先生だけれど、今は傘から追い出さないようにと心がけているのだろう。
雨と感傷が、俺の近くにいることを沖田先生に選ばせた夜だった。
土方さんは主人公を可愛がってる。
Aug 2025